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宇津保物語を読む7 菊の宴(実忠抄)#4(終)
実忠、妻子と気づかず、歌を贈答して帰る
人々近く立ち寄りたまへば、さすがに人は住むものから咎めず。簣子近く寄りて、宰相、
(実忠)夕暮れのたそかれ時はなかりけり
かく立ち寄れどとふ人もなし
とて上りて居たまひぬ。みな声聞き知りたまへる人のみあれば、ものもいはせず。宰相、(実忠)「などかもののたまふ人もなき。もしかたは人の住みたまふ所か」とて、
(実忠)「山彦も答ふるものを夕暮れに
旅の空なる人の声には
あやしく、などか世離れたる住まひはしたまふ。思ふ心なき人々好かずや」などのたまふ。袖君、夜昼恋ひ泣きたまふ父君のまれに見えたまふを、(袖君)「いかがいらへ聞こえざらむ」とて、御座など出だすとて、円座にかく書きつく。
(袖君)「旅てへばわれも悲しな
世を憂しと知らぬ山路に入りぬと思へば
同じ山路に、とかいふなる」。出だしてしばしばかりありて、透箱四つに平坏据ゑて、紅葉折り敷きて、松の子、菓物盛りて、くさびらなどして、尾花色の強飯など参るほどに、雁鳴きて渡る。北の方、かはらけにかく書きて出だしたまふ。
(実忠妻)秋山に紅葉と散れる旅人を
さらにもかりと告げて行くかな
源宰相、
(実忠)旅といへど雁も紅葉も秋山を
忘れて過ぐすときはなきかな
北の方、
(実忠妻)あき果てて落つる紅葉と大空に
かりてふ音をば聞くもかひなし
などいへど、気色も見せず。あやしくをかしき所かな、とは見たまへど、思ふ心のいみじければ、それを思ふにやあらむ、え思ひやりたまはず。
源宰相、(実忠)「いかが見たまふ。心もなくは見えずなむ」。中将、(仲忠)「さらにものたまふかな。有心者なり。語らひ置きて、時々は紅葉見る所にしたまへ」。宰相、「いでや、見る人ごとに心移りては、身もいたづらに。年ごろあはれと思ひし人のなりけむ方も知らず、らうたしと思ひし子をも失ひてしかば、今はさる心をぞ思はぬ」といふほどに、鹿はるかに鳴く。宰相、
(実忠)鹿の音に恋ひまさりつつ惑ひにし
妻さへ添ひて思ほゆるかな
藤中将うち笑ひて、(仲忠)「めづらしくも故郷を思し出づるかな。うるさき風なりや」とて、
(仲忠)しきたへの妻のまちまち鳴く鹿に
君待つ人は劣らざるらむ
など、夜一夜いひて、暁に帰るとてものなどのたまへども、人もいらへず。源宰相、「など、われらが思ふ心いみじかりけれど、思へばここを見捨てて帰るこそ。いかならましな」。中将、「仲忠は思ふ心もなけれど、物の心も、などいふやうにあるにや」とて帰りぬ。
訳
お二人(実忠・仲忠)が家の近くにお立ち寄りになると、さすがに人は住んでいるものの咎めることはない。簀の子近くに寄って宰相(実忠)が歌を詠みかける
夕暮の黄昏時に立ち寄ったものの、
「誰そ彼」と問ふ人もいない
といって縁に上ってお座りになる。
皆宰相が声を聞き知っている人ばかりだったので、北の方は何も言わせないようにさせる。
宰相「どうして答えてくれる人がいないのですか。もしかして口のきけない人の住むところですか。」といって、
「山彦も呼べば答えるのに。
夕暮に旅をする人の声にはね
不思議にも、どうしてこんな浮き世離れしたところにお住まいなのですか。風流を解せない人は、こんな暮らしは耐えられないでしょうに。」
などとおっしゃる。
袖君は、夜も昼も泣いて恋慕っていた父を偶然にも目にしたので、(どうして応じないでいられましょう)と思い、敷物などを差し出すときに円座にこう書きつけた。
「旅といえば、私も悲しゅうございます
世をはかなみ、知らぬ山路に入ってしまいましたので
『同じ山路に』などと言いますから。」
歌を差し出した後、しばらくして透き箱4つに平坏を置き、紅葉を敷いた上に松の実や果物を盛り、茸などを尾花色に炊き込んだ強飯などを差し上げる。
ちょうどその時雁が泣きながら渡ってゆく。
北の方は器にこのように書いて差し出す。
この秋の山に紅葉が散るように過ごす旅人のような私たちを
さらに雁までもが仮の世だと告げて飛んで行ってしまうのです。
源宰相(実忠)
たとえ旅だとしても
雁も紅葉もこの秋山を忘れて通り過ぎるなんてことはありませんよ
北の方
秋が終わり散って行く紅葉を見ても、
大空に「仮」と鳴く雁の声をきいても
私には何の甲斐もないことで
などと詠むが、自分が誰であるかのそぶりも見せない
宰相は、不思議と心惹かれる所であるなとはご覧になるものの、あて宮を思う気持ちが強いので、そのことばかりを考えていたからであろうか、相手が失踪した妻であることなど思いもよらない。
源宰相「ねえ中将、どう思います? 無粋な方には思えませんよ。」
中将「いうまでもないことで。なんとも風流な方ではありませんか。この方と親しくして時々紅葉を見る場所となさればいかが。」
宰相「いやいや、女性に会うたびに心移りをしていては身が持たないよ。長年連れ添った妻の行方も知れず、可愛いと思っていた子もなくしたのだから、今はそんな気分にはなれないよ。」
と言うと鹿がはるか遠くで鳴く。
宰相
鹿の鳴き声を聞くといっそう恋心が募ってしまう
行方知れずの妻のことまでも思い出してしまったではないか
中将はお笑いになり
「めずらしくもご実家のことを思い出したようですね。雁ばかりか鹿の声までも届けるなんて、なんとやっかりな風ですね。」
といって、
妻を待ちつつ鳴く鹿の声に
あなたを待つ人(北の方)の泣き声は劣らないでしょう
などと夜を語り明かし、暁に帰ろうとして挨拶などなさるが誰も返事をしない。
源宰相「どうしてかなあ。私たちはたいそう心惹かれているのに。
このままここを見捨てて帰るのは、思えばなんとも惜しいことだ。どうしたものなあ。」
中将「私は風情というものに疎いのでなんとも言えませんが、『物の心も』などというような事情でもあるのですか。」
などと話ながら帰って行ってしまった。
袖君は父に何とかして気付いてほしくて歌を書いて送り、食事のもてなしをする。粗末な山菜の食事である。
雁の鳴き声に北の方も、抑えきれずに歌を贈る。自分たちをおいて飛んでいく雁に実忠を重ねるように。
実忠は通り一遍の慰めの言葉しか返せない。
鹿の声に実忠は妻子を思い出し、歌を詠む。
それを聞いた北の方の心中はいかほどであろうか。
妻を忘れてはいない。忘れてはいないのだが、しかし実忠にとってはやはり一番はあて宮なのである。
なぜであろうか。
家族(日常)とは、あまりに近すぎてかえって見えなくなるものなのかもしれない。
妻は、家にいればこその妻であり、演じる「妻の姿」こそ男にとっての妻である。
家を離れ、一個人としてそこにいるとき、男はそれを妻と認識できないのかもしれない。
「そのままの私を見て」という女の願いは、妻となってしまえばもう男には届かない。
男とは、恋にいったい何を求めているのであろうか。