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【コラム】南方熊楠は本当に「知の巨人」か?

 南方熊楠は本当に知の巨人だろうか? それとも過大評価された変人のおっさんだろうか?

 近年、南方熊楠がメディアで紹介される時に必ずくっついているのが「知の巨人」という枕詞だ。しかし多くの人はこの人が何をしたのかよく知らないだろう。読書好きの人なら「粘菌を研究した植物学者だ」と答えが返ってくるかもしれない。しかし、学者というからにはどこかの大学や研究機関に籍を置いていたのだろうと思われるが、それはない。南方熊楠は生涯、どこにも所属しなかった。なら在野の研究者なのだろうか。それも構わないだろう。アカデミックな世界に背を向けて孤高を貫いた研究者というのも、それはそれで格好いい。

 それなら、研究者としての業績はなにがあるのだろう。現代の我々は南方熊楠の著作なり論文なりに触れて新たな知見を得ているのだろうか? しかし、残念ながらそれもないのだ。南方熊楠が残した著作や論文をちゃんと読んだことがある人なんて、ほとんどいないだろう。三冊ほど本を著しているので、彼についての論文を書こうとする大学の研究者なら読んでいるかもしれないが、一般レベルでは皆無だと言い切ってもいいはずだ。「いや、粘菌の研究者だよ」と叱られるかもしれない。だとしても研究するだけなら私でも出来る。採集して観察して記録やスケッチを残して、はい、それで? そんなこと、だれでも出来る。それだけで知の巨人と呼ばれるなんて、変な話だ。

 私がこの「知の巨人」という枕詞に疑問を持つようになったのは、数年前からである。自分なりに南方熊楠について書かれた本を何冊か読んだのだが、その疑問はますます強まった。本当に知の巨人なのか? ただの過大評価された変人のおっさんじゃないか? そんな風に思えてきたのだ。まずはこの人がどんな事をしたのか知らない人のために、ネットの辞書をコピペしておこう。

 南方熊楠 みなかたくまぐす(1867―1941)
 生物学者、民俗学者。和歌山県に生まれる。博覧強記、国際人、情熱の人として、日本を代表する人物の一人に数えられる。大学予備門(東京大学教養課程の前身)を中途退学してアメリカ、イギリスに渡り、ほとんど独学で動植物学を研究。イギリスでは大英博物館で考古学、人類学、宗教学を自学しながら、同館の図書目録編集などの職につく。1900年(明治33)に帰国後は和歌山県田辺(たなべ)町(現、田辺市)に住み、粘菌(ねんきん)類(変形菌類)などの採集・研究を進める一方、民俗学にも興味を抱き、『太陽』『人類学雑誌』『郷土研究』『民俗学』『旅と伝説』などの雑誌に数多くの論考を寄稿し、民俗学の草創期に柳田国男(やなぎたくにお)とも深く交流して影響を与えた。まとまったものとしては『十二支考』などが著名。

 コトバンクというところから、ますは前半部だ。生まれの1867年は慶応三年である。慶応四年で明治元年に変わっているから江戸時代の最後に生まれて、昭和16年の終わりに死んでいるので、太平洋戦争が勃発した直後まで生きていたことになる。激動の時代とともに歩んだ生涯かも知れない。そして意外なことに私とも個人的に縁があるのである。と言っても薄いペラペラな縁なのだが。キーワードは和歌山だ。

 私自身は埼玉生まれの埼玉育ちだが、父の出身は和歌山であった。幼少期まで和歌山で育ち、小学生のときに父を亡くしていて、母はその数年前にすでに没していたので、その後、親戚宅に預けられて育ったようなのである。その早く亡くなってしまった父の父、私から見れば祖父にあたる人は大工をしていたと聞いていた。しかし最近改めて知ったところによれば家を作る大工と言うより、家具を作る指物師として働いていたようなのだ。さらにはとある造り酒屋に出入りし、酒樽を作る仕事にも従事していたらしい。らしい、という伝聞なのは、父の葬儀の際に父方の親戚から聞いた話なので、確証はないのである。そして、その造り酒屋とは、南方熊楠の実家である南方酒造だという。

 この話はすべて何の証拠もない、人づてに聞いた話である。話した人だって実際に祖父が働いている姿など見たことのない、伝聞なのだ。私の父も、自分が子供のときに死んでしまった祖父のことを話してくれることは滅多になかった。現在、仏壇に写真があるだけの人なのである。

