身代わりとしてのてるてる坊主【てるてる坊主考note#28】
はじめに
説教節や絵巻あるいは歌舞伎など、多様なかたちでこんにちまで伝えられてきた、小栗判官と照手姫の伝説。その原形は中世の語り物に求められるといいます。
小栗判官のストーリーを解読する試みはこれまで数多く積み重ねられてきました。本稿で注目したいのは、小松和彦(1947-)が文化人類学の立場から解読を試みた「照々坊主の原像 ——小栗判官譚の解読に向けて——」。平成2年(1990)10月に宮城学院女子大学(仙台市)の基督教文化研究所で開催された公開講演会の記録です。
小松が着目するのはストーリーの序盤、京の都を天候不順に陥れたという罪を着せられて、小栗判官が都から追放される場面。都落ちしていく小栗判官の姿にてるてる坊主のイメージが重なると小松はいいます。そして、小栗判官の伝説とてるてる坊主の風習の両者に通底するものとして、天候不順をめぐる「身代わりシステム」というモチーフを指摘しています。
1、天皇制を支えた身代わりシステム
小松は先学の研究に依拠しつつ、天候不順をめぐる「身代わりシステム」の構造を整理しています。
まず、権力者の役割をめぐって、「自然界の様々な変化がもたらす災厄にたいしても責任をもっていた」といいます。言い換えれば、権力者は「天候という集団にとっては死活にかかわるようなものを制御することができることで、権力を人びとから授けられた」のです。ここではジェームズ・フレーザー(社会人類学者。1854-1941)の見解が参照されています[小松1991:137-138頁]。
そのうえで、「天皇と呼ばれているような存在もそうした権力者の一つになるといえそうです。古代の天皇は、天皇自らが天候を支配する能力を持っていたようです」と述べています。ここで参照されているのは折口信夫(民俗学者。1887-1953)の見解。「天候の原因と呼ばれるものを探しだして、この世の中を好ましい状況に変えていく責任を課せられているのが天皇」だったのです[小松1991:137、139頁]。
もっともそれは古代律令制の時代(7世紀後期~8世紀後期)のこと。「ある時期から世俗的な権力と呪術的な権力の分化が生じてくる」、そして、「平安時代ぐらいから急速に天皇の呪術師性がみえなくなってきます」、そう、小松は指摘しています。すなわち、「支配者の重要な能力であった天候のコントロールが陰陽師とか密教の僧に任されてしまう」。「それが失敗した時には、そうした宗教者を処分することで自らの責任を回避しようとした」というのです[小松1991:138頁]。
天候不順に際して天皇が責任を回避する「身代わりシステム」の誕生です。この天候不順をめぐる「身代わりシステム」というモチーフが、小栗判官の伝説およびてるてる坊主の風習にも共通して見られるというのが小松の主張です。
2、「小栗判官=スケープゴート」説
小栗判官のストーリーは、いくつものバリエーションが伝えられてきました。小松が取り上げているのは説教節の正本のひとつ、佐渡七太夫(豊孝)本の『をくりの判官』。その成立は18世紀前半と見られています。
たいへん長いストーリーですが、「身代わりシステム」に関わるのは、京の都を舞台とする序盤の部分です。おおまかに要約すると以下のとおり。
小栗がみぞろが池の大蛇と契るのは、どの小栗判官譚にも見られる筋立てです。いっぽう、この佐渡七太夫本『をくりの判官』に特徴的なのが、都が暴風雨に見舞われ、その原因を突き止めるべく帝(天皇)が天文の博士に占わせるくだり。
『をくりの判官』に描写されているような暴風雨などの危機に際して、国家の最高責任者たる天皇が担うべき役割をめぐって、小松は次のように述べています[小松1991:148-149、150頁]。
『をくりの判官』のストーリーからは、天候不順に対する責任の所在が≪天皇→天文の博士→小栗判官≫と移り変わっていくさまをはっきりと確認できます。
小松は、「構造的にみて小栗判官は京の都に生じた災厄を一身に背負って都という共同体から追放される、スケープ・ゴートだ」と指摘しています。スケープ・ゴートとは、小松の言葉を借りれば「共同体の浄化のために、汚れを特定の人物や事物に集中的に付着、吸収させて共同体から追放する文化装置=メカニズム」であり、「罪をあがなう者の身代りとしての犠牲」を意味します[小松1991:144、146頁]。
3、小栗判官とてるてる坊主
説教節・小栗判官とてるてる坊主との関わりを小松は2つ指摘しています。1つめは、本稿の主題である悪天候時の「身代わりシステム」としての共通性。小松が参照しているのは、てるてる坊主の起源について述べた2人の民俗学者、柳田国男(1875-1962)と宮田登(1936-2000)の考えです。
