日を乞う「雨人」【てるてるmemo#2】
江戸時代後期の旅人・菅江真澄(1754-1829)は日本列島各地を旅しながら、それぞれの土地で目にした景色や風習について、文字に記録し、ときにはスケッチを残しました。
残されたスケッチの1枚に「雨人」という人形の姿が描かれています。「雨人」には「アマヒト」と振り仮名がつけられています。
「雨人」は屋根の上、棟の部分に立てられています。「雨人」の股の部分に棒が突き刺されており、その棒を屋根の棟に突き刺すことで、「雨人」は棟の上に立っているように見えます。
「雨人」の材料は藁でしょうか。頭や胴体は藁を何本も束ねて作られており、頭の上・首・腰の3か所で縛られているようです。手足もしっかりとあり、とくに手は指まで細かい作りです。
からだが雨に濡れるのを避けるためでしょうか、肩や腰には蓑を着けているように見えます。顔には眉・目・鼻・口がしっかりと書き込まれています。
右手には旗を持っています。竿の先から下がっているのは白い紙でしょうか、布でしょうか。「鹿嶋大明神」と墨書されたものが、風になびいています。
絵に添えられた説明に目を向けてみましょう。まず、人形の顔の向かって左側に「雨人」と記されています。
そして、説明文には「羽州仙北角舘村家、連日雨ニ日ヲコヒ祈ル時立之、又云鹿嶋祭リ、立之名ヲ雨人ト云フ」とあります(読みやすいように句点を補足)。
「雨人」が見られたのは、羽州の角館(現在の秋田県仙北市角館町)です。菅江真澄が当地を訪ねたのは、天明5年(1785)の初夏のこと。
雨が何日間も降り続くなかで、日照を祈願するとき、この人形が立てられます。この風習を「鹿嶋祭リ」といい、人形を「雨人」と呼ぶことが記されています。
「鹿嶋祭リ」をめぐっては、『日本民俗事典』を引くと「鹿島人形」の項があって、その一端を窺い知ることができます。そこには次のように記されています(民俗学者の宮田登〈1936-2000〉による執筆)。
災厄をもたらす悪神をそこに追いこめて追い出すという「鹿島人形」。「雨人」はその一形態として捉えることができそうです。「雨人」の場合、追いこまれる悪神は長雨をもたらす存在です。
ただ、このあと「雨人」はどのように扱われたのか、後始末の作法については、残念ながら明記されていません。
「雨人」という呼び名だけを耳にすると、あたかも雨を願うための人形かと勘違いしてしまいそうです。実際には逆で、雨が止んで日が照るようにという願いが込められています。
「雨人」への祈願内容は、昨今のてるてる坊主とよく似ています。ただ、設置場所には大きな違いが見られます。てるてる坊主は軒下に吊るされるのが一般的で、それは雨宿りをしているような格好です。
いっぽう、「雨人」は雨の降るなかで堂々と屋根の棟に立てられています。雨がたっぷりと浸みこんだことでしょう。事によると、わざと雨ざらしにすることで、まじないの効果を高めようとする工夫なのかもしれません。
この「雨人」のスケッチが収められているのは『凡国異器』(『菅江真澄全集』第9巻に所収)。菅江真澄が旅の先ざきで目にした景色や風習などのスケッチ85枚がまとめられています。
ただし、『凡国異器』の原本は現存せず、いま目にすることができるのは、大槻民治が模写した墨書きの写本です。
菅江真澄が角館で「雨人」を見た翌年、天明6年(1786)に磐井郡山目(現在の岩手県一関市)の大槻家を訪ねた折、披露した原本を民治が模写したものです。
大槻民治はのちに平泉を名乗る儒学者ですが、菅江真澄に会った当時はまだ14歳。残された写本『凡国異器』は、原本を忠実に模写したものではなく、説明文には民治による加筆も多いようです。
以上の『凡国異器』の書誌的事項は、『菅江真澄全集』第9巻の巻末に付された解題(民俗学者の内田武志〈1909-80〉による執筆)を参照しました。
角館で「雨人」を目にしてから4年後の寛政元年(1789)、菅江真澄は蝦夷(現在の北海道)に渡ります。そして、蝦夷の日本海岸を旅する途中、平田内という漁村(現在の久遠郡せたな町大成区)で「てろ〳〵ぼうづ」をたまたま目にして、やはりスケッチを残しています(★詳しくは、文末の「【てるてる坊主動画#8】てるてる坊主図録Ver.2.1 1789年~1941年」参照)。
参考文献
・内田武志・宮本常一〔編〕『菅江真澄全集』第9巻、未来社、1973年
・大塚民俗学会〔編〕『日本民俗事典』、弘文堂、1998年