【歴史概要64】ヴァレンヌ事件・第1共和政・ジャコバン急進政権
①1789年10月から事態が急変していく。パリの婦人たちが「パンをよこせ」を叫びながらヴェルサイユを行進し国王夫妻をパリに連行した。チュイルリー宮殿で市民の監視の下に置かれることとなった。
②1789年から1791年にかけて国民議会は教会財産の没収、それを担保にしたアシニア紙幣の発行、ギルドの廃止、営業の自由の保障などの改革を行った。聖職者全員は国家公務員にされ多くの教会財産を失った。
③1791年にルイ16世とマリー・アントワネットはパリを脱出しウィーンへの逃亡をはかったがヴァレンヌ村で発見されパリに連れ戻された。ヴァレンヌ事件である。これをきっかけにフランス市民の国王への不信感は高まった。
④1791年9月には新憲法が成立し立憲君主制に基づく立法議会が成立した。
右側の議席は立憲君主制を支持する穏健なフイヤン派、左側を占めたのが共和政を要求するジャコバン派が座っていた。
⑥ジャコバン派の中でも急進派のモンターニュ派が上部を占めていた。ロベスピエールやダントンが中心的リーダーであった。フイヤン派とジャコバン派の中間にはジャコバンから分離した穏健派のジロンド派がいた。
⑦1791年8月にフランス革命に危機感を持っていた周辺諸国のオーストリアとプロイセンがピルニッツ宣言を発表し革命干渉を宣言し宣戦した。ジロンド派内閣と戦争を決意し1792年4月にオーストリアに宣戦した。
⑧国内情勢が混乱していたフランスは劣勢であった。オーストリア・プロイセン連合軍が国境地帯に侵入してきたのを防げなかった。立法議会は全国に義勇兵を呼びかけた。
⑨パリに集まった義勇兵は8月に王権を停止した。ルイ16世はタンプル塔に幽閉された。王権の消滅により立法議会は終焉した。
義勇兵の中でマルセイユの兵士たちが歌っていた歌が後のフランス国歌となった。
⑩1792年9月に義勇兵はヴァルミーでオーストリア・プロイセン連合軍に勝利した。この中で行われた男子普通選挙で国民公会が成立した。王政の廃止と共和政が宣言された。これが第1共和政の始まりとなった。
⑪立憲君主派がいなくなった国民公会でジャコバン派の穏健派であったジロンド派とジャコバン派の急進派であったモンターニュ派が対立した。中間派は両者の間で揺れ動いた。国王の裁判では圧倒的多数の賛成で国王の有罪が決定した。
⑫国王裁判では圧倒的多数の賛成で国王の有罪が決定した。1793年1月にルイ16世は処刑された。このフランスの状況に周辺国家は改めて危機感を抱いた。イギリスの首相ピットは対仏大同盟を呼びかけた。フランスへの干渉が本格化していった。
⑬ロベスピエールを指導者とするモンターニュ派は議会からジロンド派を追放し公安委員会や革命裁判所を組織した。
革命への反対者を逮捕、処刑していく恐怖政治が確立された。マリー・アントワネットやジロンド派の主導者の1人ローラン夫人を処刑していった。
⑭民主的な1793年憲法を制定、封建的特権を廃止し農民に土地を無償で分配するなどした。
⑮啓蒙思想をベースとして反キリスト教的施策を推進。グレゴリウス暦を廃止し革命歴を制定、神に代わる理性崇拝、メートル法、徴兵制の導入などさまざまな施策を行った。
⑯土地を手にした農民が革命の急進路線を嫌って保守化していきその他の穏健派や保守派も巻き返し始めた。過酷な恐怖政治に政権内部でも反対の声が大きくなった。
⑰1794年にテルミドールの反乱で穏健派によってロベスピエールは処刑された。これにより恐怖政治は終焉した。国民公会に代わって総裁政府が成立した。
しばらくはジャコバン派の残党のテロ活動が続いたがこれ以後フェイズは変わりナポレオンの出番となった。
■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 下』 関 眞興 日本経済新聞出版社
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