 南方熊楠の父は江戸から明治へと移りゆく時代の波に乗り、事業を興し、造り酒屋で成功して裕福な家庭を築く。熊楠はその家で金銭的には恵まれた子供時代を過ごす。それどころか、和歌山から東京に出て大学予備門に入学し、その後アメリカに留学し、さらにロンドンに滞在する、そのお金もすべて実家からの仕送りで賄っている。父の死後は、造り酒屋を継いだ弟に金を工面してもらって過ごしていて生涯、定職に就くことはなかった。雑誌に論文を書いたり、本を出したりしているのでその原稿料はあっただろう。しかしベストセラーになって、そのお金で暮らしていけるほどではなかった。実家が裕福だったから、海外遊学を出来たり、働かずに粘菌などの研究に打ち込めたのである。現代の感覚なら子供部屋おじさんどころではない、とんでもないヒキニートだ。そんなおっさんが知の巨人だなんて、ますます納得できない。

 そうなのだ。私がこんな文章を書いているのは単なる嫉妬である。妬みであり、嫉みである。ああ、俺も裕福な家に生まれたかったなあ、太い実家に生まれていれば働かずに自分の好きな事だけをして生きていけたのになあ。小説を書いたり、本を読んだり、趣味に打ち込んだり、それだけで生きていけたらどんなによかっただろう。満員電車に乗ることも、下らない仕事であくせくすることもなかったのに、ああ、畜生! ・・・と、それが本音である。まったくみっともない話だが、嫉妬という感情はかなりのエネルギーを内包している。だから私にこんな文章を書かせるのである。

 とにかく南方熊楠を腐して知の巨人という評判から引きずり下ろしたいにしても、その人の業績をきちんと調べなければフェアではないだろう。しかしながら、南方熊楠は昔はいなかった。・・・というと変に思われるかもしれないが、私の感覚だとある時から急に名前が取り沙汰され、とにかくすごい人だという評判ばかりが高まり、マスコミが持ち上げ、「知の巨人」なんてキャッチフレーズとともにもて囃されるようになった、ような印象が強い。それはちょうど歴史の中に埋もれほとんどの人からは忘れ去られていたが、司馬遼太郎というベストセラー作家が発掘して、歴史小説の主人公として取り上げたために世に名前が知られるようになった坂本龍馬と、その姿がダブるのだ。南方熊楠を発掘し、取り上げたのは誰だろう? 荒俣宏だろうか、中沢新一だろうか、とにかく、南方熊楠は存命中は決して著名な学者、研究者ではなかった。ほとんど無名だった、といっても間違いないだろう。名前が世間的に知られるようになったのは、死後何十年も経過した1980年代以降である。それ以前は知る人ぞ知る、といった一部にだけ知られた存在だったのだ。

 南方熊楠は著名な科学雑誌である「ネイチャー」に数多くの論文を発表している。現代ではネイチャーに論文が乗るだけでも快挙であり、自然科学系の学者にすればそれだけでかなりの名誉だ。しかし熊楠が掲載された論文というのは、現代の厳しい査読をくぐり抜けた末に掲載される論文とは違い、読者の投稿、程度のものであったらしい。サブカル雑誌にネタを投稿して掲載されるのと同列に扱うわけにはいかないが、当時から権威のあったネイチャーとはいえ十九世紀の事情は現代とは異なるようだ。また英語をはじめとして数ヶ国語を自在に操ったというのも、誇張された伝説のようである。英語そのものは翻訳家レベルで堪能だったのは間違いないが、それ以外の言語は多少できる程度だったようだ。博識多才、博覧強記の人だったのは否定できないだろう。しかしそれだけで知の巨人というのも大げさに思えてくる。

 また熊楠を博物学者と紹介する文章もよく見られる。イギリスには正規の大学教授でないにも関わらず、博物学者として名前が知られた知の巨人にダーウィンがいる。『種の起原』を書き進化論を提唱したことで知られるダーウィンも肩書きとして博物学者と紹介される事が多い。熊楠がロンドンに渡った時すでにダーウィンは亡くなっているのだが、在野の研究者であり、さらには親が金持ちで働かないで研究に没頭していた、という共通点もある。しかしかたや動物の進化について長年思索を深め、世間の反発に合うことを覚悟で『種の起原』を発表したダーウィンに対し、熊楠は何をしたのだろうか? 例えばの話だ、熊楠が研究に打ち込んでいた粘菌は当時、植物の一種として認識されていた、しかし熊楠はそれに異を唱え、植物とも動物とも違う菌類という独自のカテゴリーを設けるべきだ、と提唱した、最初はまったく相手にされていなかった熊楠の訴えもやがて学会にも認められ、現代では熊楠の業績として広く知られている・・・、なんてことがあれば確かに南方熊楠は知の巨人に相応しいのかもしれない。しかし、以上は私の妄想なのである。本当に、南方熊楠は何をしたのだろう?
 
