見出し画像

昭和28年のてるてる坊主【てるてるmemo#25】


1、これまでの試行錯誤

 かつて昭和30年代(1955-64)のてるてる坊主について検討を進めたのに続き、前回は昭和29年(1954)のてるてる坊主に注目しました(★詳しくは「昭和29年のてるてる坊主【てるてるmemo#24】」参照)。

 検討対象としたのは、てるてる坊主研究所でこれまでにジャンルを問わずに蒐集してきた文献資料。引き続いて本稿では昭和28年(1953)の資料に注目します。これまでに紹介した昭和29~39年(1954-64)の事例とも比較しながら検討を進めていきましょう。
まず注目したいのは絵や写真のある資料。この年は15例を数えます(★後掲の「昭和28年(1953年)のてるてる坊主【てるてる坊主図録Ver.5.5】」、および、表1参照)。なお、資料⑭と⑮は今回新たに蒐集できた資料です(★後掲の図3と図5参照)。

2、姿かたちと色

 絵や写真のある資料15例をめぐって検討の切り口としたいのは、てるてる坊主の「姿かたち」「色」「目鼻の有無」「文字の有無」の4点です。
 第一に姿かたちをめぐって。昭和30年代のてるてる坊主にはスカート姿のものと着物姿のものとが見られました。スカート姿のものは昨今よく見られる姿と同じで、裾をひらひらとさせています。いっぽう、着物姿のものは着物を着ていて、ときには帯まで締めています。
 ともあれ、スカート姿のものと着物姿のものの事例数を比較してみると、昭和30年代においても圧倒的に優勢なのは、昨今と同じようなスカート姿のもの。10年間のうち実に9カ年はスカート姿のほうが優勢で、昭和33年だけ両者の事例数が拮抗していました(★表2参照)。

 そうしたなか、昭和30年代に先立つ昭和29年はめずらしく、着物姿の事例数(5例)がスカート姿の事例数(4例)よりやや優勢でした(2例は両者が併存)。そして、この28年もまた着物姿(9例)がスカート姿(7例)よりやや優勢です(⑪は両者が併存。★後掲の図1参照)。昭和30年前後が、着物姿からスカート姿への過渡期にあたるのかもしれません。

 第二に色をめぐって。着物姿のてるてる坊主には、赤い着物を着ているものが目立ち、4例(③④⑧⑭)見られます。帯の色は黄色(④⑧)や赤(③)白(⑭)とさまざま。スカート姿のてるてる坊主にも、赤っぽいもの(②)や黄色いもの(⑤)があって多彩です(★図2参照)。

3、目鼻と文字の有無

 第三に目鼻の有無をめぐって。眉・目・鼻・口などの顔のパーツがあるものと、それらがないのっぺらぼうのものにわけた場合、昭和30年代にはほぼずっと前者の目鼻のあるもののほうが優勢でした。ただし、昭和30年と37年の2カ年だけは、両者の事例数が拮抗しています (★表3参照)。

 昭和30年代に先立つ昭和29年には、やはり目鼻のあるもののほうがやや優勢でした。そして、この28年も目鼻のあるもののほうが優勢です(⑪は両者が併存。★前掲の図1参照。⑮は不明)。なお、「へのへのもへ」や「へのへのも」といった平仮名で顔のパーツが書き込まれている例も散見できます(★図3参照)。

 第四に文字の有無をめぐって。昭和29年から35年にかけては、願いごとを文字にしててるてる坊主に記す作法が毎年見られました(★後掲の表4参照)。しかしながら、昭和36年以降になると、そうした作法はほとんど姿を消し、38年に1例見られるのみです。

