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続・掃晴娘と比べてみれば 【てるてる坊主考note #14】

はじめに

 中国の掃晴娘は、日本のてるてる坊主と似た、止雨や晴天を祈願するまじないの人形です。中国で発行された書物に見られる掃晴娘について、かつて紹介しました(「中国史のなかの掃晴娘 【てるてる坊主考note #4】」とその続編【#8】参照)。
 掃晴娘の特徴を整理すべく、わたしの管見の及んだ上記の事例をめぐって、前回いくつかの切り口から検討を加えました(「掃晴娘と比べてみれば 【てるてる坊主考note #13】」参照)。注目したのは「1、年代」「2、地域」「3、呼び名」「4、現状の天気と願い」といった属性です(★下記の表1参照)。

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 引き続き本稿では、「1、材料と姿かたち」「2、持ちもの」「3、設置する場所と方法」「4、効果を高める工夫とお礼」「5、作り手」といった属性を切り口に、掃晴娘の特徴を探っていきます(★下記の表2参照)。前回と同様に、随所で日本のてるてる坊主との比較も試みます。もとより、前回とは違って、今回注目するいくつかの属性をめぐっては、てるてる坊主を対象とする詳しい分析をまだおこなっていません。そのため、おおまかな比較となってしまうことをご了承ください。
 前回、対象とした掃晴娘の事例は、わたしの管見の及んでいた15点でした。本稿では新たに1点を加え、対象とする事例は計16点。新たに加わるのは、中国民俗研究者の永尾龍造(1883年生まれ)が著した『満洲・支那の習俗』(1938年)に記載されている事例です(表1および表2において下から2番目、№の欄に☆を記した事例)。

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1、材料と姿かたち

 掃晴娘の事例全16点のうち、材料が明記されている事例は10点。そのうち8点は、記されている材料は紙のみです。紙のみ記されている8点のうち、7点は単に「紙」とだけ記されています。唯一の例外は17世紀前半の『帝京景物略』(上記の表2の②)記載の事例で、「白紙」と「紅緑紙」で作られています。
 紙と併せてほかの材料にも言及されているのは2点(⑭☆)。ともに1930年代の事例です。滎陽けいよう(河南省)における風習を集めた『礼俗』(⑭)記載の「掃天娘娘」は「高粱稭」、すなわちコウリャンの茎の芯で作ると記されています。その小さな人形に「黄紙」を切って作った衣を着せ、頭には「菽稭」すなわち豆の茎で作った髪飾りをつけます。また、『満州・支那の習俗』(☆)には、「あたらしいぬのあるひ色紙いろがみ」で作ると記されています。
 てるてる坊主の場合、昨今では紙だけでなく、布などで作られている例も散見されます。しかし、かつてはもっぱら紙で作られていたようです。いまでこそ、紙はわたしたちにとって身近な素材ですが、かつてはそう簡単には入手できない貴重な素材だったことでしょう。

 掃晴娘の姿かたちについて明記されている事例は11点。「女孩」(⑨)「女子」(⑪⑫)といった女の子の姿が目立ちます。ほかにも「婦人」(②)「女形」(⑤)など、女性の姿に作ると明記されている事例が並んでいます。20世紀前半には「一活発くわつはつ女学生風ぢよがくせいふう流行りうかうしてゐた」(☆)という記述も見られます。また、事例①も「裳」すなわちスカート風の衣裳を着せると説明されているので、やはり女性のようです。
 上記の6点に加えて、姿かたちについては言及がないものの、呼び名から女性であることがわかる事例6点(④⑥⑧⑬⑭⑮。このうち⑭は代名詞で「她」すなわち彼女と表記あり)を合わせると、全16点のうち実に13点が女性です。
 女性かどうかわからない残る3点は、姿かたちへの言及がない「掃晴人」(③)と「倒貼和尚」(⑦)、そして、呼び名は不明の「糊人形」(⑩)です。このうち、「倒貼和尚」は語尾に「和尚」と付くので、てるてる坊主と同じような坊主頭をしていたかもしれません。また、掃晴娘は1枚の紙から切り紙のように作る平面状のものが基本形のようですが、「糊人形」は紙を糊で固めた立体的な作りでしょうか。

