わたしのキャリア〜地方で教員、病気になって立ち止まる編「無理しないで、私」〜
社会人になって何年目なのか、段々とわからなくなってきた。
とりあえず、7年目に突入しているらしい。
年齢的にも、もうすぐ30代になるアラサーになった。
そんな私の短いキャリアの中でも、それなりにターニングポイントがあった。
最初の仕事は芸能マネージャー。
通信制大学で教員免許を取るため、インターン生活。
そして、コロナ禍が始まった2020年、鳥取での教員生活が始まった。
with コロナの教員生活を経て
鳥取での教員生活が始まった。
コロナによる不便さか、鳥取で暮らすことの不便さか、よくわからないまま、新しい環境になった。
それでも、新しい挑戦を受け入れてもらえる環境で充実していた。
そんな中で、教員3年目の冬、潰瘍性大腸炎という病気になった。
原因はわからない。完治することがない難病だ。
一時は症状が悪化して、休職せざるを得ない状況になり、実家に帰ることになった。
そして、4年目の4月になんとか復帰することができた。
が、それでも薬の飲み合わせなどに翻弄され、本調子ではない。
そんな病気になった私が今考えている「なりたい私」。
1 体にとって「無理」なことをしない
病気になって分かったのは、治療を受けることができるのは自分だけ。
体の調子を確認できるのは自分だけ。
いたわれるのは自分だけ。ということだった。
病気について言えば、誰も私と代わってくれはしない。
だからこそ、ちょっとした不調がある人には、こう言いたい。
「自分をいたわれるのは自分だけだから、ほうっておかないで。」と。
だからこそ、自分の身を粉にして働くことは難しいと思う。
無理しがちな性格だったので、「無理しないで、私」とあえて自分を呪っている。
バリキャリな働き方に憧れていたところもあったけれど、私にはそれをする権利はないらしい。(痛い思いをしたくないなら)
2 諦めないことを決める
それでも諦めたくないこともある。
例えば、教育に関わる仕事は続けたい。今の学校は比較的労働時間も相談に乗ってくれたが、長時間労働の学校がほとんどだ。自分にあった職場を考えるにあたって、労働時間は重要な条件になった。
それに、私は大学院の修士をどこかで取りたいと考えているし、安定した治療法が見つかれば、海外進学もありかもしれない。(どうだろう。)
それに、また体に症状が出た時、それでも働けるような仕事を見つけたい。
体の負担をかけずに、自分の力を発揮するためにも、自分の能力を高めたい。
現場に立ち続けることが、もし難しくなったとしても、教育に関わるには?カリキュラム作りに関わるとか?
狭められた選択肢の中で、工夫していく。そういう生き方になるだろう。
そうやっていくうちに、結局どこにでも行ける「自由」があるような仕事を求めていくことになるのかもしれない。
3 もう少し自分を信じる
鳥取に来てよかったことは、やたら褒められること。
完全に地方バイアスかもしれないが、東京にいた頃、私はどこにでもいる人で、褒められることはほとんどなかった。
文章を人前に披露することもなかった。私より書ける人をたくさん知っていた。
私より、仕事ができる人なんてあふれかえるほどだった。
それでも、療養中も「待ってますよ」と声をかけられたりして、
「世の中、意外とやさしいらしい」
「思ったよりも世界に愛されてるかもしれない」
と気づいた。
もう少しだけ、自分を信じてみよう。
世界を信じてみよう。
と思って、今日もこんな駄文を書いている。
ということで、これからも何かを書き続けるかもしれません。