昭和30年代のてるてる坊主(後編)——効力アップの工夫・お礼・罰をめぐって――【てるてる坊主考note#39】
1、昭和30年代への注目
ここ最近、昭和30年代のてるてる坊主をめぐって検討を重ねています。前々回に検討の切り口としたのは「姿かたち」「目鼻の有無」「文字の有無」といった点、そして前回に検討の切り口としたのは「呼び名」「作る機会」「材料」「設置場所」「設置方法」といった点でした(★詳しくは「昭和30年代のてるてる坊主(前編)——姿かたち・目鼻・文字をめぐって――【てるてる坊主考note#37】」、および「同(中編)——呼び名・動機・製作をめぐって――【同#38】」参照)。
検討材料としたのは、てるてる坊主研究所でジャンルを問わずに蒐集してきた、てるてる坊主が登場する文献資料です。昭和30年代の文献資料に登場するてるてる坊主をめぐっては、昭和39年(1964)から昭和30年(1955)まで1年ごとにさかのぼりながら、かつて全10回にわたって検討を加えました(★詳しくはマガジン「昭和30年代(1955-1964)のてるてる坊主たち」の各記事を参照)。
引き続き、本稿では昭和30年代のてるてる坊主をめぐって、「効力アップの工夫」および「お礼」「罰」という切り口から検討してみましょう。
2、効力アップの工夫①(数と大きさ)
まずは、てるてる坊主のまじないの効き目を高めようとする工夫をめぐって。言うまでもなく、てるてる坊主はほぼもれなく吊るされます。置いたり立てたりするのではなく「吊るす」というのも、そもそもは効力アップの工夫のひとつなのかもしれません。あるいは、願いを込めて文字を書き込むという作法も散見できますが、この点については前々回に詳しく検討しました。
ほかにもてるてる坊主の効力アップを狙って、あの手この手が試みられています(★表1参照)。
てるてる坊主をいくつも作るという例は毎年のようにたくさん見られます(★図1参照)。そうしたなか、てるてる坊主を作る数をめぐって注目したいのが、数を徐々に増やすという例と、年の数だけ作るという例。
まずは、てるてる坊主の数を徐々に増やすという工夫について。『選抜高校野球大会三十年史』(昭和33年)に記録されている、当時から7年さかのぼった昭和26年春の光景です[『選抜高校野球大会三十年史』1958:134頁]。
はじめは2つ3つだったてるてる坊主ですが、春の長雨がなかなか止まないので、5つ6つと数を増しています。
次に、てるてる坊主を年の数だけ作るという工夫について。伝記集『光を掲げた人々』1(昭和33年)に、当時から40年近くさかのぼった大正8年(1919)の出来事が綴られています[日本放送協会1958:85頁]。
当時の尋常小学校は6年制で、入学年齢は6歳。尋常小学校の生徒が年の数だけ作ったということは、てるてる坊主は6~12個ほど作られたようです。
数ではなく大きさに物を言わせようというのが、『川柳きやり』42巻7号(昭和36年)に寄せられている一句。ボリュームアップの工夫です[『川柳きやり』1961:29頁]。
3、効力アップの工夫②(酒)
引き続き、てるてる坊主のまじないの効き目を高めようとする工夫をめぐって。てるてる坊主に対して飴と鞭が巧妙に使い分けられています。まずは、飴と鞭でいうところの飴、すなわち、てるてる坊主を喜ばせて効力アップを狙う作法について。
てるてる坊主に酒をあげるのは、願いがかなったお礼としてという場合が多いのですが、あらかじめ願掛けの時点で酒をあげる例も7例散見できます。酒の種類は焼酎や甘酒のほか、ウイスキーや葡萄酒など、和洋さまざま。
