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杓子のてるてる坊主【てるてるmemo#13】


はじめに

 民俗学者の柳田国男(1875-1962)が主宰した民俗学研究所。そこで昭和30年(1955)に編まれた『綜合日本民俗語彙』には「ヒヨリボウズ」の項があって、次のように説明されています[民俗学研究所1955:1336頁]。

日和坊主。山口県萩市附近で、日和乞のために軒に吊す径六、七寸の白いぼて玉をいう。雨乞には黒いのを吊すという。福岡県の小倉にもこの語はあり、杓子に眼、口、鼻を半分ずつ書いて吊す。長崎市にもヒヨリボンサンと呼ばれるのがあり、ふつうの照々坊主を指している。

 山口・福岡・長崎の各県から、それぞれに興味深い事例が紹介されています。このなかで、2つめの福岡県小倉(現在の北九州市)の事例については、かつて注目したことがあります(★詳しくは「半分にされたてるてる坊主【てるてるmemo#7】」参照)。

 「杓子に眼、口、鼻を半分ずつ書いて吊す」といいます。材料は紙や布ではなく杓子しゃくし。すなわち、ごはんを盛るのに使う杓文字しゃもじや汁ものをすくうのに使うお玉です。そして、目・鼻・口を半分ずつ描くそうです。丸くくぼんだ部分に描くのでしょう。くぼみの内側か外側か、どちら側に描くのかは不明です。
 設置方法は一般的なてるてる坊主と同じで、吊るすと説明されています。願いがかなった場合の作法については言及されていませんが、おそらく、残り半分の目・鼻・口を書くのでしょう。
 この『綜合日本民俗語彙』に記された小倉の日和坊主について、その典拠と思われる資料がこのたび判明しました。

1、柳田国男「人形とオシラ神」

 それは、柳田が著した論考「人形とオシラ神」。民俗芸術の会が発行する雑誌『民俗芸術』の第2巻第4号に掲載されました。掲載誌が発行されたのは昭和4年(1929)で、前掲した『綜合日本民俗語彙』の発行より26年前のことです。
 論考の表題にあるオシラ神とはオシラサマともいい、家々で祀られてきた木製の屋敷神です(★後掲の図参照)。その信仰は東北地方北部に濃密で、東北地方南部や関東地方北部にも信仰の分布が見られました。もとより、オシラ神信仰のかたちはあまりにも多様で謎に満ちており、民俗学的研究による全容解明がまたれます。

 「人形とオシラ神」という論考の位置づけをめぐっては、民俗学者・赤坂憲雄(1953-)の『柳田国男を読む』がたいへん参考になります。当時、歴史学者の喜田貞吉きたさだきち(1871-1939)がオシラ神の由来をアイヌの風習に求める学説を発表していました。そうしたなか、“喜田が示したオシラサマの蝦夷=アイヌ源流説にたいして、真っ向から放たれた批判の矢が、柳田の「人形とオシラ神」にほかならなかった”と赤坂はいいます。
 “オシラ神信仰は日本人の固有信仰の地方的な変種”であるという立場から、“日本人の昔からの信仰・行事との比較や検証をつうじて、そこに横たわる「根(ママ)の一致」をあきらかにし、その変化の筋道を辿ること”を柳田は目指しました。その結果、“蝦夷=アイヌ/日本のあいだには、太い切断線が引かれた”と赤坂は指摘しています[赤坂2013:176-179頁]。

 その“日本人の昔からの信仰・行事との比較や検証”という作業のなかで、杓子を使ったまじないの一例として紹介されているのが豊前小倉あたりの「テリ〳〵坊主」(日和坊主)です(同じ音の繰り返しを表す「くの字点」は横書きできないため、本稿では「〳〵」と表記)[柳田1929:16頁]。

四十年程前に小川敬養といふ人が羽柴古香翁に贈つた書簡の中に、豊前の小倉辺ではテリ〳〵坊主又は日和坊主ひよりぼうずと謂つて、杓子の面に眼口鼻を半分づゝ書くことを関東の張子はりこ達磨だるまの如くし、晴れたらば全部かくべしと誓つて天を拝すとある。

 40年ほど前の書簡に記された事例が引用されています。当時よりさらに40年ほど前というと明治22年(1889)ごろのこと。書簡の差出人である小川敬養は、豊前地域(福岡・大分両県の一部ずつ)を拠点とした考古学者。中央の雑誌にも当地の考古学的調査や研究を発表しています。いっぽう、書簡の受取人である羽柴古香は、庄内地域(山形県の一部)を拠点とした郷土史家のようです。
 羽柴に宛てた書簡のなかで小川が触れているのが、地元の小倉近辺の風習である杓子を使ったてるてる坊主。もとより、柳田が参照した小川から羽柴への書簡の原典については、目下のところわたしは未確認です。

