【エッセイ】人は死んだらどうなるのだろう?
人間は死んだらどうなるのだろう? そんなこと、考えても無駄だと分かっていつつも考えてしまう。自分もそのうち死ぬことが分かっているからだろう。
若いうちは自分が死ぬことなど考えもしない、とはよく言うが、私の場合はそれは正しくもあり、違ってもいる。若いうちから死はすぐそばにあった。これは私だけの問題ではなく、誰でも体験しているだろう。例えば祖父や祖母など、高齢の家族は自分がまだ若かったり子供の頃に死んでいるはずだ。また学校の同級生などが病気や交通事故で死んでしまったという体験をしている人もいるだろう。あるいは自分自身が車に撥ねられそうになった、あと少しの違いで助かった、そんな幸運を経験しているかもしれない。
確かに人は生まれてきた以上、死んでいく。死を逃れた人は誰もいない。金持ちや権力者は不老不死だが、貧乏人はすぐに死んでいく、なんてこともない。死はすべての人に平等に訪れるのである。しかし、死んだあとにどうなるのか、それは誰にもわからない。わからないからこそ、色んな人が色んなことを言って周囲を惑わせたり、誰かを操ろうとしたりもする。これに関しては、様々な人が様々な意見を持っていて、まったく収拾がつかないくらいだ。宗教だったり哲学だったり、各方面で異論が噴出している。それもすべて人が死んだらどうなるのか誰も分からないからである。
誰も分からない、とは言いつつも代表的な意見は二つに集約されているだろう。以下の二つだ。
一、人が死んだら無になる
二、人が死んだら天国などの死後の世界に行く
死んだら無になる、とは人間という動物をただの機械のように見れば理解しやすい。機械が壊れたらただのゴミである。修理して元に戻す方法もあるが、不可能な場合も多い。今まで動いていた機械が動かないのなら、そんなものに価値はない。使われていた金属を溶かして再利用するなり出来るかもしれないが、機械としての価値はゼロ、つまり無である。機械に魂などの見えたり測れたりする隠れた核心がないのだから、人もそれと同じように、死んだら壊れた機械と変わらないゼロの存在になる、それが無になる、という考え方だろう。
一方、人が死んだら肉体から魂が抜け出て、天国なり死後の世界に旅立つ、という考えも古くからある。死んだら無になる、なんて考えるよりもずっと人間味があり心休まる思想である。しかし、そこにつけ入る輩が多いのも現実だ。生きているうちに徳を積まなければ天国に行けません、天国に行けなければ地獄です、地獄には行きたくないですね、では、はい、この壺を買いましょう、この壺を買えば徳を積んだのと同じです、天国があなたを待ってます・・・・・、こんな悪徳商法が蔓延るのも人が死んだらどうなるか誰にも分からないせいだ。
現実的に言って、こうした死後の世界を語る人間は怪しい。昔ながらの宗教だろうと聞き慣れない怪しい新興宗教だろうと、あるいは宗教の仮面を外したスピリチュアルな方面からの言葉だろうと、死んだらどうなるこうなるという連中とは距離を取っておくことが人生のQOLを上げるひとつの手である。現に私はそうしている。まともな科学者ならそんなオカルト連中のことはまず相手になんかしないだろう。しかし「死後の世界も魂も科学的に観測されてもいなければ、証明もされていません。だから人は死んだら無になるのです」なんて大上段に決めつけるのも無粋である。
幽霊や心霊現象などのオカルトも、結局は人が死んだらどうなるのかわからないから生まれるのだろう。そして分からないというものは、怖いものだ。恨みを持った人間が死んだあと幽霊として出てくるのは、お話としても怖いし、どう対処したらいいのかわからないのも、怖い。ましてや悪霊に取り憑かれてしまうなんて、考えるだけでも恐ろしい。しかし幽霊や死後の世界なんて誰も証明していないのに、皆、勝手に怖がっているというのもまったく変な話である。
私が子供の頃、小学校の図書室に子供向けに翻訳された海外SF小説のシリーズが置いてあった。私がSF好きになったきっかけなのだが、その中のひとつにロバート・シェクリイの『不死販売株式会社』があった。古典SFの名作のひとつに数えられる小説である。ウィキペディアからの丸写しだが、あらすじは、こんなものだ。