 てるてる坊主の場合、昨今のものは坊主頭で立体的に作られます。紙や布などを丸めて上から包み、裾はスカートかポンチョのように広がった作りです。しかしながら、かつてのてるてる坊主は昨今とは異なる姿をしていたようです(★下記の図1参照)。
 てるてる坊主が文献上で姿を現しはじめるのは、わたしの管見の限りでは近世(江戸時代)のなかごろ。それから昭和30年代前半(1950年代後半)までの長いあいだ、てるてる坊主は着物を着た姿が主流でした。軸となる体のうえから、折り紙のように折って作った着物を着ています。あるいは、1枚の紙を人の輪郭のかたちに切っただけの、簡単な切り紙のような平面状の姿も、近世(江戸時代)に描かれた絵に散見されます。

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2、持ちもの

 掃晴娘の持ちものが明記されている事例は9点(①②⑤⑥⑨⑪⑫☆⑮)。そのすべてがほうきを持っています。竹かんむりの付かない「帚」と表記されることが多いようです。呼び名の「掃」という字が表しているように、言うまでもなく、手にした箒で雲を掃き払ってしまうことが期待されているのでしょう。そして、掃き集めた雲を収めるために、箒とセットで箕(⑥⑨)やちり取り(「簸箕」。⑮)を携えている事例も見られます。
 17世紀前半の北京における風習をまとめた地誌『帝京景物略』(①)によれば、掃晴娘に持たせる「小帚」は「苕菷苗」を縛って作ると記されています。「苕菷苗」とは、アカザ科の一年草であるハハキグサ(苕草)の苗のこと。
 また、20世紀後半に記された散文「我的家」(⑮)には、「笤帚」という表記が見られます。上記した「菷苗」の「苕」の字は草かんむりですが、「帚」の「笤」の字は竹かんむりです。「笤帚」とは、コウリャンやキビの穂を束ねて作ったぼうきのことを指すそうです。

 昨今のてるてる坊主に目を転じてみると、掃晴娘が手にしているような箒などの道具はもとより、道具を持つための手すら見当たりません。頭に続く体の部分は、ヒラヒラとしたスカートかポンチョのような衣裳のみです。かつて主流だった着物姿のころには、袖に腕を通しているてるてる坊主も見られましたが、やはり手には何も持っていません。
 もとより、掃晴娘に求められているのが「(雲を)掃く」ことであるのに対し、てるてる坊主に求められているのは「照る」ことです。「(雲を)掃く」(他動詞)と「照る」(自動詞)。自らの力だけが頼りのてるてる坊主に、道具など無用なのかもしれません。

3、設置する場所と方法

 掃晴娘を設置する場所が明記されている事例は11点。目立つのは「軒下のきした」(☆)とその周辺です。「簷」(②⑤⑨)および「檐」(④⑫)にも、のきひさしという意味があります。また、「廊」(⑪⑫)も庇という意味です。いずれも、建物の内と外を分ける境目に位置します。雨降りの際、ちょっとした雨宿りをするのに適した場所です。とりわけ、「簷」(②)や「簷」(⑨)などは、軒のさらに際や外側といったギリギリの場所が選ばれている点が注目されます。
 軒や庇よりも一回り内側の事例も見られます。事例⑮では「墙上」すなわち壁に設置されています。部屋の内と外を分ける境目です。そこで「風一吹」、すなわち少し風にあてると説明が付されていることから、外気に触れやすい位置にある壁が選ばれているようです。
 あるいは、軒や庇よりも一回り外側にあたる「門左」(⑧)という事例も見られます。「門左」が左側の門を指すのか、あるいは、門の左側の側面を指すのか、定かではありません。内側から見て左なのか、外側から見て左なのかも不明です。ともあれ、門は敷地の内と外を分けるものであり、やはり境目です。
 そのほかに設置場所として明記されているのは「庭」(⑩)と「樹上」(⑭)です。前者の事例⑩は「庭」にポツンと置かれるわけではなく、「縄に結び付け……」と説明されているので、庭木か何かに結び付けられているのでしょう。また、後者の事例⑭の「樹上」とは「樹の上」ではなく、「樹に」という意味で使われているようです。前掲した軒や庇のような建物の境目だけでなく、門や樹の陰もまた、雨宿りをするには適所と言えるでしょう。