 この昭和28年には、文字のある事例は2例(★図4参照)。ひとつは資料②で、てるてる坊主がふたつ吊るされており、その両方に文字が書いてあります。向かって左側の赤っぽいてるてる坊主には「てる」と記されています。左側の白いてるてる坊主には、「てる」「る」とだけ見えますが、おそらく「てるてる」と記してあるのでしょう[『小学四年生』1953:目次]。
 もうひとつの事例は資料⑬。もとより、こちらは願いを書き込んだわけではなく、古い雑誌でてるてる坊主を作ったら、たまたま文字が書いてあったというケースです。しかも、そこに記されていたのは「あめ〳〵 ふれ〳〵 母さんが」という童謡「あめふり」の歌詞(同じ音の繰り返しを表す「くの字点」は横書きできないため、本稿では「〳〵」と表記)。そのため、せっかくてるてる坊主を作って吊るしたのに、雨が降ってきてしまったというストーリーです[『少女世界』1953:176-177頁]。

4、設置場所①(木・建物の周辺部)

 てるてる坊主の絵や写真がある15例の資料から読み取れる情報をもとに、昭和28年のてるてる坊主の傾向を大づかみにしたところで、続いては絵や写真のない文字資料にも目を向けてみましょう(★表5参照)。

 前掲した表1と表5を合わせて、まず注目したいのがてるてる坊主の設置場所。木には11例(①②⑤⑥⑦⑨⑩⑫⑭㉒㉖)見られます。具体的な樹種が明示されている例としては、南天が2例(⑫㉖)、そのほかに柿(①)、楓(⑦)、竹(⑭)、ポプラ(㉜)が1例ずつ見られます。
 とりわけ、南天へのこだわりが見られるのが、作家サトウ・ハチロー(1903-73)の随筆『ボクの童謡手帖』(資料㉖)の次のような記述(点々は原文のママ)[サトウ1953:24-25頁]。

てるてる坊主てる坊主は、みなさんもなすったから、よくごぞんじでしょう。南天の枝へぶらさげてね……ただ、自分の家に南天の木のない人はお隣りとか、お向いとか、南天の木のある家のおばさんに頼んで、ぶらさげさせてもらって……あくる日、願った甲斐もない雨だと、自分の家の南天でないと、ききめがないんじゃないかしらと思ったりして……

 あるいは、軒に5例(⑧㉒㉔㉗㊱)、窓辺に3例(⑬㉔㊲)、そして縁側にも1例(⑲)見られます。軒・窓辺・縁側を「建物の周辺部」として合わせると8例を数えます(㉒は木と軒を並記。また、㉔は軒と窓辺を並記しているため、合わせて1例と換算)。ともあれ、この昭和28年には「木」(11例)が「建物の周辺部」(8例)よりも優勢です(★表6参照)。

 「木」と「建物の周辺部」の事例数を年ごとに比べてみましょう。昭和32年~39年(1957-64)の8カ年では、「木」優勢は35年のみで、実に7カ年で「建物の周辺部」優勢です。いっぽう、それに先立つ昭和28年~31年(1953-56)の4カ年では、29年のみ同数で、そのほかの3カ年で「木」優勢です。この時期、設置場所が「木」から「建物の周辺部」へと緩やかに移っていく傾向を見て取ることができます。

5、設置場所②(門柱・銃の先)

 「木」や「建物の周辺部」以外では、「門柱」や「銃の先」にもてるてる坊主が設置されています。「門柱」に吊るされている事例が見られるのは『日本及日本人』(資料㊴)。その4巻10巻に「三句に亘る連句(三ツ物)」と題して連句が集められています。編者は「霰々亭」とあって、これは俳人・中野三允さんいん(本名は準三郎。1879-1955)の俳号です。連句のひとつにてるてる坊主が登場します[『日本及日本人』1953:88頁]。

遺墨展新茶の礼に句を添へて      三允
照る々々坊主かけし門柱       規蘭

 中野三允が詠んだ前句に対して、付句を詠んだのは名取規蘭(1894ごろ-?)。連句というスタイルでは前句と付句で場面をなるべく大きく転換させるのがミソなのだそうですが、もとより、この連句全体の意味はわたしにはわかりかねます。ただ、付句において、てるてる坊主は門柱に掛けられています。そこは、「建物の周辺部」よりひと回り外側の「屋敷の周辺部」といえる位置です。