私が読んだのは子供向けに易しく翻訳されたものだが、それでも小学生の常識をぶっ飛ばすには充分な内容だった。死んだはずの主人公が未来世界で生き返ることや、未来ではすでに死後の世界が証明され、そんな来世への行き方も確立されている、などもだ。さらには主人公が、派手に闘って死にたい富豪たちと武器を手に戦わなければならない内容など、デスゲームに無理やり参加させられる昨今のエンタメ作品の走りになっている、と言い切ってもいいような内容だ。ヒット漫画『GANTZ』の作者もアイデアの元になったとインタビューで語っているのを読んだ覚えがある。いや現在、エンタメ小説界で大流行りの異世界転生モノの大元じゃないのかと指摘したいくらいだ。
死んだらどうなるのかや、死後の世界や魂の転生など、エンタメ作品として楽しむ分にはそれほど害はない。しかしやはり、現実の生活の中にそうした不確かなオカルトを持ち込むといろいろと害になる。私の世代だと圧倒的なものに『ノストラダムスの大予言』がある。特に1999年に世界が滅びてしまうという予言は、子供心に薄ら寒い思いを抱いたものである。オウム真理教に心酔した私と同年代の人たちの多くは、まず間違いなくこの本の洗礼を受けているはずだ。1999年に世界が滅びるといううっすらとした不安が、若者たちがおかしなカルト宗教にのめり込む引き金になったという推測は決して的外れではないだろう。そして彼ら自身も「ハルマゲドンが来る!」と盛んに喧伝していたし、人々の不安を駆り立てていたのも事実なのだ。大衆が恐れたり、無駄に不安を抱けばそうしたオカルト論者はホクホク顔になる。彼らに頼られたりして、お金が儲かったり権力を得られるからだ。しかしまともな科学者や著述家が魂や死後の世界についてまったく追求していないかといえば、そうではない。代表的なものに立花隆の『臨死体験』があるだろう。
立花隆はオカルトからは距離を置いた著述家である。矢追純一や韮沢さんなどの対極にいる人だが、その人が臨死体験などという怪しげなものをテーマにした本を書いたのが、まず私は意外だった。いや、今回このエッセイを書くために改めて図書館から借りてきたのだが、それは上下巻、それぞれが400ページを超える分厚い大作だった。「あれ、こんなボリュームの本読んだっけ?」とまず疑問が浮かんだ。読んでみたが、あまり記憶がない。もしかしたら1991年3月にNHKで放送された同名の番組を見たのは間違いないので、それで本も読んだ気になっていたのかもしれない。まあ、読んだかもしれないが、それでも30年くらい昔のことだ。とにかくこの本には臨死体験のエピソードが満載である。ひとくちに臨死体験と言っても人それぞれにバリエーションがあるのだが、大まかにはこんなものだ。事故や病気で瀕死になった人が、身体から魂が抜け出て、ベッドや手術台の上にいる自分を天井あたりから見下ろす体験をする。さらに眩しい光を見たり、トンネルを抜けて花畑が広がる空間に行ったり、三途の川を渡ろうとして引き止められたりする。すでに死んでいた家族に会い「お前はまだここに来るべきではない」などを言われて、気がついたらベッドの上で目覚めた。そんな一連のまるで死後の世界を垣間見たかのような体験がいわゆる臨死体験である。
夢や幻覚ではないか、と反論されそうだが、実際に体験した人によればおぼろげに記憶に引っかかっている夢とは違い、まるで起きているときのようなリアリティがあるという。普段目覚めている時の体験とさほど違わないありありとした現実感なのだそうだ。しかし懐疑論者からは心停止などで脳に酸素がいかなくなると、幻覚を見たりする、さらには脳内麻薬物質が放出されるのでその影響では、と言った見方がされる。じつのところ、立花隆もこの本の中でその可能性は高いと論じている。しかし、幻覚だけでは説明できない部分もある。自分の身体から魂が抜け出て、瀕死の患者本人が絶対に知りえない情報を見聞きする、幽体離脱の現象がそれだ。一瞬で数百キロ離れた親の家に行ったもする。またある体験者は病院の高い階のベランダに赤い靴が落ちているのを見た、と証言し、実際にその場から赤い靴が見つかる。患者は瀕死で病院に担ぎ込まれたので、あらかじめ知っている内容ではない。これは実際に魂が肉体から抜け出たことを実証する、客観的な証拠ではないか?