 設置方法で目立つのは「挂(懸)」(①②③⑤⑧⑨⑫☆)、すなわち掛ける(ける)。あるいは、庭で「縄(ママ)結び付け」たり(⑩)、樹に「縄子把她繋」(⑭)すなわち縄でくくりつけたり、という方法もあったようです。
 そのほか、「倒貼和尚」(⑦)はその呼び名から想像して、おそらく逆さまに貼り付けられたのであろうと推測されます。また、事例⑪も説明のなかに「粘る」ことを意味する「黏」という表現が見られ、やはり貼り付けられたのでしょう。事例⑮も壁に「貼」と明記されています。
 掛ける(懸ける)、くくりつける(結びつける)、貼るといった具合に、手段はさまざまです。しかし、いずれも床や地面を離れて半ば宙に浮いたような、不安定な状態に留め置かれています。なかでも、「簷外」へ「懸之竿頭支出」(⑨)、すなわち竿の頭に懸けて軒の外へ支え出す事例などは、宙ぶらりんの最たる状態と言えるでしょう。
 半ば宙に浮いたような不安定な状態に留め置いたうえで、「風に吹かせ……」(⑩)あるいは「風一吹」(⑮)すなわち風にあてることも大事なポイントのようです。風の力で「便揺手」(①)すなわち手を動かしているように見えたり、「就揺動起来」(⑮)すなわち(掃晴娘全体が)揺れ動きはじめたりします。要するに、「掃晴娘サオチンニヤンかぜくまゝにあちらこちらと転々てんてんうごいて、そのつてゐるほうきそらくやうなかたちになる」(☆)のです。

 てるてる坊主の場合も、軒下や窓辺など建物の周辺部分に多く見られます。木の枝にもときおり見かけられます(★前掲した図1のⅠとⅢ参照)。設置方法に注目すると、てるてる坊主は吊るされている場合がほとんどですが、木に結び付けられていたり、窓辺にセロハンテープで貼り付けられたりしていることもあります(★下記の図2参照)。掃晴娘と同じく、床や地面に置かれていることは皆無で、半ば宙に浮いたような不安定な状態に留め置かれているのが常です。

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4、効果を高める工夫とお礼

 まじないの効果を高めようと、掃晴娘にはさまざまな工夫が試みられています。いくつか列挙してみましょう。

 1つ目は「人刺指血塗」(⑥)という痛ましい事例。「血塗」という表現からは、けっこうな量の血が想起されます。
 2つ目の逆さまにするという方法は2点見られます。先述した「倒貼和尚」(⑦)のほか、「顚倒足朝天頭朝地……」(⑫)すなわち「逆さまにして、足を天に向け、頭を地面に向けて……」という事例が見られます。後者の場合、その理由として「足朝天可掃去雨點」、すなわち、足を天に向けることで(箒の先も天に向くので)、雨雲を掃き去ることができるように、と説明が付されています。
 願いを具体的な言葉にして表す方法も散見されます。その1つは、3つ目の「腹部に求晴の二字を書し……龍王に禱告」するという事例(⑩)。掃晴娘の腹部に記される「求晴」という2文字には、言うまでもなく、晴れますようにという願いが込められています。その祈願の対象として名前が挙がっている「龍王」とは、掃晴娘の説話にも登場する神さまで、水の大規模な働きをコントロールする力をもつとされています。
 言葉で表すもう1つの方法として、4つ目の唱え文句を口にするという事例も2点見られます。具体的な唱え文句はというと、1点目は「掃天娘娘掃晴天、給你做這紅青大布衫」(⑭)。この事例を紹介している沢田瑞穂(中国文学者。1912-2002)は、唱え文句を次のように意訳しています。「空掃き神さま空を掃け、きれいなおべべを着せてやろ」[沢田1990:446頁]。
 もう1点の唱え文句は「掃晴娘サオチンニヤンちやうさん、お天道てんとうさんにめられて、一きすればあめみ、二たきすればおる」。日本人の著者が紹介している事例なので、日本語訳が記されています。唱え文句のなかの「張さん」というのは、掃除晴の説話に登場する少女です。掃晴娘の説話については、また機会をあらためて詳しく紹介します。

