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#055.楽譜の書き込みについて その1

コンクール直前に部活指導に行った時は特にですが、みなさんのパート譜を見て思います。

書き込みしすぎ。

パート譜が真っ黒、もしくは持ってる色ペン全色使ったのかカラフルに塗装された現代アート。音符がどこに書いてあるかさっぱりわからない「元」楽譜の何を見てみんなは演奏しているのだろう、と思ってしまいます。

音符を塗りつぶし読むことが困難になったら楽譜は、もはや単なる紙です。今回のお話をする前にまず楽譜とは何なのかを考えてほしいので、ぜひ前回の記事「暗譜について考える」もご覧ください。

楽譜とは何か

楽譜とは、作曲者が頭の中で思い描いた音楽を、第三者へ伝えるために書き記したデータです。しかし楽譜は記録の方法にある程度のルールがあるために作曲者はあらゆる部分で妥協する必要があります。例えばフォルテ『f』という記号は、「歓喜のフォルテ」も「怒りに満ちたフォルテ」も「悲しみのフォルテ」も、楽譜にするとぜんぶ「f」の記号になってしまうため、楽譜の記号だけ見ていてはその場面がどんなイメージなのか理解することができません。したがって演奏者は作品に込められた作曲者のイメージやメッセージを楽譜の奥まで入り込み、感じ取ることが必要です。

楽譜に書かれている表面的なデータだけを抽出して演奏してしまえば、奏者は単なる「作品を再生する機械(しかも機械ほど正確ではない)」になってしまいます。演奏者のすべきことは前述の作曲者の持っているイメージを楽譜から汲み、さらに作品に対して(自由に)感じたことや、その作品を自分はどのように演奏したいか(何を聴く人へ伝えたいか)、そうした意思を演奏に込めることが重要です。複数人で作品を完成させる場合は、全員の方向性を決めることも大切ですし、さらに大人数の場合はそのプロデュースを指揮者が担当します。

音楽が生き物である理由

中学生の時に所属していた吹奏楽部で指導者から「音楽は生き物だ」と言われました。その時は何を言っているのかまったく理解できませんでしたが、いわゆるクラシック音楽の作品が世界中で何度も繰り返し演奏されているのは、指揮者を含め、メンバーが違えば、作品に対するイメージも異なり、それがどんどん進化していくし、様々な解釈による「違いの良さ」を楽しめるからです。

みなさんもトランペットを始めた頃に演奏した楽譜を数年ぶりに見た時、当時では思い描けなかった様々な演奏表現が生まれてきたという経験、あると思います。「中1の時のコンクール曲、もう一度演奏してみたい!」と中3になって言う声が多くなるのも、そうした理由からではないでしょうか。

同じ作品なのにその時によって姿形を変えていく。これはまるで感情が刻一刻と変化する人間そのものです。音楽は人間が生み出すものですから、まったく同じ演奏をすることは不可能ですし、だからこそ魅力的なのです。

廊下を走ってはいけない理由を考えてみる

想像してみてください。みなさんが生活しているところ、例えば学校とか仕事先とか、家などのありとあらゆる場所に「廊下は走らない」「挨拶は元気に」「大きな声で喋らない」「お客様への笑顔を忘れない」「手洗い励行」「自分のものには名前を書きましょう」「靴は揃えて」「欲しがりません勝つまでは」などと貼り紙がしてあったらどう感じますか?

ウザいですよね。私はそういったバイト先や仕事先をこれまでにいくつも経験していますが、ウザいので無意識に見ないようにしてしまいます。考えたくないわけです。だから貼り紙の効果がまったくないどころか逆効果。
これは私に限ったことではないと思います。こうした職場環境のところほどルールが守られていなかったり、張り紙に書かれている禁止事項がそのままミスにつながったりしています。

このように人間は感覚から入ってきた情報だけでは行動に変化は起こりません。変化をさせたいならばそれらが「なぜなのか」を理解させるための説明や経験、その意欲を持たせる必要があります。

例えば皆さんも学校で「廊下を走ってはいけない」と言われたことがあると思いますが、なぜ走ってはいけないのでしょうか。考えたことがありますか?
廊下を走ることで起こり得る良くない結末を想像してください。そして、それらを自分が廊下を走ったことで引き起こしてしまった、と想像してください。いかがでしょうか。考えた結果、それでもあなたは廊下を走れますか?人間はここまでたどり着いて初めて自分が使えるスキルとなるのです。
余談ですが、こうした最悪の結末を考えられないまま自転車やバイク、車の無謀な運転をする人が増えてきました。大怪我するかさせなければ理解できないのでしょうか。困ったものです。

学校ならでは

一体何の話をしているのかと思われたでしょうが、楽譜の書き込みを見てみると、その多くが指揮者や指導者、場合によっては先輩などから指示、指摘されたもの、例えば「走らない」「音程!」「しっかりタンギングをする!」「歌う!」「目指せ金賞!」などをただそのまま書いています。このような「言われたことをそのままメモしているもの」が、学校の授業で書いているノートです。

学校の授業は、そのほとんどが一方通行のやりとりです。先生が喋って黒板に書いたことを生徒はノートに書き写す。メモをする。なぜノートを取るか。それは授業後に復習のためにもう一度開き、読み返すためにあります。

一方で楽譜はいかがでしょうか。楽譜は演奏中に「データを確認する」ことが目的です。ですから演奏中は楽譜をじっくり見つめる時間などありません。ですから、楽譜をノートのようにびっしり書き込んだり、カラフルにする理由も意味もありません。むしろ楽譜の奥を感じるためには逆効果です。

こうした楽譜への大量の書き込みをしている人の多くが学校の吹奏楽部員です。授業ノートはたくさん書き込んだり、カラフルに整理されて書いている人が優秀で良く勉強しているとされやすいのですが、どうぞ楽譜にはそれをやらないでください。

書き込みは必要最低限にとどめる

書き込みをすることでその瞬間は満足するかもしれませんが、音楽の解釈や演奏技術は時間の経過とともにアップデートしていきますから、楽譜の書き込みの鮮度が落ち、書き込みによって自分自身の成長を制御させてしまいます。それに音楽は都度変化し、常に自由であるべきなので、書き込みは少し先の未来で邪魔な存在になりかねないのです。したがって、本当に必要なこと以外は楽譜には書き込まないように心がけてください。

では、その「必要最低限の書き込み」とは一体何でしょうか。そして、それらはどのように書き込むべきなのでしょう。
一方で書いてしまうと制限されてしまうこととは一体何でしょうか。それらを書き込むことで何が起きてしまうのでしょう。

このお話は次回以降に具体的にお伝えします。引き続きご覧ください。


荻原明(おぎわらあきら)

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荻原明(おぎわらあきら):トランペット
荻原明(おぎわらあきら)です。記事をご覧いただきありがとうございます。 いただいたサポートは、音楽活動の資金に充てさせていただきます。 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。