中国史のなかの掃晴娘 【てるてる坊主考note #4】
はじめに
てるてる坊主によく似た風習として、しばしば惹き合いに出される、中国の「掃晴娘」という風習があります。読みかたは「そうせいじょう」もしくは中国語の音で「サオチンニャン」(本来ならば中国語では「掃」の字は簡体字で表しますが、本稿ではなじみ深い繁体字のままで表します。「掃」以外の漢字表記についても同様)。
『日本民具辞典』(1997年)、『日本民俗大辞典』(2000年)、『絵引民具の事典』(2008年)でてるてる坊主の項を引いてみると、もれなく掃晴娘についても触れられています。該当箇所を引用してみましょう[日本民具学会1997:379頁、福田ほか2000:159頁、岩井ほか2008:423頁]。
掃晴娘とは箒を持った紙人形で、娘の姿をしており、日乞いに使われることがわかります。それ以上に注目しておきたいのが、いずれの辞書においても、この掃晴娘こそがてるてる坊主の起源であると明言されたり示唆されたりしている点です。
てるてる坊主の起源ははたして掃晴娘なのでしょうか。こうした問いの前段階として、そもそも掃晴娘とはどういった風習なのでしょうか。具体的なありようを探るべく、本稿では中国の歴史上の文献に登場する掃晴娘の姿に目を凝らしてみましょう。
私の管見の及んだ文献は5点。そのなかで、掃晴娘が登場する最も古いものは、明の時代(1368-1644)の『帝京景物略』(1635年)。そのほかに、清の時代(1644-1912)の『列朝詩集』(1652年)『陔餘叢考』(1790年)『燕京歳時記』(1906年)の3点、および、中華民国の時代(1912-49)の『清稗類鈔』(1916年)です。これら5点について年代順にご紹介します。
1、『帝京景物略』(1635年)
『帝京景物略』は劉侗や于奕正によって編まれ、崇禎8年(1635)に刊行されました。読みかたは「ていきょうけいぶつりゃく」あるいは「ていけいけいぶつりゃく」。明の時代における、北京の地理や名所、風習が詳細に紹介されています。
全8巻のうち「巻之二」は「城東内外」と題され、「城内」「城外」の2部構成。後者の「城外」の部に「春場」という項があります。そのなかで、年中行事の紹介に続く「雑記」として、雨乞いや日蝕・月蝕のことと並んで「掃晴娘」について簡単に記されています。以下のとおりです(引用はインターネット上のデジタルライブラリ「中国哲学書電子化計画 Chinese Text Project」より。以下同じ)。
意訳を試みると、次のようになるでしょうか。
長雨に際して現状打破のために作られることがわかります。紙を材料として作られ、その頭は白、衣は赤と緑という補色です。「作婦人首」とありますが、頭に「婦人」であることをどのように表現するのかはわかりません。
頭は紙を丸めた立体的なものでしょうか、あるいは、紙を切り取った平面的なものでしょうか。頭については先述のように「作婦人首」と表現されているのに対し、衣については「剪紅緑紙」と表現されており、「作」と「剪」とが使い分けられています。この使い分けに注目するならば、衣は紙を「剪った」平面的なつくりであり、いっぽう、頭は丸めて「作った」立体的なつくりなのではないかと推測されます。
余談ですが、画家であり絵本作家でもある、いわさきちひろ(1918-74)が描いた絵には、てるてる坊主がしばしば登場します。そのなかの1枚に、頭は白く立体的、衣は赤く平面的な姿のてるてる坊主が描かれています。どことなく、『帝京景物略』に記された掃晴娘を彷彿とさせる姿です(★下記の図参照)。
話を戻すと、掃晴娘は軒下の竿に吊るされます。その際、小さな箒を持たせるのが特徴的です。箒の材料には「苕菷」の新芽が用いられるようですが、「苕菷」とは何なのか、不勉強で私にはわかりません。ただ、赤と緑の衣を着て、緑の新芽を束ねた箒を携える姿は、遠目にも目立つことでしょう。
2、『列朝詩集』(1652年)
『列朝詩集』は明の時代の詩を集めた選集です。銭謙益(1582-1664)によって編まれ、清の時代の初め、順治9年(1652)に成立しました。先述の『帝京景物略』の刊行から17年後のことです。
『列朝詩集』は全81巻からなり、約2000人の作品が集められています。最初の2巻である「乾集」は皇帝や王族の作品からなり、そのなかの「乾集之下」に蜀成王の詩が31首収められています。そのうちの1首に「掃晴人」が登場する七言絶句があります。以下のとおりです。
私なりに意訳を試みてみます。
冒頭に長春(現在の吉林省)での宴をあすに控えていることが示されています。そのため、長春からそう遠くない土地で作られた詩であると推測されます。そして、先述の『帝京景物略』に見られたような「掃晴娘」ではなく、「掃晴人」と表記されているのが注目されます。
材料や具体的な姿かたちについては触れられていません。ただ、長雨が続くなかで翌日に行事を控えて作られること、および、「掃晴娘」と同様に吊るされた格好であることが読み取れます。