 晴れて願いがかなった際の作法について明記されているのは2点。ともに20世紀前半の事例で、「焼棄する」(⑩)あるいは「焚去」(⑫)という方法です。「焼棄」や「焚去」という表現からは、役に立たないものを処分するような感覚が受け取れます。しかしながら、この場合は、お札やお守りなどをお焚き上げするのと同様に、報労や感謝の気持ちが込められているのでしょう。

 てるてる坊主の場合はどうでしょうか。上記の工夫4つのうち、1つ目の「作成者が指を刺して、その血を塗る」という作法は、てるてる坊主には見られません。
 ほかの3つの工夫は、てるてる坊主を吊るす際にもしばしば施されてきました(★下記の表3参照)。とりわけ、「逆さまにする」工夫は近世(江戸時代)にはむしろ主流だったようです(★前掲した図1のⅢとⅣ参照)。当時描かれたてるてる坊主の多くが逆さまに吊るされています。また、「願いを文字で書き込む」工夫も古今を通じて散見されます(★下記の図3参照)。そして、「唱え文句を口にする」工夫の例としては、「あした天気にしておくれ」というよく知られたフレーズが思い浮かびます。

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 願いをかなえてくれたてるてる坊主へのお礼としては、あらかじめのっぺらぼうに作っておいたものに目鼻を書き加えたり、神酒を供えたり川に流したりといった方法が見られます。
 掃晴娘のようにお焚き上げをする例は、わたしの管見の限りでは、民間の風習には見られません。ただ、奈良県五條市のある寺で先日、てるてる坊主がお焚き上げされたというニュースがありました。昨今のコロナ禍に際して、晴天祈願ではなく疫病退散を願って、全国からてるてる坊主を募り、集まった数多くのてるてる坊主はお焚き上げされたとのことです(★「NHK NEWS WEB」の2021年3月24日付け記事「“てるてる坊主”をお焚き上げ「コロナ退散」祈願 奈良 五條」より)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210324/k10012934201000.html

5、作り手

 掃晴娘の作り手について明記されている事例は、18世紀後半以降に集中して9点。目立つのは女性です。たとえば、事例⑤に見られる「|閨閣」や、⑧と⑬に見られる「閨」とは婦人の寝室を意味します。すなわち、「閨閣中」(⑤)や「閨人」(⑬)とは婦人という意味。「閨中児女」(⑧)は少女でしょうか。
 このほかにも、「童女」(⑥)や「十五さい以下いかぐらゐ純潔じゆんけつ少女せうぢよ」(☆)、あるいは「好事之婦」(⑨)や「堂姐」(⑧)すなわち年上の女性のいとこなど、女性が数多く登場します。男性より女性が作ったほうが、まじないの効力を期待できるようです。
 なかでも注目されるのが「未生有女之婦人」(⑨)。この事例を紹介している沢田瑞穂は「いまだむすめ生有そだてざる婦人」と意訳しています[沢田1990:444頁]。女性にはまじないの効力が期待されるいっぽうで、女の子を産むとその力は衰えてしまうようです。ひょっとすると、その力は母から娘へと受け継がれていく性質があるのかもしれません。
 上記の少女たち(⑥⑧☆)に加え、少女とは限らない「童」(⑦)を合わせると、4点が子どもです。概して、掃晴娘は女性や子どもたちが担ってきた風習と言えそうです。
 また、「独女或独男」(⑭)すなわち一人娘か一人息子に限るという事例も見られます。この場合、子ども限定なのか大人でも構わないのか、定かではありません。いずれにせよ、一人っ子にはまじないの効き目を高める力が集中するようです。このほか、「農民」(⑩)の手により、大雨のなかで晴天を願って作られている事例が1点見られます。