 いっぽう、銃の先にてるてる坊主が吊るされている事例が見られるのは『婦人生活』。その7巻4号(資料⑮)に、婦人生活社の記者が記した「病める夫と二児を抱え 世の荒波を乗り切る若妻競艇選手」と題する記事が掲載されています。当時から10年さかのぼった戦時中の昭和18年(1943)、女学生が動員先の工場でニュース映画を観ている場面です(★図5参照)[『婦人生活』7(4)1953:136頁]。

と、その兵隊のひげづらがクローズアップされた、まだわかい下士官であつた。カメラがじゅうの先にうつつたとき、道子みちこさんは「あつ」とかすかに声を立てた。じゅう先き(ママ)でぶらぶらしていたのは、道子さんが慰問袋いもんぶくろに入れておくつたてるてる坊主ぼうずだつたのである。満州まんしゅうでは雨が多くて、兵隊へいたいさんがこまつている、そんな新聞しんぶん記事きじをみて彼女が小切れの端々はし〳〵を集めて、心をこめてつくり上げたきれいなてるてる坊主ぼうずであつた。

6、作る動機①(行事を前にして)

 てるてる坊主が作られる機会として目立つのは学校行事。遠足が11例(①⑦⑬⑭⑰⑱⑲⑳㉑㉒㊳)、運動会が2例(㉒㊱)見られます(㉒は遠足と運動会を並記)。
 また、修学旅行に関連する事例が、中村祥一郎(1910-)の小説『母子つばめ』(資料㉔)に見られます。主人公の美枝子さんは東京から引っ越して、いまは舞鶴(京都府)暮らし。ある日、東京の友だちが修学旅行で関西地方へ来ることになりました。そこで、修学旅行の合間を縫って、京都で久しぶりに落ち合おうと約束します。再会前夜から当日の朝にかけての場面にてるてる坊主が登場します[中村1953:64-65頁]。

土曜日のばん、美枝子はてるてる坊主ぼうずの人形を二つつくりました。それをのきばたにつるそうと思ってまどをあけると、まるで、ぎんすなをふりまいたように、星のいっぱい出ている空が見えました。……(中略)……
あくる日の朝、美枝子はいつもより早く目をさましました。六時まえですから、まだ造船所ぞうせんじょのサイレンもなり出しません。
すぐ起きて、窓をあけてみました。太陽はまだのぼっていませんでしたが、空のいろはいつもよりあかるいようです。
「てるてる坊主ぼうずさんありがとう。」
美枝子は、人形にお礼をいいました。

 あるいは、七夕に際しててるてる坊主が作られている事例もふたつあります。ひとつは前掲した教科書『新編あたらしいこくご』(資料⑭)。短冊をたくさん吊るした竹に、てるてる坊主も吊るされようとしています(★前掲の図3参照)[柳田1953:48-49頁]。
 もうひとつは、句集『かびれ』23巻12号(資料㉝)に、「星祭てるてる坊主も添へて括る 暁風」という句が収められています[『かびれ』1953:46頁]。やはり、七夕の竹に吊るした短冊と一緒に、てるてる坊主も添えて括られた光景が浮かびます。

以上は、遠足や修学旅行、運動会といった学校行事、あるいは七夕のような年中行事を前にして、行事当日の好天を願う事例でした。いっぽうで、すでに悪天候に見舞われているなかで、いま現在の好天を願う事例も見られます。すなわち、てるてる坊主に即効性を期待する事例です。

7、作る動機②(即効性を期待して)

 まずは、水害にまつわる事例から。この昭和28年の6月下旬、九州地方北部は豪雨による水害に見舞われました。大雨が降り続くなか、てるてる坊主に願いを込める事例がふたつ見られます。
 ひとつは、『婦人生活』7巻9号(資料㉚)に収められた「水禍の北九州現地を行く」。筑後川沿いに建つ久留米医大附属病院(現在の久留米大学病院。福岡県久留米市)を特派記者が取材した報告です。小児科病棟の様子が次のように記されています[『婦人生活』7(9)1953:127頁]。

午後五時少しすぎ、昼夜五名の交替こうたいい看護婦かんごふは折から降りつづく雨のために、退出たいしゅつもせずに看護にあたつていた。頑是がんぜない患者の子供たちは、夕食ゆうしょくがすんだあと看護婦相手あいてにてるてる坊主を作つて騒いでいた。