3、『陔餘叢考』(1790年)
『陔餘叢考』は趙翼(1727-1814)によって著された学術書で、清の時代の半ば、乾隆55年(1790)に成立しました。読みかたは「がいよそうこう」。史学や経学、文学などさまざまな分野の事項について、典拠を示しつつ起源などが解説されています。全43巻のうち「巻三十三」に「掃晴娘」の項があり、以下のように記されています。
やや長くなりますが、意訳を試みると、次のようになるでしょうか。
まずは、先述の『帝京景物略』に見られた「掃晴娘」と同じく、長雨に際して現状打破のために作られることがわかります。紙を材料として女性の姿を作ること、手には箒を持たせること、および、軒下に吊るすことも、やはり『帝京景物略』の例と同じです。
続いて、李俊民の詩が引用されています。李俊民は元(1271-1368)の初め、すなわち13世紀終わりごろの詩人と紹介されています。『陔餘叢考』の成立が1790年すなわち18世紀終わりごろなので、両者のあいだには500年ほどの開きがあります。
詩の題は「掃晴娘」ではなく「掃晴婦」である点が注目されます。李俊民の詩に登場する、13世紀終わりごろの「掃晴婦」の姿に目を凝らしてみましょう。詩の引用部分は「7・7・6」という文字数で構成されているようです。
最初の7文字は「卷袖搴裳手持帚」。「裳」とは、腰から下にまとうスカート状のものを指します。昨今、私たちが目にするてるてる坊主と同じような格好を思わせます。ただ、衣には袖があるようで、その袖を巻き上げ、手にはやはり箒を持っています。腕まくりをした働き者の女性の姿をしているようです。
続く7文字は「挂向陰空便搖手」。「掃晴婦」に願いごとをする時点で雨は降っていないようで、日が陰った空に向かって掛けられます。そうして、手にした箒で雲を掃き散らしてしまうことが期待されているようです。最後の6文字「其形可想見也」の部分は、私の力及ばず、よくわかりません。
『陔餘叢考』の作者である趙翼は、長江下流に位置する江蘇省の出身です。そのためか、「掃晴娘」について、説明の冒頭では「呉俗」すなわち長江流域の風習であると書き起こしています。しかし、そのあとから、「掃晴婦」の詩を作った李俊民が「澤州」すなわち現在の山西省あたりの人物であること、さらには、同じ風習が河北省にも見られることを付け加えています。山西省や河北省は中国北部に位置します。そのため、掃晴娘の風習は中国南部の長江流域だけでおこなわれていたわけではないと結論づけています。
最後に、李俊民が「掃晴婦」の詩に付した序文を手がかりとして、『陔餘叢考』では掃晴娘に期待される役割について触れています。すなわち、長雨の際に晴れを祈るだけでなく、驚くべきことに、旱魃の際に雨を祈るというまったく逆のケースにも用いられたことが指摘されています。
4、『燕京歳時記』(1906年)
『燕京歳時記』は富察敦崇(1865-1927)によって著され、清の時代の終わりごろ、光緒32年(1906)に発行されました。読みかたは「えんけいさいじき」。題名にある「燕京」とは北京の別名であり、当地とその周辺の年中行事や名所、物産などが月ごとに紹介されています。「六月」に「掃晴娘」の項があり、以下のように簡単な説明が見られます。
『燕京歳時記』は小野勝年(1905-88)によって日本語訳され出版されています。「掃晴娘」の項についても、以下のように的確な訳が施されています[敦崇1967:140頁]。
先述の『帝京景物略』や『陔餘叢考』に見られた「掃晴娘」と同じく、長雨に際して現状打破のために作られることがわかります。やはり、紙を材料として、それを切って人のかたちを作ります。「掃晴娘」と呼ばれているので、自ずと女性の姿を意識して作るものと思われます。作り手も「兒女」すなわち少女たちです。「閨中」すなわち「女子の居間」において掃晴娘が作られます。
注目されるのは掃晴娘の設置場所です。少女たちは掃晴娘を「懸於門左」すなわち「門の左に懸ける」ことが明記されています。『帝京景物略』や『陔餘叢考』に見られたような軒下ではなく門であること、それも「門の左」と限定されていることに、何か深い意味があるのでしょう。
もとより、「門の左」とは門の内側から見て左なのか、外側から見て左なのか、はっきりとはわかりません。ただ、「閨中」で作ったのち「門の左に懸ける」と記されているので、内側から見て左である可能性が高そうです。
5、『清稗類鈔』(1916年)
『清稗類鈔』は徐珂(1869-1928)によって編まれた歴史書です。清から中華民国に変わったのちの民国5年(1916)に発行されました。先述の『燕京歳時記』発行からちょうど10年後のことです。読みかたは「しんはいるいしょう」。清の時代を振り返って、当時の地理や風習など多岐の分野にわたって記されています。
全体は92分野から構成されており、発行当初は全48冊でしたが、のちに全13冊に再編されています。その「第一〇冊」に「迷信類(一)」という分野があり、そのなかの「祈晴」と題された項目に以下のような説明が見られます。
