何気ない日常に花束を〜子どもから学んだこと〜
例えばどんな理想も描ける 魔法のペンをもらったとしたら
僕はどんな世界を描くのかな 君ならどんな未来が欲しいのかな
世界一広い家とか描き始めたけどやっぱりやめた
何気ない日常に花束を 何気ない景色に額縁を
何でもない こんなありふれた今日が
僕たちが描いてきた 生涯1の名作さ
平井大さんの「題名のない今日」という曲です。
未来の私が大学生の時の自分を振り返った時に、「このコンテンツは自分の価値観を変えたな」と思えるコンテンツがあるとすれば、それはきっと、”アベンジャーズリーズ”、”進撃の巨人”、そしてこの曲です。
いや、正確に言えばこの曲が価値観を変えたわけではないですね。私自身が上手く言葉に表せなかった価値観を、美しすぎる日本語で言語化してくれたのがこの曲って感じです。
私は小学校高学年くらいの頃から、”何か”に背中を押されているような感覚を覚え始めました。
押されている先には必ずゴールが設定されています。「公立高校に一発で受からなけらばいけない」とか「大学生はインスタに楽しそうなストーリーを上げなければならない」とか、「noteで10スキ貰わないといけない」などです。
そして、背中を押されている感覚はそれらのゴールに辿り着くまで止みません。ゴールに着くまで、ずっと押され続けるんです。だから道中を楽しむ余裕は全くありません。
そしてやっとの思いでゴールに辿り着くと、ひとまずの安堵感と幸福感を得ることができます。
「やっと背中を押される日々から解放された」と思ったのも束の間、今度はゴールを違う場所に設定され、また背中を押され続ける日々が始まるんです。
「みんなもこの感覚を持っているのかな」と、ふと思いました。周りを見渡すと、案の定みんなも”何か”に背中を押されているようです。表面上は楽しそうでも、何だか必死な感じが透けて見えます。自分もそうだから何となくわかるんです。
そんなみんなの様子を冷静に見ていたら、「ずっと”何か”に背中を押され続ける人生は嫌だ!!」って思うようになりました。
だからまずは背中を押す”何か”の正体を明かすことから始めました。これは何となく察しはついていたのですぐに分かりました。その正体は「自分はこうあるべき」という強迫観念だったんです。
この強迫観念は大体自分から自然発生した者ではありません。人との関わりの中で、社会との関わりの中で生まれるものです。
生きていく上で人や社会との関わりを断つことはほぼ不可能である以上、これらの強迫観念から逃れるのは難しそうです。私は諦めかけていました。
そんなことを考えながら子ども食堂で子どもたちと接していたある日のこと、大人から見たらクッソしょーもないって思えることで大爆笑する子どもたちの姿を目の当たりにしました。
いつものことなので普段は「今日も元気だなー。微笑ましいなー。」って思うくらいなのですが、その日は子どもたちがまるで師匠のように見えたんです。
子どもたちは強迫観念なんか微塵も感じず、今ある目の前のことに対して全力で感動している様子を見て、私が目指すのはこれだ!!って思ったんです。
私たちは大人になるにつれて、何か感情を動かされるようなことがあっても「こんなの普通じゃん」、「こんなんで感動するなんて子どもじゃん」っていうように自分の感動を理性で押さえつけるようになります。「些細なことで感動する自分」は「大人としてのあるべき自分」ではないからです。
きっと「しょーもない」とか「くだらない」っていうのは、理性が感動を押さえつけた瞬間に生まれる感情なんでしょう。
私たちが「しょーもなくない」って思えるのは、「あるべき自分」を達成できた時です。「ユニバに行く私」、「話の中心にいる私」、「先生になれた私」など、たくさんの「あるべき自分」があります。
ただ、この「あるべき自分」の厄介なところは、達成した瞬間しか感動できないんです。達成するまではひたすら脇見することも許されず、ひたすら背中を押され続けます。その間は全く楽しくないんです。
「子どもがいつもあんなに楽しそうなのは、『あるべき自分』なんかに囚われず、今この瞬間を全力で楽しんでいるからだ。」
私はこう結論づけ、子どもの真似をしてみることにしました。
まず、これまで何となく「すごいなー」とは思ってたけど、「これくらい普通か」って思ってたことに対して、素直に「すげえ!」と口に出してみることから始めました。
それをある程度継続していると、今まで気づかなかった小さな感動を見つけることができるようになりました。道端に落ちている松ぼっくりをみるだけでワクワクしたり、朝起きて窓を開け日が差し込んでくるだけで、「今日も生まれてきてくれてありがとう!自分!」って思えるようになりました。
また、インスタの使い方も変わりました。それまでは「充実している自分」をアピールするために、ウケが良さそうなストーリーばかり上げていましたが、今は自分が「すげえ!」って思ったことを記録するためのツールとして使用するようになりました。
その結果、周りから「しょーもない」って言われることがめちゃくちゃ増えましたが、そんなの些細なことです。いつの間にか背中を押されている感覚が消えていました。
前置きがクソ長くなりました(笑)
こんなクソ長くなるほど、私の中でこの一連の感情は言語化できてなかったんです。それを平井大さんは
何気ない日常に花束を 何気ない景色に額縁を
っていう一行にまとめちゃってるんですよ。見事すぎますし、何より表現が素敵すぎます。ちなみに二番の同じ箇所はこんな歌詞になってます。
何気ない一言に花束を 何気ない優しさに歓声を
これらの歌詞は、まさに私が意識していたことです。何気ないことにリアクションをし、感動してみる。
それは、時に「しょーもない」って笑われることもあります。それによって他人に否定されたこともあります。
しかし、私たちの人生のほとんどが「題名のない今日」です。「しょーもない今日」なんです。彼女ができたとか、大学に受かったとかいう「題名のある今日」なんてそうそうないんです。
だったら、「題名のない今日」にどれだけ多くの感動が得られるかが大事なんじゃないかなって思うんです。
だから私はこれからも、何気ない景色に額縁をかけ、何気ない一言に花束を渡し、何気ない優しさに歓声を上げ続けていこうと思います!!
ここまで読んでくれてありがとうございました!「題名のない今日」、ぜひ聴いてみてくださいね!!