ソムリエの価値と可能性を高めたい|成澤亨太
フランス料理のチーム感に受けた強烈なインパクト
「銀座のフランス料理店『ロオジエ』で衝撃を受けて、『これはフレンチにいくしかない』とすぐに思ったんです」
成澤亨太が30代前半だった頃のロオジエは、2007年11月に日本初上陸したフランスのレストランガイド『ミシュラン・ガイド』日本版で三つ星を獲得し続けるフレンチの名店だった(もちろん現在も)。銀座のイタリアンレストランでソムリエをしていた成澤は、じつはフランス料理を食べる機会は少なく、グランメゾンのサービスを体験するのもこの時が初めて。しかしこの日のロオジエでの食事がきっかけで、フレンチに“宗旨替え”することになる。
「イタリアンとはまったく違うと感じました。スタッフが同じ制服を着ていて、ネクタイまで揃えている。付かず離れずのサービスで、所作が美しい。なかでも印象的だったのは、隣の6名席に、クロッシュをかぶせた皿をサービス6人で1皿ずつ運び、一斉にあけた瞬間でした。きれいに盛り付けられた料理があらわれるその瞬間は、『すごい』としかいいようがなかったです」
フレンチに行くしかない。そう感じた成澤は、勤めていたイタリアン・レストランを退職し、銀座のフランス料理店「ロドラント ミノルナキジン」のマネージャーに就任する。
そう書くと、すんなり転職したようにもみえるが、実際はそんなに簡単な話ではなかった。人より遅い25歳でレストランのサービスマンになった成澤には、イタリアンでの勤務経験しかなく、フランス料理店で働いたことはなかった。もちろん支配人やマネージャーの経験もない。フランス語が飛び交うレストランで働くなど「無謀」といわれても仕方がないことだったからだ。
「同世代のサービスマンたちがマネージャーになっていく姿を見て、スタートが遅かった自分が彼らを追い越していくには、退路を断って挑まないといけないと思ったんです。支配人の経験もないのに『できます』と自信満々に言い切って採用をしてもらいました(笑)」
ロドラントのオーナーシェフ、今帰仁実氏は、銀座の名門「レカン」の出身で、その後渡仏して星付きレストランでも勤務した経験をもつシェフ。さらにマダム(妻)の副島綾子氏もタイユバン・ロブション(現・シャトーレストラン ジョエル・ロブション)の元スタッフ。フランス料理の本質を知る2人のプロフェッショナルに厳しく鍛えられたという。
「出勤のため新橋駅からお店があった銀座七丁目まで歩いていたある日、自分は気づいていないのですが、シェフが後ろを歩いていたんです。追いついて声をかけられるわけでもなく、店まで離れたまま。そして店に着いたら、自分の歩き方をシェフに注意されたんです。『マネージャーとしての意識がない、銀座に入ったら時点で、レストランのマネージャーとしての所作をしないといけない』ということを教えてくださったのです」
33歳から3年半。「ものすごく辛い日々ではありましたが、ときには『どうしたら星を獲れる店になれるか』ということを今帰仁シェフと朝まで真剣に意見を交換するような時間もありました。その時間は、かけがえのないもので、同じ目標を目指すスタッフとして育ててもらいました」と成澤は振り返る。「決して後悔はしていないですね。フランス料理の哲学、サーヴィスマンとしての根幹と礼節、人と人との大切さといった今の自分にあるものすべては、今帰仁シェフの元で学ばせてもらったと思っています。本当に感謝です」という言葉に一切のよどみはない。
人より遅れて始めたソムリエ人生
劣等感がつねにまとわりついていた
高校を卒業して美容師の職業に就いた成澤は、21歳でバーテンダーに転職して六本木で働いていた。大胆な業種変更のように感じるが、成澤本人は「接客が好きだったんでバーテンダーも美容師もそれほど変わらないと思いますよ」という。一方で「バーテンダーは個人商売のようだった」ともいう。
そんななか、店によく来ていただいていた近所のイタリアン・レストランの店長から店を手伝ってほしいと誘われたことがきっかけで、レストランでサービスをすることになった。バーテンダーにはない、チームプレイにも惹かれた。
「牛や豚を育てる人や、魚を釣る人、野菜を育てる人がいて、仲買さんがいて食材がレストランに届く。それを若いスタッフが下処理して、シェフが料理して、できた料理をサービスして、ソムリエがワインをサーブする。その一連のチームプレイのサービスによってお客様が笑顔になる。そこで得られる喜びというか、高揚感、アドレナリンの出方が段違いだったんです」
それからすぐに横浜にあった150席の大箱イタリアン・レストランに入った。25歳でレストランのサービスマンとしてキャリアをスタートさせた成澤は、入店してすぐにソムリエ試験の勉強をはじめた。月6回の公休だけでなく休憩時間も独学で勉強を続けた。わずか半年後のソムリエ試験にみごと合格して見せたのは、まわりに負けたくないという意地もあったという。
しかし、ソムリエの資格をとったからといって、すぐに周りからの評価が変わるわけではなかった。いざ営業に入れば、年下の先輩たちとの技術や経験の差は歴然。「劣等感の塊でした」と成澤は振り返る。
それでも、当時ユーザーが広がっていたインターネットのブログを始めてワイン会を企画して集客をするなど、持ち前の企画力と行動力で「客を呼べるサービスマン」になって自信をつけると、それが評価されて本店である銀座店に呼ばれた。そこで、さらに実力あるスタッフたちと凌ぎを削ることになると、そこでもまた劣等感を感じながら、それでも自分のできることを模索し実行することを続けていた。