しかしそれも疑えばいくらでも疑うことが出来る。そんな報告も全ては研究者がエピソードを集めたに過ぎないからだ。厳重に監視された装置で実験したものではなく、目立ちたい人が嘘をついたり、悪気はなくても研究者を喜ばせようと話を膨らましたのかもしれない。さらにはそうした臨死体験は、世界各国から報告されているものの、それぞれの国が持つ文化的な背景を引きずっているのでは、という指摘もある。たとえば、アメリカでの体験では多くの人が神やキリストなどの霊的な存在と出会っている。しかし日本ではあまりその例はない。さらには日本の体験では三途の川が多く出てくる。しかしアメリカの体験からはまったく報告されない。つまり臨死体験とは、瀕死状態の脳がその人がもともと持っていた死後の世界のイメージが、ただ低酸素や脳内麻薬の影響で生み出された脳内の幻覚なのでは、という見方が生まれるだろう。日本人がキリストに会ったりしないのは、死んだらキリストが待つ神の世界に行く、というイメージがないので当然といえば当然なのである。そう考えると、臨死体験とはただの幻覚なのかもしれない。私はオカルトに傾倒していないしなんの宗教もやってないが、世界のすべてが科学で片が付くと考えているわけでもない。だから臨死体験などない、魂なんてものはない、と断言するほど偏屈でもない。しかし臨死体験とは全て死ななかった人の話である。数分心肺停止したもののその後、無事に生還しているわけだし、完全に死んだのに生き返った人など歴史上一人もいないのである。とはいえ、臨死体験が幻想だとしてもまた別の観点から死後の世界を論ずることも出来るだろう。それは前世の記憶である。
前世の記憶とは、たいていまだ数歳の幼児が「僕はもともと別の街に住んでいた。車の事故で死んだんだ」などと喋り出すお話である。さらには昔住んでいた家や家族のことを事細かに語ったりもする。そして実際に調べてみると、そんな家族がいて、死んだ時の状況も語ったとおりであったことがわかる、といった内容だ。ここには死後の世界や天国の話はないが、輪廻転生と言うか、肉体が死んでも魂が不滅であることを証明しているともいえるわけで、死んだらどうなるのかを知りたい人々の興味を掻き立てる話である。しかし、すべての子供に前世の記憶があるわけではない。事実、私も子供の頃、そんなものはまったくなかった。たまに「私は◯◯(たいてい有名な歴史上の人物)の生まれ変わりです」なんて公言する人もいるが、まあ、インチキの類と疑っておくべきである。しかしこれも臨死体験とおなじく科学的にまじめに研究している人もいて、いくつか疑いようがない事例もあるようである。幼児が話す家族の名前や住んでいた家、生前こんな仕事をしていたなどの内容が、とてもその幼児が知っているはずがない、と断言できるという。たしかに五歳の幼児が20年前に死んだ、数百キロも離れた街に住んでいた人の生前の様子を詳しく知っているのは、インチキが介在する余地は排除できそうである。ではやはり、肉体とは別に不滅の魂というものがあり、肉体が死んでも輪廻転生して生まれ変わり、本来は消去されるべき前世の記憶がなんらかのバグでたまたま残ってしまった、そう言い切れるのだろうか?
どこかの掲示板で誰かがこんな反論をしていたのを読んだ覚えがある。曰く「人間が生まれ変わるにしても、昔と今では人口が違いすぎる。矛盾しているではないか」と。確かに数千年前には現在の80億もの世界人口はなかったのだから、数が合わない、というわけだ。しかしこれはSF的発想力が貧困である、と断じていいだろう。人が死んだら生まれ変わる、と言っても死んだ人がすぐにでも、はい、次の人生はこれ、とベルトコンベアのように流れているわけではないだろう。こう考えればいい。我々が現在暮らしているこの世、この世界をディズニーランドやUSJのようなテーマパークに置き換えるのだ。そしてあの世や死後の世界をテーマパークの外の世界、東京や大阪や日本国のようなものだと考えてみる。日本人の全てがTDLに行くわけではないし、どんなに好きな人でも毎日行くとも思えない。また開園前に入場者はゼロだが、開園後に入場者はどんどん増えていくのだから、現在の総人口が人類の歴史上最大であったとしても矛盾はない。とはいえこんな解釈もオカルトの一種だろう。
