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【歴史概要89】邪馬台国・百済・加羅・高句麗

①『三国志』「魏志倭人伝」によると倭国大乱の結果、倭の諸国は邪馬台国の女王を共通の王とした。卑弥呼は鬼道(まじない)に長けた巫女で政治実務は弟が補佐したと云われている。

②政権を担うリーダーというよりかは小国連合の象徴的なまとめ役であった。邪馬台国を中心とする国家連合には全部で約30の国が参加していた。

③『漢書』「地理志」ではBC2世紀~BC1世紀ごろ倭には約100の国があったと云われているので大乱を経て小国の統合が進んだと考えられる。

④卑弥呼は239年に魏に使節を送って奴隷を献上した。親魏倭王の称号と金印、多数の銅鏡を贈られた。

⑤この時代は魏・蜀・呉の三国時代であり魏は呉の背後に位置する邪馬台国との同盟を望んだ。

⑥邪馬台国には傘下の各国を治める大人、平民にあたる下戸、奴隷という階級があった。卑弥呼のもとには千人の奴隷がいたとされる。

⑦邪馬台国は近畿か九州どちらかにあったとされる。距離や方位のあてはめ方で位置が九州北部とも大和地方とも解釈可能である。後の大和政権とも関連性は高いと推測される。

⑧卑弥呼が魏に使者を送った後に、狗奴国(くなこく)との戦争で荒廃した。247年ごろに卑弥呼は亡くなった。男の王が立てられたが内紛は続いた。新女王である壱与は魏に代わった晋王朝に対して266年に使者を送っている。

⑨これ以降大陸の歴史書から約150年もの間(266年~413年)倭についての記述がなくなる。

この間には倭は朝鮮半島と交流していた形跡がある。朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三大勢力が争っていた。

⑩半島の南端部にあった加羅(任那)は小国が分立した状態であった。ここは製鉄が盛んであり、倭人を受け入れたり交易などを行っていた。主に三大勢力のなかで倭と交流を深めていたのは百済であった。

⑪倭は百済から多くの文物を取り入れた。奈良県の石上(いそのかみ)神功にある七支刀は372年に百済王から神功皇后に贈られたとされている。応神天皇(15代目)が受けとったと云われている。

⑫倭は朝鮮半島の勢力争いにも介入していた。現在の中国吉林省集安市にある好太王(広開土王/高句麗19代目)の石碑がそれを物語っている。

⑬391年に倭が百済と新羅を支配下に置いたが高句麗が百済を討伐した。400年には5万の兵を投入して倭や加羅の軍と戦い、404年には再度朝鮮半島に侵入した倭軍を討伐している。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 上』小和田 哲男 日本経済新聞出版社

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