【日本史7】鎌倉史備忘録17
鎌倉時代の学習を深めていきます。
本日の学習は、
①1219年(建保7年)に鶴岡八幡宮に参詣した源実朝が兄の頼家の遺児・公暁に殺害された。公暁が実朝を親の仇と思い込んだことによるものだった。事件後に公暁は三浦義村を頼るが倒された。
②この事件には黒幕説がある。その代表が北条義時と三浦義村である。義時は鶴岡八幡宮の神事を急遽キャンセルした説や義村は公暁と結託して義時と実朝の暗殺を計画していた説などがある。
③しかし義時黒幕説や義村黒幕説は無理が多い。
未だに実朝暗殺事件の真相は明らかになっていない。
④実朝が亡くなった事で源氏将軍の血脈は3代で終焉。鎌倉幕府は
大きな転換期を迎える事となった。実朝は京都文化に傾斜しており藤原定家の指導を受けていた。『金槐和歌集』を残している。
⑤平氏が安徳天皇(81代目)を連れて都落ちをした後、1183年(寿永2年)に4歳の後鳥羽天皇(82代目)が即位した。
⑦1198年(建久9年)に19歳になった後鳥羽は為仁親王(土御門天皇/83代目)に譲位して上皇として院政を始めた。当時の朝廷は幕府との合議路線を目指した九条兼実が失脚しており反幕府派の源通親が権力を握っていた。
⑧後鳥羽は院政で実権を握る上皇として権力を集中させて各地に分散する天皇家領を手中に収めて経済的基盤を強化していった。幕府側は実朝の婚姻に代表されるように朝廷とは協調路線をとっていた。
⑨1219年(建保7年)に源実朝が暗殺されると朝廷と幕府の関係は悪化した。後鳥羽は幕府への不信感を募らせた。幕府は将軍の不在を焦り、後鳥羽の皇子を鎌倉に迎えて親王将軍の座に就かせたいと要望したが「日本国が2つに分断される」として反対された。
⑩1219年(承久元年)には「天皇の息子ではなく天皇に次ぐ摂関家の息子なら鎌倉に行かせてよい」という後鳥羽の譲歩で藤原道家の三男の三寅の鎌倉行きが決定した。
⑪しかし源頼政の孫である源頼茂が「三寅ではなく私こそ将軍になるべきだ」として謀反を起こした。
京都の御家人たちは後鳥羽に訴えて後鳥羽の召喚命令に応じなかったことで追討の院宣が出された。
⑫追討はうまくいったがこの戦いで都の大内裏が一部焼失した。速やかに再建を開始したが莫大な復興費用の負担を御家人や寺社が求められたため大きな抵抗にあった。この抵抗を幕府が抑えようとしなかった事も後鳥羽の心境に影響を与えた。
⑬後鳥羽のなかで幕府に対する不満は限界を迎えていた。
■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社
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