たまに、私は霊が見える、などという人がいる。実は私も一人だけそんな人と知り合って詳しく話を聞く機会に恵まれたことがある。まだ30代の頃、職業訓練校の溶接科で溶接の勉強をしていた時に、同じクラスにいた女性に一人、そんな人がいたのである。彼女は決して構ってちゃんのメンヘラなどではなかった。女性ながら溶接の技術を身に着けて建設業界で働きたいと言っていたので、堅実な考えの持ち主だったと言っていいだろう。彼女が自分の霊視体質に気付いたのは小学生の頃、日航機が御巣鷹山に墜落した日のことだったそうだ。なぜか自室の机の向こうに悶え苦しむ多くの人の霊を見たのだという。驚いて両親に話すと「やはりお前もそうだったのか」という反応をされたそうだ。どうやら見える体質は親譲りのものだったらしい。私が「守護霊とか見えるの?」と聞くと「たいていその人によく似た霊が憑いている。動物が見えることもある」とのことだ。さらには居酒屋に入っていくと、空いている席でちょんまげ姿の人がお酒を飲んでいたりもするらしい。では私がそんな彼女の言葉を全て信じたのかといえば、そうでもない。なにより彼女の言葉が正しいのか、嘘なのか確認する手段がなかったからである。もちろん霊なんているわけない、と頭ごなしに否定することもなかった。普通に接している分にはまったく害のない人だったからである。
そうした霊視もインチキなのだろうか? いや、どうにかすれば客観的に事実を確認することも出来たのかもしれない。例えば彼女に私に憑いている守護霊の人相を詳しく聞いてみる。「左目の上に傷があり、口元に大きなほくろがある」などと聞き出したとしよう。そして彼女とまったく関わりのない、数百キロも離れた街の霊能力者を尋ねて同じように見てもらうのだ。ほとんど同じ人相が聞けたら、そうした霊視や守護霊の存在も客観的な事実と言えるのかもしれない。ひとつの例では弱いが、数百個ものデータを積み重ねれば、何らかの科学的な証明になるかもしれない。そういえば彼女はテレビの画面越しにも霊が見えるとのことで「テレビに出ている霊能力者って適当な嘘ばかりついてる」とも言っていた。本物は人知れず、目立たないところにいる、ということなのかもしれない。
どう言い繕ったところで、幽霊や死後の世界や生まれ変わりなんて話はオカルトめいている。これほど科学が発達した21世紀においても、魂の存在も死後の世界も解明されていないのだから、やはり人は死んだら無になるのだろうか? しかし、最近私はネット上で見かけた二つの仮説からそうしたオカルトに科学的なメスが入るのではと期待している。ひとつはダークマターである。ダークマター、暗黒物質とは存在していないと宇宙が成り立たないのに人類が未だ見つけていない謎の物質のことだ。ほとんど同じものとしてダークエネルギーがある。重力に反応するので存在は認められるものの、光には反応しないので現代の技術では観測が出来ないのだ。そんな物質やエネルギーが、この宇宙全体の質量のほとんどを占めているという。というより、宇宙に数千億も存在する銀河や星の質量は、宇宙全体の5パーセントほどしかないそうなのだ。残りがダークマターとダークエネルギーなのだという。それらは観測できないものの、我々のすぐそばに存在しているはずだと予想されているらしい。私がこの話を初めて聞いた時、「は? それってあの世なんじゃないの?」と思った。あの世はこの世に住む我々には観測できない。しかし霊などが観測されないままこの世界を漂っているとするなら、表裏一体のこの世界の裏側とも言えるわけで、まさしく臨死体験で垣間見た死後の世界がダークマターによって占められた世界なのではとも思えてくる。もちろんこんなものは私のただの妄想なのだが、さらにもう一つ、私が最近はまっているものがある。それは「シミュレーション仮説」というものである。
シミュレーション仮説とは、我々が暮らしているこの三次元空間が、別の進んだ文明によって作られたシミュレーション空間なのでは? という仮説だ。哲学者のニック・ボストロムという人が唱えた説がもともとのようだ。ウィキペディアから引用してみる。
最近、私はYouTube上のそんな解説動画をいくつも見たのですっかりはまってしまったのだ。もしあなたも興味があれば、YouTubeの検索窓に「シミュレーション仮説」と打ち込んでみれば、そんな動画がいくつもずらずらと表示されるはずだ。大富豪のイーロン・マスクも最近「この世界はシミュレーションじゃね?」などと言い出しているので、見聞きした人も多いかもしれない。しかし私は「そんなの子供の頃から知ってたぞ」と思ったのである。最初のところでも書いた、小学校の図書室にあった児童向けのSF小説である。題名は『フェッセンデンの宇宙』だったはずだ。作者はキャプテン・フューチャーシリーズで有名なエドモンド・ハミルトンで、この作品は子供でもすぐ読める短編だった。とあるマッドサイエンティストが研究室の中に宇宙空間を創造し、その中には銀河や星が生まれ、惑星の上には生命体も誕生し文明も生まれている。しかし、狂気の科学者は自ら作り上げた宇宙も破滅させてしまう、そんなあらすじだったはずだ。それはともかく、シミュレーション仮説は確実に証明できはしないものの、いくつかの傍証はあるらしいのだ。たとえば、原子は原子核と電子からなることは知られている。しかしその電子は、原子核のまわりを回っているらしいのだが、実際に観測するまでその場所は特定できないらしい。人間が観測すると、その場所が定まるのだという。これは確かに我々が遊ぶコンピューターゲームの中のようである。
