他人は信用するに値しない
初めに
僕は昨日、ある記事を書きました。
こんな記事です。
本当はこんなものをnoteにあげるつもりはなかったのですが、一種の気の迷いとあまり書いてこなかった「感情」というものに正面からぶつかった記事だったので今は書いてよかったと思っています。
ここに至るまでいろんなことで悩んで、塞ぎ込んでいましたが、複雑に考えなくてもいいなと思うようになりました。
そんなお話です。
信用と信頼の違い
僕は他人を信用する価値はないと思いますが、時には信頼することが重要だと思います。
これらの辞書的意味を少しだけ。
しん‐よう【信用】 の解説(goo辞書)
[名](スル)
1 確かなものと信じて受け入れること。「相手の言葉を―する」2 それまでの行為・業績などから、信頼できると判断すること。また、世間が与える、そのような評価。「―を得る」「―を失う」「―の置けない人物」「店の―に傷がつく」
2 それまでの行為・業績などから、信頼できると判断すること。また、世間が与える、そのような評価。「―を得る」「―を失う」「―の置けない人物」「店の―に傷がつく」
しん‐らい【信頼】 の解説(goo辞書)
[名](スル)信じて頼りにすること。頼りになると信じること。また、その気持ち。「―できる人物」「両親の―にこたえる」「医学を―する」
僕は時間軸的に短期的なものが信頼であって、時間軸的に長期的なものが信用であると思っています。
そして同時に、信用とは相手を「正しい」とすることだとも思います。
信頼までしなくなってしまうと、自分で全て抱え込んで、結局いつか爆発してしまいます。
だから、信頼することは重要だと思うんです。
人は信用するに値しない
そして、僕がこの記事を書くまでの約2週間で得たことは「他人は信用するに値しない」ということでした。
結局、みんな自分が一番可愛いんです。誰かのために力を貸すのは自分の倫理観とか、価値観に従っている結果としてあるだけです。
誰かを助けることすら、自分のためなんです。
そうした時に、他人は信用するに値しないな、と思うようになりました。
誰かが述べる価値観、相談事、愚痴、その他いろんなものに信用する価値はこれっぽっちも存在しない。
自分が正しいと思うものに対して真正面から向き合う。好きなものを好きだと主張する。
それでいいんだと思います。
この記事すら、自分のためです。自分が感じたものを将来の自分へ渡しているだけ。
それに付随して、誰かがみてくれるかもしれないけどこの記事にそうだ、と信用する価値はない。でも、信頼する価値はあるかもしれない。
「頼る」価値はあるかもしれませんが、「正しいと信じる」価値は一切ない。
所詮他人は他人で、いくら話し合おうと100%の理解なんて無理。相手が経験して、自分が経験していないと他人が正解に思えてならない。
でも、他人はあくまで彼ら・彼女らの倫理観や正義感や環境で生きていてその中での正解が倫理観も正義感も環境も違う自分自身の正解なんて限らない。
他人はどこまで仲良くなっても所詮他人です。自分自身とはどう頑張っても離れられないですが、他人なら最後どうにかすれば必ず離れられる。
そうした時に他人が自分に語ることへの責任感なんて、自分が自分自身に語る責任感に比べればミジンコ以下。結局そんなものです。
最後に
僕は今までいろんな人を「信用」してきました。
経験したことのないことは経験したことのある人の意見が正しいのだと。大人の意見はそれだけで自分の意見を潰すことも少なくなかった。
でも、初めて相談をして気づいた。多くの彼ら・彼女らはいい面しか見せない。見せたくない。
相談をしてくれた人の幸せを願うのではなく、その相談事を受けた「自分」に価値を見出して、また相談事をされるようにそれらしい関係を続ける。
僕の倫理観や正義感からはそんなことは考えられなかった。でも、事実として存在した。
だから、僕はこの際他人を信用することはやめようと思ったんです。
僕はアニメが好きで好きなものを好きと主張したかった。でも、家族からは理解されていません。
今までは自分の気持ちを押し殺していましたが、そんな必要はないと思うようになりました。
家族ですら、結局他人だからです。
ある意味、いろんなものを捨てているのかもしれません。
いろんなことを捨て置く人生が幸せかどうかはわかりません。でも、一つだけわかることがあります。
他人への信用なんてクソくだらないものを捨てた人生はちょびっとだけ生きやすいです。
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