 熊楠は約十五年間のアメリカ、ロンドン滞在を終えて日本に戻ると、和歌山は和歌山でも実家から遠くはなれた那智勝浦と、その後は田辺に隠遁する。実家からの仕送りで暮らしつつ、粘菌や植物の採集を主とした研究に没頭する。さらにはこの時期、幽霊を見たり幽体離脱といった体験をしたことからオカルトにも目覚めていく。十九世紀のロンドンでも降霊会などのオカルティズムが盛り上がったが、その流れを汲んだものだと思われる。とはいえ完全にあっち側へ行ってしまうことはなく、正気を保つことができたようだが、その後に構想する、いわゆる南方曼荼羅にはそんなスピリチュアル的な体験がベースになっているのではないだろうか。

 南方曼荼羅、とは本人がそう呼んだわけではなくのちの研究者によって命名されたものだが、これはかなり難解だ。南方熊楠が独自に編み出した哲学体系、あるいは仏教的な世界観を現したものかもしれない。私のような凡人にはほとんど理解不能なので、熊楠が描いた図とともに分かり易く解説してある唐沢太輔著『南方熊楠 日本人の可能性の極限』中公新書、からその部分をまるまる引用させてもらおう。

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 私たちの生きるこの世界は、物理学などによって知ることのできる「物不思議」という領域、心理学などによって研究可能な領域である「心不思議」、そして両者が交わるところである「事不思議」という領域、さらに推論・予知、いわば第六感で知ることができるような領域である「理不思議」によって成り立っている。そして、これらは人智を越えて、もはや知ることは不可能な「大日如来の大不思議」によって包まれている。「大不思議」には内も外もなく、区別も対立もない。それは「完全」であるとともに「無」でもある。大日如来とは、真言密教における教主であり、宇宙の実相を仏格化した根本仏であるとされる。また、この図の中心にあたる部分を熊楠は「萃点」(「萃」には、集まる、集める、寄り集うという意味がある)と名付けている。それは、さまざまな因果が交錯する一点であり、熊楠によると、「萃点」からものごとを考えることが、問題解決の最も近道であるという。

 うーん、だから? それが私の素直な感想である。ファンタジー小説の導入部を読まされたようにも感じる。これは科学の世界の話ではない。熊楠が勝手にそう思っているというだけの、誰にも検証不可能な思い込みの一部だ。最近で言うなら「小説家になろう」に投稿されている高校生が書いたSF小説の設定みたいなものだ。しかし現代の感覚、現代人の知識で過去の人の思想なり考えを嘲笑するのもフェアではない。現在からみれば色褪せて見える思想や常識も当時の人には先進的に感じられていた場合だってある。熊楠がこの曼荼羅を構想していた当時、宇宙の始まりがビッグバンであったことや(これだって確認されたものではない)、すべての生物には細胞の核にDNAが潜んでいたことなど、誰一人知らなかったのだから。そしてこの曼荼羅とは、当時交流のあった真言宗の僧侶である土宜法龍に宛てた手紙の中に残されていたものであるという。つまり私信だ。もしかしたら熊楠はこれを発表するつもりなどなかったのかもしれない。私だって、個人的なメールを大っぴらにされたくない場合がほとんどだ。本能寺の変の数日前に織田信長が明智光秀に宛てた書状が見つかればそれは歴史的な発見だが、この熊楠の手紙から歴史的な意義は見つけにくい。私信に書かれたアイデア程度のものを論じても仕方ないだろう。