 もうひとつは、大阪にある番傘川柳本社が発行していた句集『番傘』(資料㉛)。その42巻8号において「水禍句信——九州罹災地より——」という特集が組まれており、九州各地から俳句が寄せられています。そのなかで、佐賀の芦田天舟(生没年不詳)が詠んだ句にてるてる坊主が登場します。「雨よ止めてるてる坊主てる坊主」[『番傘』1953:31頁]。

 てるてる坊主の即効性を期待するような事例は各地の郷土誌のなかにも散見できます。次に紹介するふたつは、ともに福岡県の事例です。
 ひとつは大川町(現在の大川市の一部)から。福岡県三潴みづま郡小学校教育振興会が発行した『新考三潴郡誌』(資料㉓)をひも解くと、「郷土の口碑伝説」の章において「天災天候に関するもの」が列挙されており、そのなかにてるてる坊主が登場します[『新考三潴郡誌』1953:384頁]。

てるてる坊主をつくると雨が止む。

 もうひとつは門司市(現在の北九州市門司区)から。門司市立図書館が発行した『門司郷土叢書』第2冊の「風俗編〔III〕俚謠集」(資料㉟)をひも解くと、次のようなわらべ唄が紹介されています[『門司郷土叢書』1953:3頁]。

照る照る坊主 てる坊主 照りたいほど てるかえー

 郷土誌の事例ふたつのうち、前者の大川の例では、「てるてる坊主をつくる」ことが「雨が止む」ことの十分条件になっています。普通は「雨が止む」ことを願いつつ「てるてる坊主をつくる」ものの、実際に「雨が止む」かどうかは半信半疑。しかしながらここでは、てるてる坊主を作りさえすれば、雨が止むのは必然であるといったニュアンスが感じられます。
 また、後者の門司の事例では、「あした天気にしておくれ」と翌日の好天を願うのではなく、「照りたいほど てるかえー」と現在の日照が問題とされています。言い換えれば、天気よりも日照に重きが置かれています。
 実は、てるてる坊主に期待される本来の役目とは、空を晴らすことよりも、この門司のわらべ唄のように日を照らすことだった可能性があります。呼び名が「晴れ晴れ坊主」ではなく、もっぱら「照る照る●●●●坊主」であるのも、そうした事情によるのかもしれません(★詳しくは「なぜ「晴れ晴れ坊主」ではないのか【てるてる坊主の呼び名をめぐって#8わらべうた編】」参照)。

8、紙を使って作る

 材料にも目を向けてみましょう。ほとんどの場合、てるてる坊主は紙で作られています。たとえば、童話集『ねことてがみ』(資料①)に収められた、児童文学作家・竹崎有斐(1923-93)の「たびにでたてるてるぼうず」には次のように記されています[坪田1953:78頁]。

つきのひかりは、にわいっぱいを てらしていました。
かきの木のえだに、てるてるぼうずが ひとつぶらさがっていました。
かみのきものは、あめにぬれたのか、だいぶんやぶけていました。
「さむいなあ。」
てるてるぼうずは、ふるえていました。

 雨に濡れるてるてる坊主の着物は紙で作られていたため、だいぶ破れてしまっています(★図6参照)。

 千代紙で作る例を記しているのが、『婦人生活』に連載された小説家・立松由記夫(1916-85)の「何が彼女をそうさせたか」。同誌7巻3号(資料㉘)に掲載された「愛人への一筋の貞操 自殺した花嫁の悲劇」の回に、てるてる坊主が次のように登場しています[『婦人生活』7(3)1953:284頁]。

なつだというのに、毎日まいにち梅雨つゆのような雨がしとしとと石畳いしだたみの上にる日がつづいた。
妹の洋子ようこが千代紙でてるてる坊主ぼうずをつくつていた。花嫁はなよめ人形《にんぎょう》のてるてる坊主ぼうずである。

 千代紙を使って、花嫁姿の鮮やかなてるてる坊主を作ったようです。
 あるいは、社会事業家・高島巌(1898-1976)の『子に詫びる』(資料㉒)には、色紙を使って作る記述が見られます[高島1953:5-6頁]。