30代のキャリア設定、
必死に生き抜いて見えた40代の道
「ロドラントに入ったのは、20代に抱き続けてきた劣等感を拭い去りたいという思いもあったんです」と、成澤は当時の心境を打ち明ける。
しかし、人よりも凝縮した時間を必死に生きていると、成澤を悩ませていた劣等感は自然と消えていた。あれだけ気になっていた同世代の動向も気にならなくなり、むしろ厳しい環境を学び抜いたからこそ得られた広い視野で、40代へ続く道がくっきりと見えるようになった。
「ロオジエで衝撃を受けたあの時から、フレンチを選んで本当によかったと思っています」と成澤はいう。その後も、麻布十番「リベルテ・ア・ターブル・ド・タケダ」(ミシュランガイド 一つ星)で支配人 兼 シェフソムリエとして、国内外の様々なレストランと数多くのコラボレーションをするなど、楽な道ではなく、より厳しく高い場所を選び続けることで成長を続けてきた。
2018年、40歳になる年に成澤は、Restaurant TOYOのオープン時から統括支配人 兼エグゼクティブソムリエとして店を立ち上げると、今では世界的なコーヒーブランド「ネスプレッソ」のアンバサダーの就任や、系列店の「Solfège」プロデュースなど、レストランソムリエの仕事を超えた働き方を提示している。
「今までは独立して店を持つか、大きな会社に入って出世するしかない。しかも、どちらも飽和状態で、続けていくのはすごく難しい。ソムリエやサービスマンが目指すゴールが少なすぎるんです。コロナ禍もあって夢を諦めたり、飲食業を辞めてしまう人たちもいる。ここまで厳しい環境の中で知識や技術を磨いてきたのに、それでいいわけないと自分は思うんです。自分はソムリエやサービスの技術や知識、経験を信じたい。自分たちは、レストラン以外にも活躍できることを実証したいんです」
たとえばサービスマンは、営業職にむいていると成澤はいう。それは、そもそも料理やワインを勧める接客業は、営業的な側面も強いからだ。さらにレストランを1つの会社と考えれば、店の売り上げ管理やマネジメントをしてきたサービスマンは、起業にも向いている。食のインフルエンサーやメディアとのつながりを活かせば、広報やPRの仕事もでき、イベントを企画・運営したことがあれば、プランナーの仕事もできる。
そういった技術や知識、経験の本質を抽出して、現代の社会のなかで最大化させていく能力こそ、ソムリエやサービスマンにとってのNouvelle Artisan、新しい職人像なのだ。
社内ベンチャーを考えないソムリエは
ダサいと見られる時代がくる
成澤は、2021年8月にワインをテーマにした会社「ENIW(エニウ)」を起業した。レストランスタッフの人材育成や飲食店経営企画・コンサル、セミナー開催運営、酒類および食品の販売・輸出入を業務内容にした会社だ。オンラインのワイン販売を展開する一方で、5月27日には、目黒駅近くにオープンするTOYO JAPANの新業態店で、成澤自身も店舗立ち上げからドリンク監修に入る「焼肉 きゅうこん」内にワインショップをオープンすることも決まっている。
「店舗のワイン監修やプロデュースは、これまでなら一部の著名な人しかできませんでした。ですが今は、環境や時流が変わり、SNSやウェブマーケティングの知識を活用すれば誰にでも可能性がある時代なんです。そこでは、有名や無名は関係ない、創造性の勝負です。さきほどもいったようにサービスマンは、事業を創造していく力がある。でも多くのサービスマンは『考えたこともない』とか『やり方がわからない』というんです。自分は、それを変えていきたいんです」
「自分の姿をみてもらいたいし、なりたいと思ってほしい」と成澤が新しい挑戦を続けることが、業界の活性化に繋がると強い決意をもって進んでいるのだ。
「自分たちの世代では、『サービスマンはモード(現代的)であれ』と教わりました。毎朝新聞をよめ、流行のファッションをチェックしろと。それは、変わらないサービスの仕事の本質。つまり、そもそも流行に敏感でないといけないんです。政治や経済の話ができるように、AIやフードテックといった分野の話もできる。新聞を読むように、SNSから新しい情報や発想を得たり、そういったことを本来サービスマンはすべきなのです」
TOYO JAPANは、もともとは、代表取締役社長の阿部洋介が立ち上げたベンチャー起業だ。そのため会社には、ベンチャーマインドが文化として根付いている。「そんな会社だから、そんな働き方が容認されるんだ。個人店では無理」という見方もできるかもしれない。しかし、本来はレストランそのものがベンチャーなはずだ。TOYOのパリ本店を開いた中山豊光氏もベンチャー精神の塊で、事実、日比谷にRestaurant TOYOを作っている。
「そのうち、あーだこーだとできない理由を言っているのがダサく見られる世界がやってきますよ。社内でベンチャーを考えないサービスマンはダサい、"できないサービスマン"と烙印をおされる時代がすぐそこまできている。TOYO JAPANのような会社が当たり前になるんです」
成澤が手掛けたレストラン「Solfége(ソルフェージュ)」と「焼肉 きゅうこん」。
Restaurant TOYOのオンライン予約はこちら
取材・文・撮影=江六前一郎