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恋と学問 第18夜、千年前の恋バナ。

光源氏17才。・・・

五月雨がうっとうしく降りしきる夜に、3人の友が集まってきた。

頭中将(とうのちゅうじょう)
左馬頭(さまのかみ)
藤式部丞(とうしきぶのじょう)

いずれも海千山千、まだ若いのに、幾多の恋愛を経験済みの色好み。彼らが集まって話すことと言えば、恋の話に決まっている。

話題はいつしか「理想の女とはどんな女か」に移り、ああでもない、こうでもないと、埒のあかないままに夜が明けた。・・・

これは、全54巻を数える大長編小説「源氏物語」の冒頭第2巻、「帚木」に登場する場面です。俗に「雨夜の品定め」と呼ばれています。理想の女とはどんな女かをめぐって、それぞれの経験を持ち寄って語り合うなかには、悲しみもあり、笑いもあり、憧れもあり、後悔もあり。多種多様な恋愛が提示され、検討され、査定されてゆく。その背後にはむろんのこと、作者・紫式部が控えていて、議論の行く末を見守っています。

本居宣長が「雨夜の品定め」に注目したのは、当然と言えば当然でした。ここには理想の女(あるいは理想の人間)についての、紫式部の見識が書き込まれている。そう考えるのが自然だからです。

今夜は宣長と共に「千年前の恋バナ」に耳を傾けて、作者の女性観と人間観を探ることにしましょう。


※  ※  ※  ※  ※  ※


その日は忌み日に当たり、公務がなかった光源氏は、ひと気のない皇居の片隅で時間をもて余していました。ちょうどよく義兄で友人の頭中将が訪ねてきたので、互いの退屈を紛らわすために雑談を始めます。

頭中将「女の、難の打ち所のない、これならばとおもわれるようなのはめったにいるものではないことが、ようようこの頃呑み込めて来ました」
(谷崎訳「源氏物語」1-56)

この発言が議論の発火点です。理想どおりの完璧な女性など居ないことが最近分かって来た、と。

光源氏「でも、いささかの才芸もない人というのがあるだろうか」(1-57)

頭中将「まさかそんな相手でしたら、誰も欺されて言い寄りはしますまい」(同)

とは言え、魅力が全くない人というのも居ないのであるから、比較してみなければならない、と言うのです。こうして「品定め」が開始されます。

頭中将「身分が高く生れたものは、大勢の召使にかしずかれて、具合よく隠されることも多く、自然様子がこの上もなくよく見えるでしょう。中の品になると、人によってさまざまに気だても違い、自分自分の特色というものを持っているところも見えますので、いろいろの点で優劣の区別のつくことが多いでしょう。一番下の品になれば、これは格別注意を払うほどのことでもないです」(1-58)

光源氏「その品というのはどういうこと、何に基づいて上中下の三つに分けるべきだろう。本来は高貴の家に生れながら、零落して世に埋れ、位も低く、人らしい扱いも受けないのと、普通の人間が上達部などにまで成り上って、自慢そうに邸の内を飾り立て、誰にも負けまいと思っているのと、どこに等差を設けるべきだろう」(同)

頭中将は議論の対象を「中の品」に限定します。上の品はお付きの人々が欠点を隠してしまうから、実際のところはよく分からない。下の品については特に考慮しないでよい。中の品こそ、それぞれの個性が際立っていて優劣を決めやすい、と言います。それに対して光源氏は、上中下の区別ということは、何を基準に分けているのかを問題にします。対象の定義を求めたのです。

会話がここまで進んだところで、左馬頭と藤式部丞が部屋に入って来ます。「仲が良い同級生4人組」くらいに想像すればよいでしょう。何やら面白い話をしているな?俺たちも混ぜてくれよ。絵に浮かびやすい場面です。

安田靫彦による挿絵。(1-68)

頭中将は光源氏の質問に答えて、零落した高貴な家の娘も、成り上がった家の娘も、中の品に入れてよいだろうと言います。そのほか、受領(地方行政官)や、官位が四位程度の貴族などが、中の品に該当すると言って対象の定義を明らかにします。