私の学園での話だが、小学校二年生の女の子が、遠足の前の日の夕方、うら庭の垣根の木の葉っぱへ、こっそりと、赤い色紙でつくったてるてる坊主をかけていた。

 このほか、前掲した資料⑬では、「あめ〳〵 ふれ〳〵 母さんが」と歌詞の書かれた古い雑誌を使って、てるてる坊主が作られていました(★図7参照)[『少女世界』1953:176-177頁]。

9、布も使って作る

 てるてる坊主を作るのに、紙以外の材料が使われている例も散見できます。先述のように、『婦人生活』7巻4号(資料⑮)に掲載された、銃の先に吊るされたてるてる坊主は「小切れの端々はし〳〵を集めて」作られたものでした(★前掲の図5参照)[『婦人生活』7(4)1953:136頁]。
あるいは、詩人・英美子はなぶさよしこ(1892-1983)の随筆『はるぶな日記』(資料㉕)には、かつて疎開していた道仙田(茨城県龍ケ崎市)での出来事が次のように綴られています(傍点は原文のママ)[英1953:201-202頁]。

空襲の大被害をまぬがれたこの地方の、女の児たちが、どんなお人形遊びをしているか、私は知りたいと思い、ある日、子供たちに、お人形ごつこのそれを持つて来て見せておくれと頼みました。
よろこんで駆け出していつた女の児たちが、やがて抱えてきたのを見れば、新聞紙や、ちり紙をまるめた坊主首に、手織りの黒つぽい縞のれつ端を、ただ、ぐるぐると巻きつけてゆわえてありました。私は、一つ一つ手にとり、
「いいお人形さんね。」
と、ほめてやりました。真実、女の児たちは、そのてるてる●●●●坊主式の人形が、可愛ゆくて大切にしているようだつたし……(以下略)

 女の子たちが作ってきた人形について記されています。てるてる坊主そのものではありませんが、「てるてる●●●●坊主式の人形」と形容されているので、作りかたがてるてる坊主とよく似ているのでしょう。頭の部分は新聞紙やちり紙を丸めて作られていますが、胴の部分に巻きつけられているのは布の切れ端です。

10、お礼と罰

 願いがかなった場合のお礼について記されているのは3例。酒をあげる2例とごちそうをあげる1例が見られます。
 まずは、酒をあげる例から。ひとつめとして、先にも挙げた高島巌『子に詫びる』(資料㉒)に次のような思い出が記されています[高島1953:5頁]。

子供のとき、運動会や遠足といえば、かならず、てるてる坊主をつくって、祈りをこめて、軒下にかけた。そして、晴れたいいお天気の朝をむかえると、うれしくて、とびはねながら、台所から、二、三滴のお酒をもらってきて、かけてやったものだ。

 もうひとつは、大磯小学校(神奈川県中郡大磯町)の創立八十周年記念事業委員会が編んだ『大磯小学校八十年史』(資料㊱)より。5年生の後藤三知男(生没年不詳)の作文「八十周年記念の運動会」に次のように綴られています[『大磯小学校八十年史』1953:311-312頁]。

待ちに待った運動会がとうとう来た。
家中で僕が一番早く起きた。丁度五時だつた。上天気とは言えないが運動会は出来そうだ。気をもみながら食事をしていたらポンポンと花火がなつた。ぼくは思わずおどり上つた。体中がびりびり電気にかかつたようだ。軒につるしてあるテルテル坊主に用意してあつた盃でお酒をかけてやつた。

 次に、ごちそうをあげる例。地震学者・中村左衛門太郎(1891-1974)の『天気はどう変わるか』(資料⑱)に見られる記述です[中村1953:76-77頁]。

「日曜日の雨はゆっくりしていいが、こう日曜のたびにふられるといやになるな」
と、お父さんがおっしゃいました。
「いくらてるてるぼうずを作ってもだめ、このころはてるてるぼうずなまけてばかりよ」
と、一番に日曜日の雨でこまっているのは、夏子さんです。
「夏子は、てるてるぼうずに、何もやらないんだもの、てるてるぼうずだってなまけるさ」
「お天気にしてくれれば、ごちそうするんだが、こうなまけていては、ごちそうなんかできないわ」

