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自分の頭で考える

我々は自らを主体だと思っているが実態はシステムが優位である。我々は実存のなかに放り込まれているがそれが現実である確証はない。

我々は主体的に発言をしているようだが実態は無意識の言語に規定され続けている。我々は主体的に働いているようだが実態は下部構造に規定され続けている。我々は主体的に考えているようだがその材料はテレビやネット情報に規定され続けている。我々は主体的にネットを使っているようだが実態はアルゴリズムに規定され続けている。

過去の慣習を継承した他者の影響を大幅に受けながら自己が存在する。そういう意味では自身にオリジナリズムを見出すのは幻想である。オリジナリズムを誇示するよりルネサンスを探究する方が創造性があり刷新力があるのは偶然ではなく必然である。そちらの方が歴史に適うのも当然の事である。

自然法に基づく実定法によって個々人を設定して個々人に権利を付与するとともに社会的な義務や責務を課したのが近代社会だ。

また憲法によって権力を縛ると同時に公共の福祉に反しない限り個々人を尊重するものだ。ではこういった制約を受けながら自分の頭で考えるにはどうすればいいのだろうか。それは前述した近代システムの常識を踏まえつつ信者化しないという事である。

この信者化というのは無宗教とか有宗教とかそういう話ではない。どのアイドルが好きとかどのインフルエンサーが好きとかどの国が好きとかではない。どの政党を応援しているとかどの企業の従事者なのかではない。

ここは近現代国家に住む個々人としての重点とは云えない。重要なのはその人の思考回路とそこから展開されるアティチュードである。

即物的な人治主義的な判断を保留にするという事だ。すなわちすぐに他者の解釈を真に受けて答えを出さないという事だ。「信頼しているこの人が云っているから絶対的に正しい」と吹聴しない事だ。

道聴塗説という熟語はあらゆる信者に該当するものだ。耳から入ってきた他者の情報を頭を介さずに伝える行為である。詭弁家は内容が咀嚼されていないからこそ高速でかつ断定的に話せるのである。

「〇〇さんが〇〇と云ってました」という思考をくり返すだけでは自らの思考回路の錬磨にはならない。鸚鵡返し(テンプレ)を何十年くり返しても自らの構文にはならないからだ。この帰結がエーリッヒフロムが警鐘を鳴らした権威主義的性格に繋がる。

家庭環境や学校教育や企業風土や宗教教義に嵌るからロボットになるとは表層的な話だ。本質的には即物的な人治主義的な判断を真に受け続ける事で権威の鸚鵡返しが常態化するからだ。

私たちは外部からの影響を必ず受けるがすぐに答えを出す必要はない。答えというのはワンフレーズで出せるものではない。いくつかの構文で出されるほど答えというのは錯綜している。

多大な時間をかけて総合的な経験値を経て科学的な実証や法的な判例の積み重ねのなかで咀嚼された構文のなかで判断をしてからでも遅くはない。

とりわけこれだけスピーディーに情報が行き交う社会である。速読よりも遅読をして自らの読解力を鍛える事が身を助ける事となるだろう。

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