 まったく偶然だが、私がこの文章を書いているタイミングでジャーナリストである立花隆の訃報を耳にした。新聞の見出しにも「知の巨人」死す、の文字がみられる。私は立花隆の枕詞に知の巨人とつくことに違和感を感じない。まったく相応しい、とさえ思う。では南方熊楠と立花隆の違いは何だろう? まず立花隆はジャーナリストであり、何冊もの本を残した著述家である。初期の田中角栄研究は有名だが、以降は自らの足で科学者や最先端の技術を取材して本にする、という活動が目立つ。私もこの人の本を何冊も読んでいるので馴染みがある。本の内容も、臨死体験だったり、日本共産党だったり、サル学、コンピューターやインターネット、宇宙飛行士とそのテーマは枚挙に暇がない。自分が興味がある分野を徹底的に取材して、一般人向けに分かり易く解説して本にするという手法で一貫している。熊楠も立花隆も知性が溢れている、という点では一致しているだろう。しかし巨人というからには何か「とてつもないこと」を成し遂げてもらいたいのだ。立花隆はあらゆるテーマで膨大な著作を残しているので文句のつけようがないが、熊楠にはそれがない。ダーウィンだって『種の起原』を残しているので知の巨人と呼ばれるのに相応しい。その後の動物学、植物学、いや宗教をはじめとした一般社会そのものに与えたインパクトなら、アインシュタインといい勝負だろう。しかし本の発表を躊躇ったまま息を引き取っていたら「親の遺産で暮らしていたフジツボ愛好家」くらいの名前しか残らず、知の巨人の称号は剥奪されても仕方ないだろう。(A・R・ウォレスの存在がなかったらその可能性はあった)。南方熊楠が知性に溢れていたのに異を唱えるつもりはないが、結局、地方に隠遁したまま個人的な研究に精を出していた変人の域を出ない、としか思えないのだ。では、後半生をどのように生きたかをまたコトバンクからコピペする。

 南方が心血を注いで研究した粘菌類は森林の中に生息する小生物であるが、明治政府の進めた神社合祀(ごうし)によって小集落の鎮守(ちんじゅ)の森が破壊されることを憂い、1907年から数年間にわたって激しい神社合祀反対運動を起こす。これが後の自然保護運動のはしりとして再評価されている。1929年(昭和4)には田辺湾内の神島(かしま)に天皇を迎え、御進講や標本の進献などを行う。南方没後の1962年(昭和37)両陛下南紀行幸啓の際、神島を望見した天皇は「雨にけぶる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」という御製を詠んで追懐した。和歌山県白浜町には南方熊楠記念館がある。

 後半の人生のトピックといえば、神社合祀反対運動と昭和天皇への御進講だろう。もしかしたらこの二つがあるからこそ現在、南方熊楠の名前が世間に知られているのかもしれない。引用した上記の文章にあるとおり、神社を合祀しようとしたのは明治政府である。国家神道を中心に国を導くにあたり国内に神社が氾濫しすぎているとして、これを管理しやすくするために一地域に一つの神社を残して他は取り壊し、神社を管理しやすくするのが目的であった。熊楠はこれに猛反対し、新聞への投書や説明会に乱入するといった直接行動でひとり気を吐く。彼のこうした行動を環境保護運動の嚆矢として評価する声は多いし、私もそうだと思う。もしかして熊楠が何もしなかったら私たちは現在、まったく別の自然の様子を見ていたかもしれない。しかし、社会活動家として評価するとしても、知の巨人という称号は違うと思う。同じような環境活動家に足尾銅山鉱毒事件に取り組んだ田中正造がいるが、誰も彼をそう呼ばないではないか。

 一方で昭和天皇への御進講はかなりのインパクトがある。天皇陛下へ学問の講義を行うこと、それが御進講だが、通常は大学教授などが呼ばれて行うものである。在野の研究者であり、いろいろと問題行動を起こしている熊楠が呼ばれるなど、異例中の異例であっただろう。ちなみに現在でも御進講は講書始の儀、という形で続いている。宮内庁のホームページによれば

 講書始の儀は、毎年1月、皇居において、天皇陛下が皇后陛下とご一緒に、人文科学・社会科学・自然科学の分野における学問の権威者から説明をお聴きになる儀式です。皇嗣殿下をはじめ皇族方が列席され、文部科学大臣,日本学士院会員、日本芸術院会員などが陪聴します。

 とのことだ。昭和四年、和歌山県の田辺市の神島で行われた御進講に熊楠が呼ばれたのは、昭和天皇が植物学、特に粘菌に興味を持っていたことが大きい。さらには弟子にあたる人が東京にいて入念に根回しした結果、熊楠にそんな大仕事が回ってきたのだという。つまり、熊楠はまったくの変人であり、中央の大学や学会などとは距離を置いていたが、誰とも付き合わない隠遁者ではなく、彼のことを支持し、敬愛する門弟とも呼ばれる人が大勢いた。決して、ユナ・ボマーのような社会に恨みを持っているタイプの隠遁者ではなかったのだ。上記の引用にある通り、昭和天皇は熊楠の御進講から三十三年後、熊楠の死後十九年後に再び田辺に巡幸した際に、