 てるてる坊主が願いを聞いてくれたならば、ごちそうをあげるつもりだといいます。しかしながら、てるてる坊主を作ったものの怠けてばかりなのか、現実にはあいにくの雨降りのようです。

 いっぽう、願いがかなわなかった場合の罰について記されている例がひとつだけあります。実践国語研究所が編んだ『実践国語』14巻153号(資料㉑)に収められている、教育者・中村万三(1913-2003)の「わたしは「ほんとうの作文指導」のねらいをしっかりつかみたい」と題する一文で示されている、作文の一例です[実践国語研究所1953:27頁]。

○あめがふって えんそくにいかれなくてつまらないなあ てるてるぼおずにたのんだのに あめだから てるてるぼおずのくび ちょんぎっちゃったの。(かずま)

11、作り手、まつ毛、呼び名

 最後に、そのほかの気になる点をいくつか。第一にてるてる坊主の作り手をめぐって。ほとんどの場合、てるてる坊主は子どもたちの手で作られています。しかしながら、それ以外の例もちらほら。前掲したように、『少女世界』6巻5号(資料⑩)に掲載されている、「久利」と署名のある4コマ漫画「なるほどね」では、娘の前で母がてるてる坊主を完成させています(★図8参照)[『少女世界』1953:179頁]。

 第二にてるてる坊主の顔立ちをめぐって。先述のように、てるてる坊主には目鼻があるものもあれば、ないものもあります。そうしたなか注目したいのが、句集『曲水』37巻12号(資料㉞)に寄せられた次の一句[『曲水』1953:27頁]。

秋霖のてるてる坊主睫毛もつ (東京 田口 宗吉)

 秋霖とは秋の長雨のこと。長雨に濡れるてるてる坊主の顔に、まつ毛があることが詠われています。

 第三にてるてる坊主の呼び名をめぐって。句集『木太刀』50巻6号(資料㊳)に、京都在住の高島静子(生没年不詳)が詠んだ次のような句が収められています[『木太刀』1953:17頁]。

遠足を待つ子のするや日和坊

 京都に限らず、西日本ではかつて「日和坊」とか「日和坊主」「日和坊さん」といった呼び名が主流でした。その時期は江戸時代の後期から明治を経て大正時代までのことです(★詳しくは「西日本では「日和坊主」というのは本当か【てるてる坊主の呼び名をめぐって#6】」参照)。

 その後、昭和に入ると西日本でも呼び名は「てるてる坊主」へと収斂していきます。そうしたなかで、ここに掲げた句は昭和の中ごろにおける稀少な事例です。
 なお、同じく昭和の中ごろにおいて「日和坊」という呼び名が用いられている事例が、わたしの管見が及んだ限りではもうひとつだけ、当時から3年後の昭和31年(1956)に見られます[『木太刀』1956:7頁]。

日和坊もされてあるなり七夕に

 やはり、同じ句集『木太刀』の53巻8号に掲載された一句です。作者は京都在住の高島秋晴(生没年不詳)と明記されています。3年のあいだを空けて、同じ句集『木太刀』に「日和坊」を詠んだ句を寄せている、高島静子と高島秋晴は、ともに京都在住と明記されていることもあり、おそらく同一人物なのでしょう。

 本稿は昭和28年のてるてる坊主をめぐる粗い覚え書きでした。もっと長い目で見た昭和20年代全般におけるてるてる坊主の動向については、また稿をあらためて検討できればと思います。

参考文献(発行年はいずれも昭和28年(1953)。丸数字は表1と表5の左端の№に対応。うしろのカッコ内は詳しい掲載箇所や作者等。)

