穢れを負わされるモノたち【てるてるmemo#12】
『日本書紀』に大王である天武(天武天皇。?-686)が「大解除」をおこなったことが記録されています。『日本書紀』天武十年紀の七月丁酉条の記事です(読みやすさを考慮して書き下し文に改めた)。
天武10年というと西暦682年。大王天武が「大解除」をおこなうにあたって、諸国の国造らが「祓柱奴婢」を1人ずつ差し出したことがわかります。
歴史学者・神野清一(1940-)は『律令国家と賤民』(1986年)のなかで、この『日本書紀』の記事に注目して次のように述べています[神野1986:58頁]。
災気をもたらす穢れ。本来ならば、それは大王である天武が負うべきものです。しかしながら、天武はそうした穢れを「祓柱」としての奴婢に負わせることで罪滅ぼしをし、自らは清浄な位置にとどまっています。
「清浄な大王天武」と「穢れを負った奴婢」という対比を浮き彫りにして世に知らしめること。それが天武10年の「天下大解除」の大きな目的であった、というのが神野の解釈です。奴婢は大王天武の身代わりとして「祓柱」の役を担わされているのです。
さらに、「祓柱」としての奴婢をめぐって。神野によれば、「ハラヘツモノの本義は……(中略)……災気・ツミの穢を付して棄てられるものであったとみられる」といい、次のように指摘しています[神野1986:58頁]。
昨今でも、6月末や12月末の大祓の日には、各地の神社で撫でもののヒトガタが配られます。参拝者はヒトガタでからだを撫でて穢れを移し、それを川に流して自らの健康長寿を願います。穢れを負わされる形代としてのヒトガタ、その原始的なかたちが「祓柱奴婢」に窺えるというのです。
ところで、かつててるてる坊主についても、もともとは形代だったのではないかという説を検討したことがあります。検討の端緒としたのは、民俗学者・柳田国男(1875-1962)が短文「テルテルバウズについて」(1938年)で提示している着想です。
大雨や長雨といった悪天候は、風の神や雨の神によってもたらされる。そこで、そうした忌まわしい存在を藁人形に託し、よそへと送り出してしまおうと天気祭がおこなわれる。昨今のてるてる坊主は、「言はばこの天気祭の破片なのである」と柳田は位置づけています[柳田1938:44頁]。
この柳田説を検証すべく、わたしが注目したのは近世・近代のてるてる坊主。とりわけ、その平面状の姿かたちや川に流す作法に焦点を当てて検討しました。その結果、やはりてるてる坊主の原形は形代だったのではないか、という見通しを得ることができました(★詳しくは「「てるてる坊主=形代」説・再考【てるてる坊主考note#27】」参照)。
大雨や長雨といった悪天候をもたらす風雨の神を託され、祀り棄てられるてるてる坊主。それは、先述した神野の言葉を借りるならば、「災気・ツミの穢を付して棄てられる」ハラヘツモノと位置づけることができるでしょう。
ここでいま一度思い起こしておきたいのが、大王天武の「天下大解除」における奴婢。それは、大王天武の身代わりとして、災気をもたらす穢れを負わされる祓柱の役割を担っていました。
さらには、祓柱とされた奴婢は、形代としてのヒトガタの「もっともプリミティヴな形態」であるとも指摘されていました。すると、祓柱である奴婢は、形代としてのてるてる坊主の原形でもあるようです。
災厄を穢れとして負わされる存在。そうした犠牲の役割が、生身の人間から人形へと置き換えられていく過程には、たいへん興味を惹かれます。天候不順に際して、天気のコントロールを図ろうとする場面を切り口として、また機会をあらためて検討したいと思います。
参考文献
・神野清一『律令国家と賤民』、吉川弘文館、1986年(初出は「天武十年紀の天下大解除と祓柱奴婢について」〈歴史評論協議会〔編〕『歴史評論』第366号、校倉書房、1980年〉)
・柳田国男「テルテルバウズについて」(国語教育学会〔編〕『小学国語読本綜合研究』巻2、岩波書店、1938年)
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