ウイスキーをあげる事例は4例も見られますが、これはいずれも、北アルプスで起きたひとつの山岳遭難事件をさまざまな角度から取り上げたものです。当時から少しさかのぼった昭和28年の夏、富山・長野県境の標高2551メートル地点に建つ烏帽子小屋が舞台です。悪天候のなか、小屋で待機を余儀なくされている場面にてるてる坊主が登場します。
4例のなかのひとつ、『山岳遭難記』第3(昭和34年)に収められた「アルプスの谷の彷徨十三日間」と題する一文には、次のように記されています[春日1959:33頁]。
小屋に到着した翌日の7月20日も朝から雨続き。そのため、退屈しのぎにてるてる坊主を作って、ウイスキーを振りかけたり垂らしたりしています。むろん、このウイスキーは山での愉しみとして、重たい思いを我慢しながら担いできたものなのでしょう。
また、葡萄酒をあげる事例は、登山家・川森左智子(1907-88)の山岳紀行文『初恋の山』(昭和33年)に見られます。てるてる坊主が登場するのは「雨のシャモニー」と題された一章。フランスから招いた友人と上高地(現在の長野県松本市)を訪ねた際、川森は悪天候のなかで雨が止むようにとてるてる坊主を作り、酒を捧げたといいます。
その後、今度は川森がモンブラン登頂を目指し、その麓の街シャモニー(フランス)に到着した際にも悪天候に見舞われます。一緒にいたフランスの友人はてるてる坊主の風習を覚えていました。「日本でおまえが作った小さい人形」を作って祈るよう、川森に勧めます。そこで川森は言われるままにてるてる坊主を作り、葡萄酒を捧げて晴天を祈願しています[川森1958:34-35頁]。
4、効力アップの工夫③(嫌がらせなど)
次に、飴と鞭でいうところの鞭、すなわち、てるてる坊主に嫌がらせをすることで効力アップを狙う作法について。具体的には「逆さまにする」「罵る」「叩く」といった手法を、各地の郷土誌のなかに散見できます。
第一に逆さまにする事例。『足尾郷土誌』(昭和31年)の「風俗習慣」の章に、てるてる坊主が次のように簡潔に登場しています[足尾郷土誌編集委員会1956:122頁]。
執筆担当者は青木利夫(生没年不詳)。足尾は現在の栃木県日光市の一部です。このほか、てるてる坊主をわざと逆さまに吊るす光景は、昭和36年にも2例見られます。ただし、その2例はともに、雨が降ってほしいと願う事例。
嫌がらせではないものの、逆さまにするほかにも雨を願うさまざまな工夫が、昭和30年に集中して見られます。墨などで黒く塗るという例が3例。あるいは、てるてる坊主ならぬ「ふれふれ坊主」のなかに飴を入れるという例が1例。「雨」と音が同じ「飴」を用いた、洒落の利いた工夫です。
第二に罵る事例。『上伊那誌資料』第4(昭和32年)の「童言集」に、「てるてる坊主 糞坊主/あした天気に しておくれ」というわらべうたが収められています[『上伊那誌資料』1957:101頁]。長野県上伊那郡飯島町の七久保地区に伝えられてきたわらべうたです。一般的には「てるてる坊主 てる坊主」と唄う箇所を、当地では「てるてる坊主 糞坊主」と罵りの呼び名に替えて唄っています。
第三に叩く事例。これはてるてる坊主そのものをめぐる風習ではないものの、『唐津市史』(昭和37年)には当地の宝昌寺の仏像について、次のような記述が見られます[唐津市史編纂委員会1962:1255頁]。
唐津(佐賀県)の宝昌寺境内には天正13年(1585)の銘をもつ六観音と六地蔵があって、「テルテル坊主代りにたたかれる」といいます。てるてる坊主の代わりということは、晴天祈願にご利益がある仏像なのでしょう。
てるてる坊主の効力アップを狙う方法として、最後にもうひとつ注目しておきたいのが、こっそり吊るすという事例。詩人・山本和夫(1907-96)がまとめた詩集『小学生の詩』(昭和31年)の「遠足」の節に、以下のような解説文が付されています。「遠足の日が近づくと、みんなは、ラジオの天気よほうに、ちゅいします。また、前のばんには、テルテル坊主をつくって、こっそりと、木の枝につるします」[山本1956:148頁]。