①坪田譲治〔編〕『ねことてがみ』、青山書院(竹崎有斐〔作〕山下大五郎〔絵〕「たびにでたてるてるぼうず」)
②『小学四年生』32(3)六月号、小学館(中村ちひろ、目次)
③『女学生の友』4(3)、小学館(岩崎良信、表紙)
④『ひかりのくに 生活習慣と社会性が身につく』8(6)、ひかりのくに(吉沢廉三郎「てるてるぼうず」)
⑤『文芸春秋』31(8)、文芸春秋(那須良輔「てるてる坊主」)
⑥与田準一『かあさんおめでとう』、泰光堂(「あめ」)
⑦大阪中央放送局学校劇研究会〔編〕『学校劇集』、むさし書房(桜井常之輔「夕やけ」)
⑧古屋白羊〔作・絵〕『なんでしょう』、ます美書房(「みんなしっているうた」)
⑨藤田桜・林俊郎『やさしい人形の作り方』、ポプラ社(「人形の起り」)
⑩『少女世界』6(5)、富国出版社(久利「なるほどね」)
⑪増田松樹『家庭写真十二ケ月』、玄光社(「雨の日の写し方」)
⑫竹山恒寿『心の科学』、白揚社(「おまじない」)
⑬『少女世界』6(5)、富国出版社(信田力夫「明日は遠足」)
⑭柳田国男〔監修〕『新編あたらしいこくご 一ねん(Ⅱ)(小学校第一学年中期用)』、東京書籍
⑮『婦人生活』7(4)、婦人生活社(本誌記者「病める夫と二児を抱え 世の荒波を乗り切る若妻競艇選手」)
⑯柳田国男・和歌森太郎〔共著〕『社会科教育法』、実業之日本社(「われわれの考える社会科の配列と目標 小学校三年」)
⑰和歌森太郎『日本のむかし』第1巻、実業之日本社(15版)(「大むかしの日本」)
⑱中村左衛門太郎『天気はどう変わるか』、恒星社厚生閣
⑲日本童詩教育連盟〔編〕『詩の国』48、東門書房(ひらの・はじむ「えんそくの前の日」)
⑳『視聴覚教育』7(3)、日本視聴覚教育協会(鳥羽克始「シナリオ 新しいゴム長靴」)
㉑実践国語研究所〔編〕『実践国語』14(153)、穂波出版社(中村万三「わたしは「ほんとうの作文指導」のねらいをしっかりつかみたい」)
㉒高島巌『子に詑びる』、東経済新報社(「はじめに」)
㉓『新考三潴郡誌』、福岡県三潴郡小学校教育振興会(「郷土の口碑伝説」)
㉔中村祥一郎『母子つばめ』、鶴書房(「てるてる坊主」)
㉕英美子『はるぶな日記』、白灯社(「水場のあけくれ」)
㉖サトウ・ハチロー『ボクの童謡手帖』、東洋経済新報社
㉗篠崎武『論理学入門:弁証法的に考えるとはどういうことか』、泉文堂(「「自然」「社會」「人間」という「在るもの」」)
㉘『婦人生活』7(3)、婦人生活社(立松由記夫「何が彼女をそうさせたか 愛人への一筋の貞操 自殺した花嫁の悲劇」)
㉙『弁論』59、信友社(「てるてる坊主禁止」)
㉚『婦人生活』7(9)、婦人生活社(本誌特派記者「(特別記事)水禍の北九州現地を行く」)
㉛『番傘』42(8)、番傘川柳本社(「水禍句信——九州罹災地より——」)
㉜『鹿火屋』381、鹿火屋会(「雑詠」藤原まさし)
㉝『かびれ』23(12)、加毘礼社(「各地句会報」暁風)
㉞『曲水』37(12)、曲水社(「曲水句帖」田口宗吉)
㉟『門司郷土叢書』第2冊 第五 風俗編〔III〕俚謠集、門司市立図書館(「童謡」)
㊱『大磯小学校八十年史:大磯小学校創立八十周年記念』、大磯小学校創立八十周年記念事業委員会(後藤三知男「八十周年記念の運動会」)
㊲『婦人生活』7(10)、婦人生活社(「みどりの放送室」)
㊳『木太刀』50(6)、木太刀社(「青柳集」高島静子)
㊴『日本及日本人』4(10)、J&Jコーポレーション(霰々亭「三句に亘る連句」)


#雨の日をたのしく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?