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読書|南仏移住の詩人が見せた、新たな日常風景
「とても素晴らしい本だから読んでみて。ダメだったら返金するよ」と、職場の先輩に勧められて、アマゾンで小津夜景さんのエッセイ集『いつかたこぶねになる日』を購入しました。年末年始の帰省の飛行機の中で読み始めたのですが、その繊細で鋭い文章にすっかり魅了されてしまいました。
文章を読みながら、気になる言葉の横に青い線を引いていったのですが、気づけば青い線は服の毛糸のようにちらほらと残っていました。
この本を読んだことで、日常の風景に対する考え方まで変わってしまったほどです。ぜひ皆さんにも紹介したいです!
あらすじ:小津夜景『いつかたこぶねになる日』
『いつかたこぶねになる日』は、小津夜景によるエッセイ集で、31編の短編が収められています。南フランスのニースに住む俳人である著者は、日々の暮らしを漢詩と織り交ぜながら、独自の視点で世界を描きだしています。それぞれのエッセイでは、イギリス、アメリカやフランスなど、古今中外の文学作品やアーティストのコンセプトが引用されていて、時間と国境を軽やかに行き来しているのが特徴です。
さて、この本のタイトル「たこぶね」は、どんな意味を持つのでしょうか。
冒頭の文章では、アメリカの作家と飛行家のアン・モロー・リンドバーグ (Anne Morrow Lindbergh)によるエッセイ集『海からの贈り物』(Gift from the Sea)がこのように引用されました。
浜辺で見られる世界の住人の中に、稀にしか出会わない、珍しいのがいて、たこぶねはその貝と少しも結びついていない。貝は実際は、子供のための揺籃であって、母のたこぶねはこれを抱えて海の表面に浮び上がり、そこで卵が孵って、子供たちは泳ぎ去り、母のたこぶねは貝を捨てて新しい生活を始める(中略)
半透明で、ギリシャの柱のように美しい溝が幾筋か付いているこの白い貝は、昔の人たちが乗った舟も同様に軽くて、未知の海に向かっていつでも出航することができる。
小津夜景『いつかたこぶねになる日』P.16
フライスに暮らしている小津夜景さんは、幼い頃に母から「私は国禁を犯してでも、あなたを外に送り出すから。早ければ十五歳で」と言われました。
未知の世界に漕ぎ出す人々は、たこぶねが貝を捨てたように、ゆりかごとしての祖国から肉体を引き剝がしました。その痛みは深刻ですが、美しい殻を惜しげもなく脱ぎ捨てた代わりに、自由を知ることができ、より広い世界を体験できます。タイトルの「たこぶねになる」というのは、たこぶねのようにさならる未知の世界へ泳ぎだせる願いではないでしょうか。
おすすめポイント①:詩と日常の結びつきが斬新
この本を読んで、日々の暮らしで今まで気づかなかったことに気づきました。
特に印象に残ったのは、「紙ヒコーキの乗り方」という章です。ずっとふわふわ空に浮かべる紙ヒコーキを作るコツは、発泡スチロールペーパーを使うことです。発泡スチローの98%は空気のため、発泡スチローペーパーのヒコーキは、空気の上にかぎりなく空気に近い物体を載せる、という究極なエアーの戯れです。
そこで挙げられた名前は、ヒコーキに愛着を持っていたアメリカの人類学者ハリー・スミス(Harry Smith)です。彼は自分の使命は人類学と考えているものの、それはあくまでも娯楽で、ほんとうの使命は死の準備であることを信じていました。そんな彼が愛したヒコーキは、どんなものでもよかったわけではないようです。小津夜景はハリーが夢中になったヒコーキをこのように述べました。
それは空中から墜ち、うす汚れたごみとなった、ちっぽけな紙ヒコーキでなければならなかった。そした遺物としての紙ヒコーキには、たしかに死とたわむれた果てのいきものみたいな不気味がある。
地面に落ちた紙ヒコーキを、娯楽の果てに残された遺物と見なすとは、なんと斬新な発想でしょう。
その延長で、小津夜景は自らの存在を掘り下げた良寛の漢詩を思い出しました。良寛は自身のことを、宙を漂う紙ヒコーキのように詠んでいます。
展轉總是空
移ろうすべてはからっぽなのだ
空中且有我
からっぽの中につかのま僕はいて
小津夜景『いつかたこぶねになる日』P.160
紙ヒコーキから人生の使命、そして自己の存在へと思索を巡らせる――小津夜景の作品を読むと、その独特の感性と視点に引き込まれます。
おすすめポイント②:古今中外の作品を新しい視点で楽しめる
幼い頃から学校の教科書で中国の詩人・徐志摩の詩に触れていましたが、小津夜景の本を通して、それまでとはまったく異なる視点で解釈することになりました。
小津夜景は高校時代、北の領土からやってきた英語の教育実習生と、校舎裏の桜の下で弁当を食べながら、日本に来た理由について話しました。知らない土地を巡る先生の姿に、彼女はふと徐志摩が描いた虹を思い出します。
那榆蔭下的一潭
あの楡の木陰の淵がたたえるのは
不是清泉是天上虹
清らかな泉ではなく天空の虹
揉碎在浮藻間
浮き草のあわいでもみしだかれ
沉澱著彩虹似的夢
沈んでゆくのは虹のような夢
小津夜景『いつかたこぶねになる日』P.40
孤独と郷愁を抱えて海を渡った先生は、まるで浮き草のように波間に揉まれ、水底に沈んでもなお、不死の虹のごとくその光を失わない――。
これまで学校の授業では『再別康橋』の冒頭ばかりに注目していましたが、小津夜景のおかげで、親しんできた詩に新たな読み方が加わりました。
彼女の作品には、そうした斬新な発想がほぼすべての短編に散りばめられており、読んでいて非常に興味深いです。
おすすめポイント③:独立した短編で読みやすい
全31編のエッセイは、それぞれ約3〜4ページで構成されており、非常に読みやすい一冊です。
多くのエッセイは、日常の観察から始まり、そこから文学作品への連想を経て、日本や中国の詩人による漢詩へとつながる流れで綴られています。そのため、通勤時間や就寝前など、気軽に楽しめます。
終わりに:異郷で暮らしている人へ捧げる一冊
著者の小津夜景はフランス在住ということもあり、旅や移動、異文化との対話をテーマにした短編が多く見られます。「知らない言語の中に暮らす」ことの影響について尋ねられた際、彼女はこう綴りました:
外国にいると、意識のチューニングがゆるうやいなや、まわりを囲むすべての言葉が一瞬でらくがきとざわめきに転落するので、自分の声だけが純粋に響きわたる状況というのがしょっちゅうおとずれる。つまり「知らない言葉の中に暮らす」とは、外部からの呼び掛けを失い、自分の内部にある言葉だけを聞きながら生きる可能性をまずもって意味する。
海外生活の経験がある方なら、きっと共鳴するのではないでしょうか。周囲の人々が別の言語で話し、自分がふと気を抜くと、その言葉が意味を持たないホワイトノイズのように感じられることがあります。多言語を十分に習得できないまま、いつの間にか母語の感覚も揺らぎ、気づけばどうしようもない状態で暮らし続けていました。
小津夜景の『いつかたこぶねになる日』は、そんな異郷での生活に寄り添い、斬新な発想とともに、古今東西の詩や作品を気軽に楽しめる、おすすめの一冊です。