古い例えだが、ファミコンの『ドラゴンクエスト』のようなRPGを思い出して欲しい。屋外のマップを移動するキャラのまわりは平地だったり、海だったり山だったりする。さらには人家もあるが、その中までは描写されない。キャラが家の中に入ると初めて、室内に切り替わり、椅子や机や暖炉が描かれる。これらは限度のあるゲーム容量を節約する工夫だ。屋外にいる時から椅子や机を描いていたら、容量が膨大になって処理しきれないので、そのようにデータのみを格納しているのだ。そんな手法は原子核と電子の動きに似ているのかもしれない。この我々が住む三次元空間を構築した高度文明人は、データ量が膨大になりすぎて処理能力の限界を超えないようにこの世界を創造したのかもしれない。しかし数千年前の人々は「この世界は神によって創造された」と言っていた。科学者たちはそんな古臭い世界観を頑張って壊してきたのに、現在それと大して変わらない「この世界は高度文明人が作り上げたシミュレーション空間である」と唱えるのもなんだか進歩がなくて悲しいものである。
結局の所、死後の世界も魂の存在も解明されないし、我々は死んだらどうなるのかわからないまま人生を送らなければならないようである。そういえば、個人的な体験として、こんなことがあった。私の父は2012年のロンドンオリンピックをやっている最中に病没した。(だからいきものがかりの『風が吹いている』を聞くと少し悲しくなる)。そんな父が死んでから数ヶ月後、奇妙なことがあったのである。家の門の外に取り付けてあるチャイムがピンポンと鳴り、誰かが来たのかと思って見てみるが、誰もいない、なんてことが何度もあったのだ。一日に四、五回鳴る日もあれば、鳴らない日もある。そんなことが数ヶ月か、一年ほど続いたのである。チャイムは無線式で、門の外に発信機である子機が取り付けてあり、ボタンを押すと室内の受信機が鳴る、そんな仕組みだった。父が死ぬ間際は認知症が進んでてんやわんやだったこともあり、まず間違いなく、無人で鳴るなんて日はなかった。誰かのイタズラかと思って鳴ったらすぐ室内を出て確認したが、誰かが身を隠すような場所はどこにもないし、逃げていく気配もまるでないのである。果たしてこれは何だろう?
父はどちらかといえば堅物ではなく、冗談好きな人だったので、そんなイタズラをしてもおかしくない。では、霊となった父がチャイムの無線を鳴らして不思議がる私や母を見て面白がっていたのだろうか? いやいや、そんなものはテレビのオカルト番組である。普通に考えれば、どこか近所で何らかの工事が行われ、その工事業者が使っている無線機がたまたま混信し、我が家のチャイムを鳴らしてしまった、と考えるべきだろう。夜中に鳴ることもなかったし、一年ほどで鳴らなくなったのだから、工事が終わって業者も別の現場に行き、無線機が使用されなくなったという解釈のほうが理にかなっている。無線機の電波なんて様々なものが飛び交っているのだし、そうでなければ、宇宙から地球に飛んで来た電波の周波数がたまたま合ってしまった、と考えるほうが合理的だ。ちょっと不思議なことをすべて霊のせいにするのは、まったく不合理だし科学的でもない。しかし、科学がすべて万能で、死後の世界も霊もシミュレーションされた世界も存在しない、と大上段に決めつけるのもなんだか詰まらない。人間はなぜ生まれたのか、生命はなぜ生まれたのか、宇宙はなぜ生まれたのか、そんな単純な疑問にも答えてくれる人など誰もいないのである。
前出の立花隆の『臨死体験』によれば、臨死体験をし、その後無事に健康を取り戻した人たちは、ほとんど口を揃えたようにこんなことを言うのだそうだ。「死ぬのが怖くなくなった。生きることを大切にするようになった。よりよく生きてみようと思うようになった」というのである。つまり死後の世界のようなものを垣間見ることは、それまでの生き方を深く改めさせるほどに鮮烈なのだそうだ。私は臨死体験などしたことはないが、彼らと同じように、よりよく生きていくことが大切なのは言うまでもないだろう。現時点では決してわからなくても、死んだらどうなるかは、死ぬ時になればどうせわかることなのだから。
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