【歴史概要90】南朝朝貢・ヤマト政権・氏姓制度
①隋が台頭する前である3世紀から5世紀の中国大陸は
南北朝時代と呼ばれる分裂状態にあった。
②北部では小国が入り乱れた後に北魏が成立し南部では晋(東晋)のあとに宋、斉、梁、陳という短命王朝が続いた。
③倭は南部の王朝と度々交渉した。歴史書の『晋書』によれば413年に倭の王は晋の安帝に接触している。ここに邪馬台国の時代から約150年ぶりに外交関係の形跡が現れた。
④『宋書』によれば421年には宋に倭の讃(さん)という王が朝貢してから478年までに珍、済、興、武という4人の王が宋に使節を送っている。武王は宋滅亡後には502年に梁に使者を送った。
⑤讃、珍、済、興、武はそれぞれ履中天皇(17代目)、反正天皇(18代目)、允恭天皇(19代目)、安康天皇(20代目)、雄略天皇(21代目)と云われている。ただ最後の武王を履中天皇(17代目)or応神天皇(15代目)、仁徳天皇(16代目)に当てはめるなどの異説もある。
⑥『日本書紀』には雄略天皇は大王(おおきみ)の呼称をはじめて使い100国以上を平定したとある。この五王時代にヤマト政権が日本の統一を進めつつあったと云われている。雄略天皇は実在が証明された最古の天皇である。
⑦倭の五王は高句麗に対抗するために中国大陸の南部王朝にお墨付きを求めたと云われている。珍王は倭のみならず朝鮮半島の百済、新羅、加羅など6国の軍を指揮する安東大将軍を名乗り宋に正式な任命を求めた。
⑧珍王は宋から格下の「安東将軍 倭国王」という称号を与えられている。斉、梁と王朝が変わっていくと武王が格上の「鎮東大将軍「征東将軍」といった肩書きを得た。
⑨倭の五王と大陸の南朝が外交関係を結んだ4世紀から5世紀には日本に漢字が伝わった。
6世紀には医術や医法や暦法、儒教や仏教の経典も伝わった。また農耕や運搬、戦闘などのために馬が飼育されるようになるが高句麗から伝来したと云われている。
⑩この時代が古墳時代である。近畿や九州地方では大きな墳墓がつくられていた。現在も残っている。古墳時代には東北から九州まで各地に豪族が存在してヤマト政権の王は大王と呼ばれていた。天皇という呼称は7世紀後半ごろから使われる。
⑪地方でヤマト政権の陵墓(大王の墓)と同じ前方後円墳をつくった豪族はヤマト政権と同盟関係にあった小国の王と考えられている。大阪府にある大山古墳は仁徳天皇の陵墓だったと云われている。全長は486mあり2万体もの埴輪が埋まっていた。
⑫巨大な墳墓は多くの人々を土木作業に動員できる権力と財力をもった強大な政権があった事を物語っている。
⑬この時代は強大権力を持つ国家が台頭し身分制度を整備していった。ヤマト政権の大王による豪族の支配システムは氏姓制度である。大王の配下の豪族は血縁単位で氏に組織されそのランクごとに臣下の印として姓が与えられた。
⑭臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、君(きみ)などの呼び名があった。これは貴族の爵位のようなものだ。蘇我氏や大伴氏などの有力豪族は臣や連など上級の姓を受けて政治に関わった。大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)という地位に就いた。
⑮事務や財政、工芸などに関わる官僚は伴造(とものみやつこ)と云われた。多くの渡来人が従事していた。地方でヤマト政権に従う豪族は国造(くにのみやつこ)に任じられた。
⑯大王は政治的な権力者であり神官でもあった。神を祀る祭事と臣民を支配する政治は一体であった。
豊作を祈る祈年の祭りや収穫に感謝する新嘗の祭りを取り仕切った。これは現在の天皇家にも継承されている。また盟神探湯(くかたち)という裁判制度が生まれた。
⑰7世紀以降は地方では巨大な前方後円墳は作られなくなり古墳時代は収束した。地方の有力な豪族が大和政権に服属する体制ができあがったからだと云われている。
■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 上』小和田 哲男 日本経済新聞出版社
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