まず、前者の柳田国男は「テルテルバウズについて」(1936年)という小論をのこしています。そのなかで柳田は、てるてる坊主が人形を使ったまじないである点に目を留め、「人形によって晴れを祈る風習の由来は前代農民の災害観に根ざして居る」と述べています[柳田1936:44頁]。
「前代農民の災害観」とは何か、柳田の考えを小松は次のように整理しています[小松1991:131頁]。
疫病や天候不順といった好ましくないもの。それらがどこかからやってきたら、手作りした人形になすりつけてまた外に送り返してしまおう、という発想です。
そして、てるてる坊主はそうした、諸悪の根源をすべてなすりつけられる人形の名残なのではないかというのです。小松が指摘していたスケープ・ゴートとしての小栗判官の役割、すなわち、「災厄を一身に背負って」「共同体から追放される」という位置づけとまさに一致しています(★柳田の考えについて詳しくは、「「てるてる坊主=形代」説・再考【てるてる坊主考note#27】」参照)。
小松が参照している2人のうちのもう1人、後者の宮田登は「てるてる坊主と日和見」(1980年)という小論をのこしています。キーワードとなるのは「日和見」と「日知り(聖)」。江戸時代の文献にしばしば登場する、各地の農村や漁村で天候の観察(日和見)を専門におこなっていた日知り(聖)の存在に宮田は注目します。
日和見をおこなう日知り(聖)とは何か、宮田の考えを小松が具体的に次のように説明しています[小松1991:133頁]。
日和見に基づいて、ときには天候のコントロールを図る呪術(儀礼)をおこなう日知り(聖)。占いで雨が予想されれば晴れるようにまじない、あるいは、現に長雨が降り続いているときにも雨が上がるようにまじなう、それらが日知り(聖)の大切な務めでした。
宮田によれば、天皇もかつては日知り(聖)であったといいます。そしてさらには、「実はてるてる坊主の法師姿も、聖の変化したイメージが残存しているのだ」と指摘しています[宮田1980:42頁]。
こうした宮田の指摘を承けつつ、かつては日知り(聖)が担っていたという天候コントロールの呪術(儀礼)について、小松は次のように整理しています。「昔は本物の日知り=聖=坊主に頼っていた。それがやがて人々は、そのような習俗を踏まえつつ、この生身の坊主を人形に肩代りさせるようになっていったわけです」[小松1991:133頁]。
ここでは、天候コントロールを図る呪術(儀礼)の主役をめぐって、≪天皇→日知り(聖)→てるてる坊主≫という移り変わりが想定されています。それは、天候不順に際する責任の所在の移り変わりを示してもいます。
先述のように、説教節・小栗判官においては、天候不順に際する責任が≪天皇→天文の博士→小栗判官≫と転嫁されていました。天候コントロールの呪術(儀礼)をめぐる≪天皇→日知り(聖)→てるてる坊主≫という構図にも、同様に責任転嫁の跡を見て取ることができるでしょう。
4、生け贄としてのてるてる坊主
柳田と宮田の先行研究に依拠しつつ、説教節・小栗判官との共通性に言及したうえで、小松はさらにてるてる坊主論をもう一歩先へと進めていきます。小松が提起しているのは、日知り(聖)が自らの責任を果たせなかった場合、すなわち、天候コントロールに失敗した場合の処罰をめぐる問題です。
そのきっかけとして、小松が挙げているのが童謡「てるてる坊主」の末尾に置かれたフレーズ。「てるてる坊主 てる坊主 あした天気に しておくれ」のあとは、「それでも曇って 泣いたなら そなたの首を チョンと切るぞ」と締めくくられます。この残酷な一節から、小松は「当時の子供たちもはっきりと明示しないメッセージ」「暗い民俗的なメッセージ」を読み取ります[小松1991:130頁]。
悪天候の罰として、童謡のなかで首をチョン切られるてるてる坊主。それと同じような処罰が、かつて日知り(聖)たちにも下された可能性があるというのです。具体的には、「呪術の失敗の責任を取らせて殺してしまう。あるいはさらに竜神などの天気を司る神への生贄として差し出してしまう」といったやりかたです[小松1991:134頁]。
小松が念頭に置いているのは、東日本に広く分布する行人塚にまつわる伝説。かつて、行人あるいは山伏や六部など、修行のために各地をめぐり歩く宗教者たちがいました。
伝説として語られるのは、遊行する宗教者たちのたまたまたどり着いた村や通りがかった村が、飢餓や疫病、天候不順などの災厄に見舞われる場面。村を災厄から救うべく、村びとから乞われると彼ら宗教者たちは、土中に入定して即身仏になったのだといいます。
その一例として小松は、湯殿山(山形県)のふもと一帯に数多く残る、入定して即身仏となった史実とも伝説ともつかぬ宗教者たちを挙げています。そして、土中入定伝説として語られるような、村を災厄から救うために宗教者を生き埋めにして殺してしまうという話は、実際にあったかもしれないと指摘しています。
土中入定を小松は次のように位置づけています[小松1991:136頁]。
