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【歴史概要74】武帝政策・東アジア世界形成・農本抑商

①秦帝国が滅亡した頃にモンゴル高原では匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)が大遊牧帝国を建設した。これが中国にとって脅威となった。

②劉邦は匈奴と戦うが白登山の戦いで敗北して匈奴政策は消極的になっていった。

③武帝(7代目)の時代となり方針を大きく変えた。

モンゴル高原に衛青や霍去病(かくきょへい)など武将を派遣して匈奴にダメージを与えた。西方勢力との連携をはかり匈奴に追放された大月氏(だいげっし)との協力を実現するために張騫を使者として大月氏に派遣した。

④作戦は失敗に終わったが張騫の報告で中国には西域の情報が入った。武帝は脚力を持つ汗血馬を求めて武将である李広利を中央アジア西部のフェルガナ(大宛)地方に派遣した。

⑤フェルガナ遠征は苦戦したが再度の遠征で小国家フェルガナを
屈服させた。そして多くの良馬を獲得した。西域にも漢の勢力が拡大していった。

⑥他にも匈奴に屈せず帰国した蘇武や匈奴の捕虜となり匈奴に仕えることとなった李陵などの活動が知られている。

⑦武帝は朝鮮半島にも軍隊を派遣した。朝鮮を支配していた衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡などの4群を設置した。

朝鮮北部は中国の支配下となった。BC1世紀中ごろに高句麗が建国されたが朝鮮勢力が中国勢力を撃退するのは4世紀である。

⑧南部ではヴェトナム北部に軍を派遣した。

交趾(こうし)郡や日南(じつなん)群などの9群が置かれてヴェトナム北部が中国の支配下となった。

⑨後漢の時代になるとチュン・チャク(微側)やチュン・ニ(微弐)姉妹が中国に対抗したが反乱は鎮圧された。以後ヴェトナムは10世紀まで中国の支配下となった。

⑩このような情勢で漢字や儒教、仏教などが伝えられ、これらを共通の文化基盤として東アジア世界(倭も含む)が形成されていく事になる。

⑪積極的な対外政策が行われたため中国の国威は広がったが漢の財政は窮乏した。

武帝は財政再建のため桑弘羊(そうこうよう)を登用した。主に法家政策を推進した。ベースとなるのは農本抑商である。

⑫農本策は一般農民の立場を守ろうというものだった。

大土地所有を厳しく抑制しようとしたが豪族の反対で効果は期待できなかった。

⑬抑商策は後の歴史にも影響を与えた。主に塩鉄の専売と平準・均輸を法家的な厳しさで行った。秦の半両銭に代えて五銖銭を発行し政府が貨幣の鋳造権を握り商人たちを抑圧した。

⑭成果はあったが反発は大きくなった。武帝の亡き後、反対する儒者たちと桑弘羊との間で論争が行われた。その記録は『塩鉄論』に残されている。

⑮儒者たちの後ろ盾として霍光(かくこう)がいた。霍光は宣帝(10代目)の外戚であり匈奴討伐で名高い霍去病の異父弟だった。中国の政治史は宦官と並びこの外戚が権威を持っていた。

⑯漢の政治は武帝以降は外戚勢力が行っており最後は外戚の1人である王莽が漢を倒してBC8年に新を建国する事となった。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 上』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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