遠足の前夜、てるてる坊主を作って木の枝に吊るすのですが、その際には「こっそりと」吊るすのだといいます。どうやら、誰にも知られることなく密やかにおこなうのが秘訣のようです。
5、お礼の作法をめぐって
続いては、願いがかなって好天に恵まれた場合の、てるてる坊主へのお礼をめぐって、たとえば、平凡社の『世界大百科事典』(昭和32年)で「照々坊主」の項をひも解くと、次のような説明が見られます[『世界大百科事典』1957:203-204頁]。
平凡社の百科事典なので、記載内容に信頼を置いてよいでしょう。てるてる坊主についても、当時の一般的な像が反映されているはずです。この「照々坊主」の項を執筆したのは小高吉三郎(1885-1964)。新聞記者やスポーツ評論家として知られ、昭和18年(1943)には『日本の遊戯』という書物をまとめている人物です。
願いがかなった際のてるてる坊主へのお礼として、「顔に目を入れてやったり、酒をかけてやったりする」といいます。わたしの管見が及んだ昭和30年代の資料においても、そうしたお礼の作法を散見できます(★表2参照)。
たとえば、河合勇(1899-)『小唄歳時記』(昭和33年)の「五月」の項に収められた「晴れた庭木」という小唄に注目してみましょう。作詞は日本画家の牛田鶏牛(1890-1976)、作曲は田村小登喜(生没年不詳)。てるてる坊主が次のように登場しています[河合1958:49頁]。
願いがかなった嬉しさのあまり、てるてる坊主に酒が浴びせられています。てるてる坊主は帯として水引を締めています。水引とは、和紙を紙縒り状にして、糊で固めた帯紐のこと。酒をたくさん浴びて、その水引から紅の色が溶けだしそうだというのです。
また、小唄の歌詞では続けて「目も鼻もへへののもへとたがいなく」とも唄われています。このように顔に「へへののもへ」と眉・目・鼻・口が書き込まれているのも、願いがかなったお礼としてなのかもしれません。
6、お礼としての酒
お礼に酒をあげる作法に触れている事例は、ほかにもふたつ。ひとつは、和紙店主・中村直次郎(1880-1963)が著した『和紙雑考』(昭和35年)から。和紙を用いる風習を列挙したなかで、凧や千羽鶴などと並べててるてる坊主を紹介しています[中村1960:65頁]。
もうひとつは、宗教学者・加藤玄智(1873-1965)の論考『神道信仰要系序論』(昭和37年)から。「各種シンボルの真義精考」と題した一文に次のような論述があります(読みやすいように、引用者が改行箇所を修正した)[加藤1962:226頁]。
てるてる坊主に酒をあげるのは、先述のように願掛けの時点であらかじめという場合も散見できるのですが、ここに挙げた2例では願いがかなったお礼としてです。そして、酒をあげたあとで川に流すという点も共通しています。
なお後者では、願いがかなわなかった場合に「照々坊主の首を引つこ抜いて捨てゝしまふ」と記されているのが気になりますが、こうしたてるてる坊主への罰についてはのちにまた触れます。
7、酒以外のお礼
酒以外のものがあげられている例も2例見られます。ひとつは、作曲家・河村光陽(1897-1946)の作品集『小鳩童謡百曲集』(昭和32年)に収められた「とおせんぼ」という曲 から(★図3参照)。
作詞は詩人・清水かつら(1898-1951)。歌詞は2番まであり、晴れた場合のてるてる坊主へのお礼に触れているのは、1番と2番のそれぞれの末尾。1番では「おれいにあんころ たんとあげよう」、2番では「おれいにあまざけ たんとのましょ」と唄われています[河村光陽・河村順子1957:173頁]。あんころ餅や甘酒といった甘いものが好まれるようです。