 てるてる坊主の場合、昨今のおもな作り手は保育園や小学校に通う子どもたちでしょうか。運動会や遠足などの行事を控えて作る(あるいは、作らされる?)光景が思い浮かびます。
 かつて、小学校の教科書を題材として、てるてる坊主が登場する場面の挿絵に注目し、そこに一緒に描かれた人物の性別を検討したことがあります(★下記の「【てるてる坊主動画#7】教科書に描かれたてるてる坊主――続編――」参照)。
 てるてる坊主が登場する教科書の挿絵19点のうち、人物も登場するのは13点。その内訳は、男女混在が7点、女の子のみが5点、男の子のみが1点でした。数のうえでは女の子が優勢です(もとより、ここでの性別の判断は描かれた外見だけを手がかりとしており、とても一面的です)。
 歴史をさかのぼってみても、たとえば、近世(江戸時代)の随筆『松屋筆記』(1818-45年ごろ)では、「てる〳〵ぼうし」の項に「今の児女●●晴を祈るに紙にて人形を作りて……」と記されているように、やはり女の子が作り手となっている例が目立ちます(傍点筆者。同じ音の繰り返しを表す踊り字(くの字点)は横書きできないため「〳〵」と表記)[小山田1818-45ごろ:41丁オモテ]。

おわりに

 中国の掃晴娘と日本のてるてる坊主には、属性にいくつかの共通点が見られます(★下記の表4参照)。主な材料が紙である点、主な作り手が女性や子どもである点、設置場所に雨宿りに適するような場所が択ばれる点、そして、設置方法としては宙に浮いた状態にされる点などです。
 いっぽうで、はっきりと異なる属性もいくつかあります。たとえば、姿かたちについては、掃晴娘は女性である場合がほとんどであるのに対し、てるてる坊主は坊主頭です。また、持ちものの有無やお礼のしかたにも違いが目立ちます。

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 ともあれ、止雨や晴天を願うまじないの1つのかたちとして、中国でも日本でも人形が作られるのは興味深い一致です。掃晴娘とてるてる坊主の類似をめぐっては、日本でも早くから着目されており、近世(江戸時代)に著された随筆や辞書において、すでにしばしば言及されています。近年では、てるてる坊主の起源を掃晴娘に求める、根拠のない安易な結び付けも散見されます。そうした、掃晴娘とてるてる坊主の位置づけをめぐっては、また機会をあらためて整理します。