小松によれば、即身仏となるのは宗教者のなかでも最下層に属する人たちであったといいます。すなわち、「一般の社会から犯罪を犯して排除されたり生活苦から百姓を捨てざるをえない人たち」です。そして、「彼らが宗教者となっていくことの背後に、何か暗い世界というものが隠されていたと思われます」と想像を膨らませています[小松1991:135-136頁]。
暗い過去を捨てるために遊行する宗教者となった結果、宗教者たちのなかで最下層に位置づけられ、人びとから乞われて命を捨てた(あるいは、捨てさせられた)存在。史実なのか伝説なのかはいざ知らず、即身仏には常に暗い影がつきまといます。
ともあれ、小松が重視しているのは、土中入定のような生け贄譚がこんにちに至るまで脈々と伝えられてきたという事実。それをふまえて、小松は次のように述べています[小松1991:137頁]。
5、照手姫とてるてる坊主
説教節・小栗判官とてるてる坊主との関わりをめぐって、小松がもう1つ注目しているのが、小栗が妻とする照手姫の位置づけです。
先述のように、ストーリーの序盤で小栗は常陸国(現在の茨城県)へ流罪となります。常陸国は小栗の母の出身地。流罪となってからも小栗はめげることなく精力的に動きます。小松の言に耳をかたむけてみましょう(傍点は原文のママ)[小松1991:143、153頁]。
てるてる坊主とよく似た名前の照手姫。「てるてる坊主」を辞書で引くと、となりによく「照手姫」が並んでいるので、わたしにとってもつねづね気になる存在でした。そんな照手姫に小松は、晴天をもたらす太陽のイメージを重ねています。
なお、照手姫は相模国(現在の神奈川県)の郡代・横山大善の娘。小松は触れていませんが、ストーリーのなかではしばしば日光権現の申し子と説明されています。日光権現とは現在の日光二荒山神社(栃木県日光市)。「日光」という地名もまた太陽のイメージを喚起させます。
気になるのは、「照手姫の「照手」も「照々」からきた名前かも」という小松の連想(傍点は筆者)。小栗判官譚が形作られた中世には、いわゆるてるてる坊主は昨今と同じように「照々」を冠された名前で呼ばれていたのでしょうか。そもそも、当時すでにてるてる坊主の風習はあったのでしょうか。
文献資料のうえでてるてる坊主の記録は、目下のところ、近世半ばまでしかさかのぼることができません。したがって、中世のてるてる坊主については、その存在の有無を含めて不明です。
ただし、13世紀の中ごろ(鎌倉時代)に記された『弁内侍日記』には、妙齢の女性が「てれてれ《●●●●》」と唱えながら燈台の前で舞う様子が綴られています。ある夜、宮中の一室でおこなわれた、妖しげな晴天祈願の作法です。「照る」を活用して繰り返したかたちの語(「|てれてれ」)が、古く中世から晴天祈願に用いられていたことを確認できます(★詳しくは「鎌倉時代の「てれてれひのこ」【てるてる坊主考note#9】」、および、その続編【同#10】を参照)。
おわりに
本稿で紹介してきた小松和彦によるてるてる坊主論。それは「照々坊主の原像」と題されていました。原像とは、ものごとの根本となる姿やありさまのこと。
てるてる坊主の風習の根本として小松が指摘しているのは、天候不順の責任を転嫁する「身代わりシステム」です。同じモチーフが小栗判官譚にも通底して垣間見られるといいます。
さらには、こんにちまでまことしやかに伝えられてきた、各地にのこる即身仏の伝説に小松は触れています。そして、人びとの願いを背負って生け贄となった宗教者たちに、願いがかなわなかったときのてるてる坊主の姿を重ね合わせています。
わたしたちの身に引き付けて考えてみましょう。楽しみにしていた行事が雨に見舞われ、「雨女・雨男」呼ばわりされるのは嫌なものです。当日の晴天を願っててるてる坊主まで作ったのに、願いがかなわなかった場合には、なおさらがっかりです。
そんなとき人は自分に都合のいいように解釈を曲げ、悪天候をてるてる坊主のせいにして八つ当たりしたくもなるでしょう。まさに、本稿で主題としてきた身代わりのてるてる坊主です。思いどおりの天気に恵まれなかったのは、実は自分の日ごろのおこないが悪かったせいかもしれないのに。
身代わりあるいは生け贄としててるてる坊主を位置づける小松説。その当否を問う力は、いまのわたしにはありません。ただ、王権や供犠といったテーマと交錯しつつ、てるてる坊主論がここから広く展開していくであろう予感がしています。
参考文献
・小松和彦「照々坊主の原像 ——小栗判官譚の解読に向けて——」(『基督教文化研究所研究年報 民族と宗教』第24号、基督教文化研究所、1991年)
・宮田登「てるてる坊主と日和見」(『民博通信』11号、国立民族学博物館、1980年)
・柳田国男「テルテルバウズについて」(国語教育学会〔編〕『小学国語読本綜合研究』巻2、岩波書店、1938年)