もうひとつは、小説家・原田種夫(1901-89)の『明治少年風俗誌』(昭和38年)から。明治34年生まれの原田が春吉(現在の福岡市中央区)で過ごした、幼少期の思い出を綴っています。そのなかの「てるてる坊主」と題した一文に見られるのが次のような記述[原田1963:74頁]。
願いがかなったら、てるてる坊主に茶と菓子を供えるといいます。いっぽう、願いがかなわなかった場合には「きたない溝の中にほうりこんでしまう」というのも気になります。それでは次に、こうしたてるてる坊主への罰について整理してみましょう。
8、罰の作法をめぐって
前掲した平凡社『世界大百科事典』の「照々坊主」の項では、願いがかなわなかった場合のてるてる坊主への罰については触れられていません。しかしながら、昭和30年代の資料においては、わたしの管見が及んだ限りでも、てるてる坊主に罰が与えられている事例を散見できます(★表3参照)。
願いがかなった場合のお礼について言及が見られたのは5例(前掲の表2参照)でしたが、いっぽう、願いがかなわなかった場合の罰について言及が見られるのは9例。お礼よりむしろ、罰のほうが多く言及されています。
たとえば、『日本児童文化』5号(昭和30年)に収められた、にしだみのる(1916-2006)の童話「てんじんさまのおまつり」から。そのなかには、子どもたちが楽しみに待ち望んでいた祭りの日に、あいにくの雨が降り続く様子が次のように記されています[『日本児童文化』1955:10頁]。
先述のように、『神道信仰要系序論』(昭和37年)には「天気にならなければ紙で作つた照々坊主の首を引つこ抜いて捨てゝしまふ」と記されていました[加藤1962:226頁]。また、『明治少年風俗誌』(昭和38年)には明治期の思い出として、「もし、雨が降ったら、きたない溝の中にほうりこんでしまう」という光景が綴られていました[原田1963:74頁]。
この両者を合わせたような、首をちょん切って川に流すという事例も見られます。次田利夫(1910-)らが編んだ『はとぶえ:小学生の詩と綴り方』(昭和33年)に収められている、「遠足中止」と題する作文から。作者は小学5年生の片桐弘美(生没年不詳)。遠足前夜にてるてる坊主を吊るしたものの、遠足当日に雨に見舞われた場面です[次田ほか1958:142-144頁]。
てるてる坊主を川に流すという作法は、願いがかなったお礼としてならばしばしば見られた光景です。しかしながら、ここでは願いがかなわなかった罰として川に流しているのが特徴です。
9、首をちょん切る、ちぎる
罰の具体例として多いのが、首を引っこ抜いたりちょん切ったり、あるいはちぎったりといった具合に、てるてる坊主を傷めつける方法。
首をちょん切るという事例は、先述したほかにも2例見られます。ひとつめは、『読切倶楽部』6巻6号(昭和32年)に収められている「コント テルテル坊主」から[『読切倶楽部』1957:137頁]。
てるてる坊主の効き目がなく、雨は烈しくなるばかりなので、てるてる坊主は首を鋏でちょん切られようとしています。
もうひとつは、福永かをり(1934-)の童謡集『子山羊』(昭和37年)に収められている「雨」と題された詩の一節[福永1962:120頁]。
雨が降るなか、首を切られるのが嫌で、てるてる坊主が「エンエン」と泣いています。
てるてる坊主をちぎるという事例も3例見られます。ひとつめは、『川柳きやり』38巻7号(昭和32年)に寄せられている一句。「照々坊主千切つて雨に捨てられる」。作者は「一甫」と記されています[『川柳きやり』1957:24頁]。
ふたつめは、文芸誌『若い広場』145号(昭和35年)に収められた、竜湖ゆみ(生没年不詳)の「黄昏」と題する小説から(傍点は原文のママ)[『若い広場』1960:49頁]。