 掃晴娘とてるてる坊主に共通点が見られる、設置場所と設置方法について、もう少し詳しく検討してみましょう。
 本稿で整理したように、掃晴娘の設置場所は軒や庇のほか、壁や門、庭や木など。そこは、雨に濡れる心配のない完全な屋内ではなく、あるいは、雨ざらしになるような完全な屋外でもありません。先述のように雨宿りをするのにちょうどいいような場所です。また、設置方法は掛ける(懸ける)、貼る、くくりつけるなど。床や地面からは離されて、不安定な状態に留め置かれます。
 いっぽう、ちまたで見られる昨今のてるてる坊主は、軒下に吊るされているのが一般的です。ときには、窓辺にセロハンテープで貼られた姿も散見されます。雨に濡れそうで濡れない中途半端な場所で、半ば宙に浮いたような状態を強いられるのは、掃晴娘と同様です。
 とりわけ掃晴娘の場合には、そうした設置場所・方法が択ばれる意味について、しばしば言及されています。すなわち、外気に触れやすい場所で宙ぶらりんにされることで風に吹かれ(①⑩☆⑮)、そのために体全体や手が揺れ動き(①☆⑮)、その結果として、箒で雲を掃いているかのごとく見える(⑫☆)のです。場合によっては、箒の先が天のほうを向くようにと逆さまに掛ける例(⑫)も見られます。
 ここで注目したいのが、「箒で雲を掃いているかのごとく見える」のはたまたまなのか、それとも、わざとなのかという点です。「外気に触れやすい場所で宙ぶらりんにされる」ことで期せずして「風で揺れ動く」こととなり、その結果「箒で雲を掃いているかのごとく見える」のでしょうか。もしくは「風で揺れ動く」ことで「箒で雲を掃いているかのごとく見える」ように、意図的に「外気に触れやすい場所で宙ぶらりんにされる」のでしょうか。
 確かなことはわかりませんが、「外気に触れやすい場所で宙ぶらりんにされる」→「風で揺れ動く」→「箒で雲を掃いているかのごとく見える」という流れは、何やら理屈っぽく、きれいに整いすぎている感があります。そうした流れへの言及が、13世紀終わりの1例(①)を除くと、20世紀に入ってから急に相次いでいる(⑩⑫☆⑮)点も気になるところです。掃晴娘が「箒で雲を掃いているかのごとく見える」のは、おそらくたまたまなのではないでしょうか。
 てるてる坊主に目を転じてみましょう。雲を掃くための箒を持たないてるてる坊主は、「箒で雲を掃いているかのごとく見える」必要はなく、「風で揺れ動く」必要もありません。それでも、掃晴娘と同じく「外気に触れやすい場所で宙ぶらりんにされる」という点が徹底されているのは不思議です。てるてる坊主の設置場所や設置方法をめぐっても、また機会をあらためて検討します。


参考文献

【全体に関わるもの】
・小山田与清 『松屋筆記』巻94、1818-45年ごろ
・沢田瑞穂 『修訂 中国の呪法』、平河出版社、1990年(初版は1984年)

【表1と表2に関わるもの】
(丸数字は表1と表2の№に対応。二重括弧内は原典にあたることができなかったための参照元。)
① 李俊民 「掃晴婦」 ≪下記の⑤に引用≫
② 刘侗・于奕正 『帝京景物略』、1635年 ≪崔瞿〔校注〕、上海遠東出版社、1996年≫
③④ 銭謙益 『列朝詩集』、1652年 ≪(詩歌総集叢刊 明詩巻)、三聯書店上海分店、1989年≫
⑤ 趙翼 『陔餘叢考』、1790年 ≪欒保群〔點校〕、(新校本)下(学術筆記叢刊)、中華書局、2019年≫
⑥⑦ 范寅 『越諺』巻中、谷応山房、1882年
⑧ 敦崇 『燕京歳時記』、1906年 ≪小野勝年〔訳〕 『燕京歳時記 北京年中行事記』(東洋文庫83)、平凡社、1967年≫
⑨ 傳崇榘 『成都通覧』第4冊、通俗報社、1909年
⑩ 天保仙 「清国の迷信(つゞき)」(『燕塵』第3年第2号、燕塵会、1910年)
⑫ 胡樸安〔編〕 『中華全国風俗志』下篇巻3、广益書局、1923年 ≪上海書店、1986年≫
⑬ 周振鶴 『蘇州風俗』、民俗学会叢書、国立中山大学語言歴史研究所、1928年 ≪婁子匡〔編〕、(中山大学民俗叢書14)、東方文化供応社、1970年≫
⑭ 陳文軒 「祈雨和祈晴 河南滎陽」(『礼俗』第5期、国立北平師範大学研究所、1931年)
☆ 永尾龍造 『満洲・支那の習俗』(満鉄社員会叢書第28輯)、満鉄社員会、1938年
⑮ 汪曽祺 「我的家」(『作家』第12期、1991年) ≪徐強〔主編〕 『汪曽祺全集』5 散文巻、人民文学出版社、2019年≫


#雨の日をたのしく


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