私なりに意訳を試みてみます。
雨が降るように願うときも、逆に雨が止むように願うときも、まずは同じように人形を作るようです。大きな違いとして、後者の雨が止むように願う場合には、箒を持った女性の人形を1つ付け加えます。人形の呼び名は明記されていません。その女性の人形が手にした箒には、大雨をもたらしている雨雲を掃き散らしてしまう、不思議な力があると期待されていることがわかります。
おわりに
本稿では中国の文献に登場する掃晴娘のありように目を凝らしてきました。採り上げたのは、中国の明・清・中華民国の時代の文献である『帝京景物略』『列朝詩集』『陔餘叢考』『燕京歳時記』『清稗類鈔』の5点。これらに加え、『陔餘叢考』に引用されている元の時代の詩「掃晴婦」についても別個に取り上げることとし、それぞれの文献に記された掃晴娘の特徴を整理してみましょう(★下記の表参照。以下、本文中の丸数字は表のなかの№に対応)。
6点の文献のうち5点には呼び名が明記されています。「掃晴娘」が3点(②④⑤)、「掃晴婦」と「掃晴人」が1点ずつ(①③)です。数少ない事例に基づく大まかな分析になってしまいますが、17世紀ごろまでは呼び名が一定しておらず、その後は「掃晴娘」に一本化されたといえるでしょうか。
地域的には、中国東北部の長春あたり(現在の吉林省。③)から中国北部の北京(①⑤)や沢州(現在の山西省。①)、さらには江南(現在の江蘇省。④)まで、広い中国のあちこちに散らばっています。江南の風習を記した『陔餘叢考』では、河北省においても見られる風習であることに触れつつ、「此俗不獨江南為然矣」すなわち長江流域のみでおこなわれていた風習ではないことが指摘されていました。
作るタイミングとしては、長雨(②③④⑤)や大雨(⑥)、曇り(①)など、目の前はいずれも悪天候です。そうした好ましくない現状を受けて、それを打破しようと図っているものが目立ちます。ただし、『列朝詩集』の事例だけは唯一、翌日に用事を控えていることが示されており、現状打破よりも予防の意味合いが強いようです。
願いの内容としては、現状が長雨や大雨に見舞われている5点では、当然ながら止雨が期待されています。そのうち2点(④⑥)では、雨が止んでも曇天ではまだ不十分と見えて、併せて祈晴の効果も期待されています。残る①は現状が曇天である唯一の事例であり、祈晴の効果が期待されています。①においてはさらに、祈晴と同じ方法で「掃晴婦」に祈雨の効果を期待することもあるとされている点が、たいへん注目されます。
掃晴娘の材料は、紙であると4点(②④⑤⑥)に記されています。その姿は女性のように作ることが3点(②④⑥)に明記されています。残る3点のうち、①は「裳」すなわちスカートを穿いた姿のようです。③と⑤の姿は不明ですが、後者の⑤は「掃晴娘」と呼ばれているので、やはり「娘」の姿が意識されているのでしょう。前者の③は「掃晴人」と呼ばれているので性別は不詳です。
そして、6点のうち5点(①②④⑤⑥)は箒を手にしています。「掃晴娘」あるいは「掃晴婦」「掃晴人」という名付けには、悪天候をもたらす雲を掃いて晴らして欲しいという、作り手の願いが感じられます。雲を掃き散らす道具として、箒は大切な持ち物に違いありません。もとより、そうした名前とは裏腹に、雨が止みさえすれば雲の残る曇天でも御の字と見なせる事例(②③⑤)も散見されます。
設置のしかたについては、「吊るす」が3点(②③④)、「掛ける」「懸ける」が1点ずつ(①⑤)。そのほかに「貼り付ける」(⑥)という手段が採られる場合もあるようです。設置される場所は「軒下」(②③)や「庇」(⑥)のほか、「門の左」(⑤)が択ばれている例も見られます。
また、作り手について2点に明記されており、「婦人たち」(④)あるいは「少女たち」(⑤)といった具合に、いずれも女性たちです。人形は女性の姿、その作り手もまた女性たちという傾向が強いようです。
本稿は私の管見の及んだ数少ない事例にもとづく整理と検討でした。ともあれ、元・明・清の時代を対象として、当時の掃晴娘の姿を大づかみにすることができました。この掃晴娘について、日本ではどう紹介されてきたのか、そして、はたしててるてる坊主の起源と言い切れるのか、機会をあらためて検討したいと思います。
参考文献(編著者名・監修者名・書名・webページ名等の五十音順)
岩井宏実〔監修〕工藤員功〔編〕 『絵引民具の事典』、河出書房新社、2008年
中国哲学書電子化計画 Chinese Text Project https://ctext.org/zh
敦崇〔著〕小野勝年〔訳〕 『燕京歳時記 北京年中行事記』(東洋文庫83)、平凡社、1967年
日本民具学会〔編〕 『日本民具辞典』、ぎょうせい、1997年
『ひかりのくに 幼児の生活指導』13巻6号、ひかりのくに昭和出版、1958年
福田アジオほか〔編〕 『日本民俗大辞典』下、吉川弘文館、2000年
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