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【日本史10】大正史備忘録4(桂再登板・第3次桂内閣・第一次護憲運動・内閣不信任案・第3次桂内閣総辞職・大正政変)

大正時代の学習を深めていきます。

①元老たちは西園寺の次の首相を誰にするかを話しあった。

長州閥で陸軍大臣や朝鮮総督府の長官であった寺内正毅を候補に挙げたが陸軍と長州閥に対する批判が高まっていたので山縣有朋は推挙を取り下げた。

②協議により元老たちは桂太郎の再登板を決めた。大正天皇に推挙した。桂は大正大臣から「内大臣兼侍従長を退任して首相に転じることを許可する」という勅語を得た上で組閣をした。

③1912年(大正元年)12月21日に第3次桂内閣(15代目)が発足した。元大蔵次官の若槻礼次郎が大蔵大臣、元駐英公使の加藤高明が外務大臣、元警視総監の大浦兼武が内務大臣、元台湾民政長官・元鉄道院総裁の後藤新平が逓信大臣である。

桂は藩閥政治の脱却を心得ていた。

④1913年(大正2年)1月20日に桂は中央倶楽部を母体とした新党結成を発表した。政友会や立憲国民党の取り込みを試みた。しかし憲政擁護会を中心に政友会と立憲国民党、国民は桂へ反発した。

⑤陸軍の2個師団増設問題および大正天皇の勅語を首相就任に利用したと映ったからだ。1月24日に東京市内で憲政擁護会が桂内閣を糾弾する集会を開催して約3000人集まった。

⑥これが第1次護憲運動という大規模政治運動に発展した。大正デモクラシーの始まりである。西園寺公望と腹心の原敬は桂太郎と友好関係にあったが世論の高まりから憲政擁護会を味方した。

⑦桂を支持する中央倶楽部所属議員を含めて衆議院の議席の1/5であった。政友会と立憲国民党は1913年(大正2年)2月5日に衆議院に内閣不信任案を提出した。

桂太郎は2月9日まで帝国議会を一旦停止にした。

⑧大正天皇は政友会に対して内閣不信任案を撤回するよう勧める勅語を出したが逆効果だった。桂が天皇を政治利用したと捉えられて内閣への反発が強まった。

⑨2月10日に帝国議会は再開した。数万人の群衆が議事堂を囲んで大規模な抗議デモを展開した。

警備警官隊とデモ隊は衝突をした。大臣官邸や鋼板や桂内閣を支持していた『国民新聞』の社屋を襲撃した。

⑩桂内閣の弾劾運動は各地の主要都市まで広がった。桂太郎は内閣を総辞職した。第3次桂内閣は53日で終焉した。

⑪国民のデモで政権が倒れたのは日本の歴史で初めての事だった。

2個師団増設問題から第3次桂内閣の崩壊までの流れは大正政変と云われる。

■参考文献 『1冊でわかる大正時代』 大石学 河出書房新社

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