台風が近づく秋の日、好天を願っててるてる坊主を吊るしたものの願いはかないませんでした。そこで、てるてる坊主は「ツイと」ちぎられ、どこか外へ放り投げられています。
最後のひとつは、小学校の児童の短歌を集めた『現代児童万葉集』(昭和37年)から。「せっかくの遠足なのに雨が降り、てるてるぼうずをちぎってしまう」という歌が収められています[池原1962:48頁]。作者は福島裕子(生没年不詳)。
これまで3回にわたって、昭和30年代のてるてる坊主に注目して、その特徴を浮き彫りにしてきました。引き続き、これに先立つ昭和20年代のてるてる坊主が気になるところ。また、稿をあらためて検討できればと思います。
参考文献(年ごとに編著者名や書名等の五十音順。うしろのカッコ内は詳しい掲載箇所や作者等。)
【昭和30年(1955)】
・『一年ブック』5(4)、学習研究社(上田京子〔作〕河野きみ〔画〕「かぞえましょう」)
・『日本児童文化』5、日本児童文化社(にしだみのる「てんじんさまのおまつり」)
【昭和31年(1956)】
・足尾郷土誌編集委員会〔編〕『足尾郷土誌』1956年版、足尾町学校組合会(青木利夫「風俗習慣」)
・日本子どもを守る会〔編〕『プレイメート』7(6)単元構成の模範絵本第4集、プレイメート刊行協会(せおたろう「ライオンたろう」)
・山本和夫『小学生の詩』、宝文館(「遠足」)
【昭和32年(1957)】
・『上伊那誌資料』第4 上伊那のわらべ唄―長野県上伊那地方の童唄、上伊那誌編纂会(「童言集」)
・河村光陽〔作曲〕河村順子〔編〕『小鳩童謡百曲集』、新興楽譜出版社(清水かつら「とおせんぼ」)
・『世界大百科事典』第20 (ツナートイ)、平凡社(小高吉三郎「照々坊主」)
・『川柳きやり』38(7)、川柳きやり吟社(一甫)
・『読切倶楽部』6(6)、三世社(「コント テルテル坊主」)
【昭和33年(1958)】
・河合勇『小唄歳時記』、八木書店(牛田鶏村〔作詞〕田村小登喜〔作曲〕「晴れた庭木」)
・川森左智子『初恋の山』、平凡出版(「雨のシャモニー」)
・『小説倶楽部』11(9)、桃園書房(服部みちを「居残り三ちやん」)
・『選抜高校野球大会三十年史』、毎日新聞社(「“渦潮打線”の大暴れ 第二十三回高校4回(昭和26年) 鳴門高優勝」)
・次田利夫ほか〔編〕『はとぶえ:小学生の詩と綴方』、三一書房(片桐弘美「遠足中止」)
・日本放送協会〔編〕『光を掲げた人々』1、高橋書店(「松本訓導」)
【昭和34年(1959)】
・春日俊吉『山岳遭難記』第3、朋文堂(「アルプスの谷の彷徨十三日間」)
・静岡福祉事業協会〔編〕『あそび』13(6)、児童福祉会(早川元二〔文〕林俊夫〔絵〕「あめ あめ やんどくれ」)
【昭和35年(1960)】
・中村直次郎『和紙雑考:見たまゝ聞いたまゝの和紙についての記録』、榛原商店
・『若い広場』145、若い広場社(竜湖ゆみ「黄昏」)
【昭和36年(1961)】
・『川柳きやり』42(7)、川柳きやり吟社(「竹の子旬報」藤の家)
・『婦人生活』15(6)、婦人生活社(太田じろう「こどもまんが・こぶたのぶうちゃん」)
【昭和37年(1962)】
・池原楢雄〔編〕『現代児童万葉集』、大阪市文化協会(福島裕子)
・加藤玄智『神道信仰要系序論』、文学博士加藤玄智先生学績記念出版会(「各種シンボルの真義精考」)
・唐津市史編纂委員会〔編〕『唐津市史』、唐津市(「第六編 現在」)
・福永かをり『子山羊:童謡集』、日本童話会(「雨」)
【昭和38年(1963)】
・原田種夫『明治少年風俗誌』、ジャパン・コンサルタント・ルーム(「てるてる坊主」)
【そのほか】
・小高吉三郎『日本の遊戲』、羽田書店、1943年