2、明治期半ば、小倉での呼び名

 柳田が紹介している小倉の事例に目を凝らしてみましょう。まずは呼び名をめぐって。当時、小倉あたりでの呼び名は「テリ〳〵坊主」あるいは「日和坊主」だったことがわかります。
 前者の「テリ〳〵坊主」に関しては、呼び名の前半部分が気になります。かつて、わたしは「てるてる」か「てりてり」かという点に注目して、その歴史的変遷を整理したことがあります(★詳しくは「「てりてり」から「てるてる」への回帰【てるてる坊主の呼び名をめぐって#2 近代(明治・大正・昭和前期)編】」参照)。

 わたしの管見の限りでは、文献資料のうえでてるてる坊主が初めて登場するのは近世(江戸時代)のこと。当初、18世紀には呼び名の前半部分は「てるてる」が優勢でした。その後は緩やかに変化し、19世紀初め~20世紀初めの約100年間は「てりてり」が優勢となります。その後、20世紀前半にまた「てるてる」へと緩やかに回帰し、昨今では言うまでもなく「てるてる」がもっぱら使われています。小倉の「テリ〳〵坊主」が報告された明治22年(1889)ごろといえば19世紀後半、「てりてり」が優勢だった時期の真っ只中です(★表参照)。

 「テリ〳〵坊主」はまたの名を「日和坊主」とも呼ばれています。わたしの管見の限りでは、文献資料のうえで「日和坊主」という呼び名が登場し始めるのは近世後期の1830年代のこと。それから大正期までの100年ほどのあいだに散見されます(★詳しくは「西日本では「日和坊主」というのは本当か【てるてる坊主の呼び名をめぐって#6】」参照)。

 「日和坊主」という呼び名が使われた場所に注目してみると、京都・大阪・長崎など西日本に集中しています。むしろ、1830年ごろから100年ほどのあいだは、西日本で見られるのはもっぱら「日和坊主」系であり、「てるてる坊主」系の呼び名は見られません。
 西日本で「日和坊主」系の呼び名がもっぱら使われた、1830年ごろからの約100年間。それは、先述した「てりてり」が「てるてる」より優勢だった時期とほぼ重なります。すなわち、19世紀初め~20世紀初めの約100年間は、東日本では「てりてり坊主」、西日本では「日和坊主」というのが主たる呼び名でした。
 そのため、明治22年(1889)の小倉においても、主に使われていたのは「テリ〳〵坊主」よりも「日和坊主」だったと推測されます。「テリ〳〵坊主」という呼び名は、西日本在住である書簡の差出人・小川にとってはなじみにくいものだったはずです。それでも、「日和坊主」の前にまず「テリ〳〵坊主」という呼び名が併記されているのは、東日本在住である書簡の受取人・羽柴古香にとってわかりやすいように、という配慮からでしょうか。あるいは、東日本在住である引用者・柳田が、あとから引用に際して付け加えた可能性も捨てきれません。

3、杓子に顔を描く

 続いて姿かたちをめぐって。小倉の「テリ〳〵坊主」(日和坊主)の材料は杓子だといいます。描くのは目・鼻・口を半分ずつ。そして“晴れたらば全部かくべし”と約束して天を拝むといいます。設置方法については記載がありません(冒頭に揚げた『綜合日本民俗語彙』では、吊るすと説明が加えられていました)。
 顔を半分だけ描いておいて、願いがかなったら全部描くというのは、“関東の張子はりこ達磨だるま”と同じ発想。すなわち、目玉を描き入れてないダルマを用意して、願い事がかなったときに墨で目玉を入れる風習と同様である、と小川の書簡では説明されているようです。
 この論考のなかで柳田は、小倉の「テリ〳〵坊主」(日和坊主)のほかにも杓子に顔を描くまじないの例を列挙しています。そこに込められる願いは、疱瘡除けや百日ぜきの治癒であったり、あるいは遊郭の商売繁盛であったりとさまざま。
 もとより、こうしたまじないにおいて、目鼻や口を半分しか描かなかったり、あるいは、まったく描かなかったりしても、それは大した問題ではないと柳田はいいます[柳田1929:13頁]。

おもてに眼口鼻を描くと否とは、元は強ひて問ふ所では無かつたのでは無いかと思ふ……(中略)……以前家々で手製の草雛くさびな、又は小児のもてあそびとする紙の姉様あねさまなどにも、殆ど眼鼻を描くべき場所も無いものは幾らもある……(中略)……人形の貌容かほかたちの完備したのは却つて後のことで、墨筆の行渡ゆきわたらぬ常民じょうみんの間には、別にこの粗製に対する本式といふものが有つたわけでも無い。

