誰か教えてください。多様性ってどこまで尊重されるべきだと思いますか??(エターナルズ、シャンチーを観て)
○mcuと多様性
「mcuのフェーズ4以降は多様性が1つのキーワードになるな」と、私はエターナルズとシャンチーを観て思いました。
mcuとはマーベルシネマティックユニバースを略したもので、ユニバースという名前がついていることから分かる通り、1つの世界です。そこの世界に出てくるキャラクター(キャプテン・アメリカやアイアンマン、スパイダーマン)はもちろんお互いのことを知っているし、その世界でのヒーローの活躍を他のヒーローがyoutubeで見ているなんてこともあるんです。
その世界線を内容や時系列ごとに区切ったものがフェーズです。フェーズ3はあの大ヒット作「アベンジャーズ エンドゲーム」をクライマックスにするフェーズ(最後ではない)でした。mcuは現実の社会問題を踏まえて、その風刺とも取れる作品が多いのですが、基本フェーズ3まではアメリカの価値観を中心とした作品が多かったように思います。それを証拠にフェーズ3までに上映された作品の主演のほとんどが健常白人男性俳優(差別用語かもしれません。すいません。)で、アフリカ系アメリカ人俳優が主演の作品は1作品、女性が主演の作品も1作品と、かなりの偏りがあるように思います。もちろんアフリカ系アメリカ人ヒーローや女性ヒーロー、アジア系ヒーローもいるのですが、あくまで相棒、サポーター的な役割にとどまり、メインヒーローになることはありませんでした。
しかし、フェーズ4はどうでしょう。これまで上映されたフェーズ4の作品をドラマシリーズを含めて見ていきます。
「ブラックウィドウ」 女性
「シャンチー」 アジア系
「ワンダ・ヴィジョン」 女性 白人男性
「ファルコン&ウィンターソルジャー」 アフリカ系 白人男性
「ロキ」 白人男性
「エターナルズ」 たくさん (人種はもちろん、障がい者や、同性愛者、子供も含む)
どうでしょう。白人男性俳優が単独で起用されている作品は今のところ、「ロキ」しかありません。
このことから、私はmcuの今後の1つのキーワードは「多様性」になってくると思います。作品の視点もアメリカ国内の問題にとどまらず、よりグローバルな地球視点で描かれていくことが予想されます。「エターナルズ」はまさしくそうでした。
最初にも述べた通り、mcuは現実の社会問題を風刺した作品を作ります。そしてここまで露骨に「多様性」をキーワードにしてくるということは今、世界でのキーワードも「多様性」ということになります。実際、「多様性を大事にしよう」という雰囲気は普通に生活していても感じますし、多様性がかなり乏しい日本でもそういった雰囲気を感じるということは世界的にはかなりのムーブメントなんでしょう。
私も「多様性を尊重する」という流れには大賛成です。これまでは少数者として苦しんでいた人も含めてみんながハッピーになれるからです。どんどん推し進めていきたいところです。しかし、ある時不意に思ったんです。「多様性」って言葉、乱用しすぎると危険かもしれない・・・と。
○多様性はどこまで尊重するべきなの・・・??
まず、前提として、先ほども述べましたが私自身は「多様性の尊重」を推し進める今の流れには大賛成です。ただ、日常生活のある体験から見出しのような疑問が発生しました。そのアンサーを誰かに教えて欲しいんです。
私のバイト先にkという人がいます。kはいわゆる遅刻魔です。遅刻どころか無断欠勤したりします。ただ、彼はすごくいい奴です。私が困っているときに何度も助けてくれたり、個人的な相談に乗ってくれたりします。だから私は彼が遅刻魔であることで同僚から悪口を言われていたら、かばうような発言をすることが良くあります。その庇い文句がこうです。
「kは時間を守るのが苦手なだけだよ。人には長所と短所かあるから。」
ていう感じです。私はこの自分の発言にすごく違和感を覚えました。私のこの発言はまさしく「多様性の尊重」という価値観から出たものです。言っていること自体は間違っているとは思いません。ですが、遅刻することは「多様性の尊重」によって正当化されて良いんでしょうか?。「多様性の尊重」によって正当化されて良いことはたくさんあるのでしょうが、遅刻をすることはそれに当たるのでしょうか?
私はこの疑問に対してまだ結論を出せていません。「時間を守るのが当たり前」という価値観が大多数を占める日本ですが、そうじゃない人も一定数いるでしょう。だからそれらの「価値観の尊重」をするならば、ある程度の配慮は必要なのでしょうか。いや、でもそこはルールだからと割り切るべきなのか・・・。わからないーー。
もっと規模を大きくして考えてみます。今世界中でコロナウイルスが猛威を振るっています。今は落ち着いていますが日本も例外ではありません。日本ではコロナウイルスに対して基本的には国民一人一人の良心に任せるような政策をとりました。「罰則とかは取らないけど、普通に考えて外出するのは良くないから自粛してね」って感じです。これに対してさすがは日本人。最初の方はみんなちゃんと自粛していました。しかし、徐々に我慢できなくなってきた人たちが自粛できなくなってきます。そして、それらの人たちを叩く人たちが出てきます。「自粛するのは普通に考えて当たり前だろ!!」と。
「普通に考えて」私の疑問の肝はここです。「普通」ってなんですか。日本人は基本的に文化的背景を同じくしており、そういった意味でもまとまりやすい国民性だと思います。だからなんとなく「普通」っていうのが言葉に出さずとも共有できていたのだと思います。しかし、SNSの普及、グローバル化の進展による価値観の多様化、外国人の増加などによってそれらの「普通」が揺らいでいるように思います。世界的なムーブメント「多様性の尊重」によって、それらはさらに加速し、ますますみんなが共通に持っている「普通」がなくなっていくでしょう。だから、罰則なしの政策で自粛できない人がいたとしても、その人たちはその人たちなりの「普通」に則っただけなので、自粛できない人がいても当然かなって個人的には思います。
つまり何が言いたいかというと、多様性の尊重はある意味共通認識の「普通」を減らしていくことなのではないかということです。日本の良いところは同じ価値観、つまり「普通」を有している人が多いことによる、治安の良さだと思っています。しかし、一方でそのような環境では少数者が迫害の的になったりと、個人としては生きにくい世の中とも言えます。いわゆる同調圧力問題ですね。だから、多様性が叫ばれている側面もあると思います。
仮に私のこの考えが正しかった場合、日本は「多様性の尊重」を進めることで日本特有の治安の良さを手放すことになるのではないかと。秩序を保つのが難しくなるのではないかと。
みなさん、「多様性の尊重」と「日本の良さ」は両立できると思いますか?また、そのためにはそうすれば良いと思いますか?教員になる前にこの疑問には蹴りをつけたいです。多様性と秩序の関係、学級経営にも通じますからね!!ぜひ、迷える哀れなT.Puに助けの手を・・・。
ここまで読んでくれてありがとうございました!!