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【歴史概要84】琉球王国・薩摩藩・琉球征伐・沖縄県

①琉球王国と島津の関係は文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の頃から変わった。

1592年(文禄元年)に豊臣秀吉が琉球王国を薩摩の属国として認知した。島津は琉球王国に朝鮮出兵のための兵糧米を要求した。

②琉球王は要求の半分の米を貢ぎ、残り半分を島津に借りて払った。琉球王国は明の冊封下にあったので明に秀吉の野望を忠告していたと云われている。家康は海外との友好を望んでいた。明と再貿易をしたかったので琉球に貿易の仲介役を頼んだ。

③当時の琉球国王・尚寧は朝鮮出兵時に協力を強いられ幕府に不信感を抱いておりOKを出さなかった。

交渉役であった薩摩藩の面子は潰れた。

④薩摩藩は朝鮮出兵と関ヶ原の戦いで敗北し財政危機に陥っていた。藩主の島津家久は無礼な琉球王国に武力侵攻して奄美諸島を割譲して財源を確保して財政を再建しようと考えた。

⑤島津家久は伏見城で家康に尚寧の非礼を申し出て琉球討伐の許可を取りつけた。1609年(慶長14年)2月26日に総大将の樺山久高が率いる薩摩兵約3000人と軍艦約100隻が薩摩を出航した。

⑥島津軍は奄美大島に上陸し戦わずに制圧した。続いて徳之島、沖永良部島を制圧した。3月25日には沖縄本島の今帰仁港に入港した。琉球王国は3000の兵士で迎え撃った。

⑦島津軍は那覇港と首都にある首里城を落とすために海と陸の2隊に分かれた。那覇港へ島津の軍艦が侵入を試みたが2門の大砲にはばまれた。陸自の部隊は北から首都に向け放火しながら進軍した。浦添城や龍福寺が燃え尽きた。

首里の北では琉球軍の首里防衛隊と交戦した。

⑧琉球軍の兵器は弓だったので銃を用いた島津軍の敵ではなかった。島津軍は首里になだれ込み琉球王国は無条件降伏した。
首里島は島津に明け渡され、王子が人質として差し出された。

⑨尚寧が薩摩に送られ1年間とめ置かれた。駿府の家康、江戸の秀忠(2代目)のもとに招聘され歓待を受けた。

⑩徳川家は尚寧を独立国の王として遇した。琉球を通じて明との国交を回復して貿易再開を目論んでいたからだ。尚寧は薩摩に送られてから2年5ヵ月で琉球に戻った。

⑪幕藩体制では琉球王国は独立の体になっていたが実際は薩摩藩の支配下に置かれていた。

琉球王国は慶賀使と謝恩使を幕府に派遣する事となった。琉球王国は江戸幕府と明に二重外交していた。

⑫薩摩藩の島津家により琉球で刀狩りと検地が行われた。8万9086石が琉球王家に与えられた。奄美諸島は琉球王国に属しながら薩摩藩の直轄領となった。

⑬島津は1611年(慶長16年)に15条の掟を定めた。これにより薩摩藩の許可なく明に朝貢する事、許可のない商船の受け入れを禁止した。こうして琉球王国は財政の負担が増えた。

明との貿易実権は薩摩藩のものとなった。

⑭国力が衰退した明が2年に1回から10年に1回に変更する旨を通達してきた。この通達は琉球王国にとって国の財政を揺るがす打撃となった。

⑮琉球王国は明や清に銀や昆布などを売り絹や生糸を仕入れて大阪の市場などで売っていた。その利益は島津家や薩摩への借金返済にあてられた。琉球館(薩摩にあった役所)に出入りしていた薩摩藩の御用商人は琉球産の砂糖やウコンを安く買い上げて国内の市場で高値で売り利益を出していた。

⑯江戸の鎖国体制では主に4つの外交窓口があった。

オランダ・清との貿易を行った長崎、朝鮮と対馬、琉球と薩摩、アイヌと松前であった。

⑰明治新政府は琉球王国を完全に自国領にするために琉球藩とした。琉球王尚泰を藩王とした。1879年(明治12年)に琉球藩は廃止され沖縄県を設置した。独立国であった琉球王国は消滅した。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 下』 小和田哲男 日本経済新聞出版社

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