「〜と思う」の重要性

 僕は今ある学生団体に属しています

 優秀な先輩がたくさんいて、いろんな話を聞かせてもらうんですが僕がいつも引っかかることがあります。

それは

 愛とはこうである

とか、 

 こうしたら女は落ちる


みたいにいう先輩がいることです。

 そもそも僕は「女」って呼び方が好きではないんですが、まあそれは今回は見なかったことにします。

 愛がこうであると画一化することとか、恋愛テクニックみたいなものを画一化するのって変な話だと思うんです。

 あなたの見えている世界が全てじゃないですよ、って思っちゃうんです。

 こういう口調で愛について語られても、いやいやって思ってしまう。それ以外の愛の形はないっていう前提をおいてしまっている、その時点で愛があると言えるのかに疑問符がつく。

 そんな口調で恋愛テクニックを語られてもあなたが女性に向ける姿勢は僕のそれとは違うのでってなります。僕はあなたみたいにたくさんの女性を食うつもりはないので、って。

 僕はいつもこういう発言をする人を見て吐き気を覚えます。なぜか。

 あなたの道具じゃない


 と思うからです。愛を、恋愛テクニックを語ることであなたの自尊心を満たすために僕達がいるわけじゃない。

 僕達は僕達なりに考えて生きて、苦しんで、楽しんで生きてる。

 それなのにそれを否定していることに気づいていない。本気で有意義な話をしていると信じて疑わない。

 僕はこういうのを見て、決めたことがあります。

 「僕は〜であると思う」

 とか

 「僕の経験では〜」

 という断りを入れるようにしています。

 パッと見た時に僕は意思が弱くて、はっきりしない、自分に自信のない人に見えると思います。

 でも、それでいいんだと思います。

 僕にはこうだって断言して他人の人生を狂わせることはできないんです。それはきっと、僕の譲れない信念です。

 何が言いたいのかというと、大体の人が明言して

 「〜は〜である」


 っていうのってあくまでその人の視点なんです。人生の目的とか、大事にしてるものとかそういうものが違う人の視点なんです。

 だから、そんなことに振り回される必要はないと思います。

 もちろん、そういう話を聞くこと自体はとても重要だと思います。なので、話は聞いても話半分で、へーそんな可能性もあるんだって思っておけばいいと思います。

 大体、あくまで他人は他人であって誰にでも当てはまる考え方を持っている、そんなに立派な人間いないですから。

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