 雨にけぶる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ

 という歌を残している。天皇が読んだ歌に一般人の名前が入るなど、かなり異例なのだそうだ。熊楠の死後、弟子達は特異な研究者である南方熊楠を顕彰し名前を残そうと本を出したりしていたが、天皇陛下の歌ほどの影響はなかったかもしれない。南方熊楠を発掘し、世に知らしめたのは昭和天皇だったかもしれない。

 ここまで私のコラムに付き合ってくれたあなたは、私の思惑とは逆に「なるほど、南方熊楠は知の巨人と呼ばれるにふさわしい人だ」という思いを持ってしまったかもしれない。しかし、それでも私は違和感を抱いてしまう。個人的な研究で優れた業績を残しながら、世間的には無名の人なんていくらでもいる。天皇陛下への御進講だって、毎年、何人もの学者が行っている。何か国語も自在に操る人、環境運動に精を出している人、誰にも顧みられずボランティア活動に従事している人、そんな無名の偉人は世間にはいくらでもいるだろう。それらの人を差し置いて、なぜ南方熊楠だけが「知の巨人」なのだろう。それらを一人で全部含蓄しているからなのだろうか? なるほど、そうかもしれない。それでも私は、もしかしたら、と疑問を抱いてしまう。「南方熊楠が金持ちの家ではなく、一般の、もしくは貧しい家に生まれていたら、このような業績を残していただろうか?」と。

 結局、お前は熊楠が裕福な家に生まれたことを妬んでいるのだな、という声が聞こえてきそうだ。(最初にそう言っているってば)。若き熊楠が大学予備門を中退してアメリカに留学し、さらにはロンドンに遊学したのは徴兵逃れの面も大きいという。実際、彼が二十三歳の時には日清戦争が勃発しているので、駆り出されていた可能性はあっただろう。現在の徴兵制度のない時代に生まれた私がそんな熊楠を非難する資格などまったくないが、やはり彼が恵まれた境遇にいたのは間違いない。

 南方熊楠は奇行の人であり、存命中は変人、奇人として周囲には知られていたようである。人見知りが激しく、初対面の人とはほとんど話せなかったが、それでいて酒を飲むと人が変わったように暴れるなど、凡人とは思えないエピソードが多く残されている。とてつもない個性、博覧強記ぶり、学者としてのエネルギッシュさ、そして天皇陛下とのゆかり、そんな熊楠の姿を、会ったこともない熊楠の姿をぼんやりと考えていたら私はある時ふと、「こんな人を最近どこかで見ているかもしれない・・・」という思いが生まれた。誰だろう? そうだ、あの人だ!

さかなクンだ!!!!

 さかなクンの博識ぶりを疑う人はいないだろう。どんな魚についての知識もつらつらと出てくる博覧強記の頭脳、そして強烈な個性、さらには絶滅していたと思われていたクニマスという魚をめぐる一連のエピソードにも天皇陛下とさかなクンは関わっている。2010年の天皇誕生日に出された上皇陛下の談話にははっきりとこうある。

 クニマスについては、私には12歳の時の思い出があります。この年に、私は、大島正満博士の著書「少年科学物語」の中に、田沢湖のクニマスは酸性の水の流入により、やがて絶滅するであろうということが書かれてあるのを読みました。そしてそのことは私の心に深く残るものでした。それから65年、クニマス生存の朗報に接したわけです。このクニマス発見に大きく貢献され、近くクニマスについての論文を発表される京都大学中坊教授の業績に深く敬意を表するとともに、この度のクニマス発見に東京海洋大学客員准教授さかなクン始め多くの人々が関わり、協力したことをうれしく思います。

 ああ、そうだ、南方熊楠は「明治大正時代のさかなクン」でいいじゃないか。植物学に深い興味を持っていた若き昭和天皇に在野の老学者の熊楠、それとはひっくり返っているが、魚類学者でもある高齢の上皇陛下(当時は天皇陛下)と、若き個性的な研究者であるさかなクンの組み合わせは、ゆかりとしても面白いし、二人とも強烈な個性の持ち主だった、という共通点もある。ああ、そうだ、「南方熊楠は明治大正時代のさかなクン」でいいじゃないか。当時にテレビというものがあり、南方熊楠を取材したとしたら、きっとあんな感じだったんだろう。「にょにょにょ~、この粘菌はですねえ~~!!」なんて言ったかもしれない。

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 ああ、なんだかすっきりしたぞ。これでやっと寝られそうだ。おやすみなさい。


 

 

 

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