 まじないの人形に目鼻を描くようになったのは、一般庶民のあいだに墨や筆が行き渡ってからのことである。それ以前には、人形の顔がのっぺらぼうのままであっても気にせず、それを不十分とは感じなかった。かつて家々で手作りした草雛や姉様人形などには、そもそも目鼻を描き入れるスペースすらない場合がほとんどである、と柳田はいいます。

4、杓子には神が宿りやすい

 柳田が注目しているのは、目鼻の有無よりも杓子そのものかたち。柳田は杓子と柄杓ひしゃくの違いに注意を促しています。“木を穿くぼめて作つた方”が杓子で、“げ物の比較的大形おほがたのもの”が柄杓であるといいます[柳田1929:14頁]。
 前者の杓子とは、先述のように、ごはんを盛るのに使う杓文字しゃもじや汁ものをすくうのに使うお玉など。いっぽう、後者の柄杓とは、神社の手水鉢などで水をすくうのに使う道具を想像すればいいでしょう。
そのうえで、まじないに使われるのは柄杓ではなく、もっぱら杓子だと柳田は指摘しています[柳田1929:14頁]。

其理由として自分などの推量して居るのは、杓子はヒタエノヒサゴ、即ちまでが一つの瓢を以て出来て居るものをして作られたからで、是は信仰上の意義が、主としてういふ長形の瓢箪にあつたことを示すものかと思ふ。

 杓が曲げ物に柄を取り付けた作りであるのに対し、杓子は柄までがひとつのひさご直柄の瓢ヒタエノヒサゴ)からできているかのような作りをしているのが特徴です。瓢は「瓠」と表記することもあり、いわゆる瓢箪ひょうたんを指します。
 そんな瓢には「信仰上の意義」が認められてきたというのです。「信仰上の意義」とは何か。柳田によれば“つぶらなるひさごに、かみおもざしをおもひ浮べるならはしがあつた”。すなわち、“手短てみぢかに言へば瓢には神が宿やどやすい”のだといいます。
 そのうえで柳田は、瓢箪が用いられる風習をいくつか列挙しています。祭礼の行列に瓢箪がしばしば登場する例、旧家の奥の間に置かれた古い瓢箪が守り神のように扱われている例、あるいは、新盆の墓参りに瓢箪を持参する例などです[柳田1929:12-13頁]。
 さらに、柳田によれば“ひさご大昔おほむかし以来の採物の一種であつたことは、何よりも確実”であるといいます[柳田1929:12頁]。採物とりものは「執物」と表記することもあり、祭祀や神楽などで手にする神聖な道具のこと。本来は神が降臨する依代よりしろであり、それを持つ人が神懸りする手だてでもありました。そして、瓢や杓子だけでなく、扇や人形などももともとは採物だったという構想のもと、柳田はオシラ神との「根(ママ)の一致」を明かしていきます。ともあれ、本稿では柳田の論にはこれ以上は深入りしないでおきましょう。

おわりに

 わたしはかつて、福岡県と佐賀県を主な聴取エリアとするラジオ番組に出演させていただきました。朝の情報番組のなかで、小倉の「テリ〳〵坊主」(日和坊主)を紹介しつつ、ご存じのかたがいらしたら情報をお寄せくださいとお願いしました(RKBラジオ「櫻井浩二インサイト」。2021年6月10日の放送回)。
https://news.radiko.jp/article/station/RKB/56042/
 しかしながら、いかんせん130年以上前の事例であり、地元のかたも「ラジオで聴いて今回初めて知った」とのこと。残念ながら新情報を得ることはできませんでした。
 柳田が“神が宿やどやすい”と指摘した瓢。それに似た形状の杓子を用いた小倉の「テリ〳〵坊主」(日和坊主)の場合も、そのくぼみには神が宿っているのでしょうか。あるいは、神ではなく、天気をコントロールする呪力がそこに宿っていると期待されたのかもしれません。


参考文献
(編著者名五十音順)
・赤坂憲雄『柳田国男を読む』、筑摩書房、2013年(初出は『柳田国男の読み方——もうひとつの民俗学は可能か』(ちくま新書)、筑摩書房、1994年)
・宮本常一〔著〕毎日新聞社〔編〕『宮本常一写真・日記集成』上巻 昭和30-昭和39年(1955-64)の写真と日記、毎日新聞社、2005年
・民俗学研究所〔編〕『綜合日本民俗語彙』第3巻(ツーヘ)、平凡社、1955年
・柳田国男「人形とオシラ神」(『民俗芸術』第2巻第4号、民俗芸術の会、1929年)

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