頭中将の「冒頭演説」が済んだと見るや、どうやら先輩面するくせがあるらしい、左馬頭の「独壇場」がしばらくつづきます。


▽その1/左馬頭と二人の女


左馬頭はまず、女性一般についての「総論」を述べます。いわく、いっときの恋ならば女の難点はそこまで気になるものではない、生涯の伴侶となるべき妻を選ぼうとする時にこそ、難点が問題になるのだ、思えば天下の政治を行う人を選ぶのも、たしかに困難ではあるけれども、政治は一人でするものではなく、この広い世の中から探しだせば必ず何人かの適材が見つかるものだ、妻は一人である、家のことを任せても安心で、しかも一人の女性としての魅力もそなえているような女を見つけることは大変むつかしい、と。

「総論」はまだ続きます。

左馬頭「いったい女の仕事の中で、何よりも大切な、夫の世話をするという方から見ると、もののあわれを知り過ぎていて、何かの折に歌などを詠む心得があり、風流の道に賢いというようなところは、なくてもよさそうに思えますけれども、そうかといって、実直一方に、髪の毛を耳に挟んでばかりいて、なりふりも構わない世話女房の、ただもう所帯の用事にかまけ切っていますのも、どういうものでしょうか。夫は朝夕の出入りにつけても、公私の人の振舞い、よい事悪い事となく見たり聞いたりしたことどもを、どうして気心の知れない者にしゃべりましょうぞ。やはり身近にいて、自分の話が分ってくれる人に聞いてもらおう、と思うにつけて、笑いも浮かべば涙も催すのです。あるいはまた、他人事ながら腹が立って、心一つに思い余ることがたくさんあったりする時、そんな具合では何を話しても無駄だと思うと、つい横を向いて、こっそり思い出し笑いが出たり、「ああ」と独り言が出たりしますが、ようようそれを聞きつけて「何事でございます」などと、間の抜けた様子で男の顔をのぞきこむ、といったような調子では全く情なくなります」(1-63)

この引用箇所を宣長は重く見て、詳しく解釈を加えていますが、今はただ議論を先に進めます。


(1)職人と画家と書家


家のことに掛かりきりの真面目な女(まめなる女)と、歌や琴のたしなみがあり女性としての魅力をそなえる女(あだなる女)の、どちらが妻にふさわしいか?これが、左馬頭が総論で設定した問題です。この問題意識は、実際にあった恋の経験によって芽生えたものでありますが、彼はそれをいったん次の例え話によって抽象化します。

木工職人が形式に囚われない自由な発想で作った作品は、目新しく面白い気がするものであるが、職人の腕が本当の意味で試されるのは、正式な形の調度品においてである。画家においてもまた、龍や鬼といった実在しない画題を描いた作品は人目を驚かしこそすれ、名人が描く山の常なる姿、川の流れや家々のありさまなどには遠く及ばない。文字を書くにしても、気取った書きぶりで長々と線を延ばしたりするのはお洒落ではあるけれども、やはり本式の書体で書かれたもののほうが勝っている。

女もおんなじだと、左馬頭は言いたいのです。「まして人の心の値打を定めますには、上っ面の愛嬌などを、頼りにしてはならないと思います。ついては、これは私の昔話で、少し色っぽいようですけれども、まあ聞いていただきましょう」(1-72)

こうして、ようやく、左馬頭自身のコイバナが始まります。


(2)指喰い女


決して美人ではないものの、男の世話をよくする真面目な女がいました。左馬頭はそれなりに大切に想っていたのですが、この女の非常に嫉妬深いことには、どうにも我慢が出来ませんでした。

ある時、ついに言い争いになります。お前の嫉妬ぐせには付き合いきれない。私はいずれ出世するだろう。そのあかつきにはお前を妻にしようとも考えている。しかしお前のその悪癖が治らない限りは無理だ。治す気がないなら別れてくれ。・・・女も負けていません。あなたのあてにならない出世のことなど、私にとってはどうでもよいことです。私はあなたの浮気癖を治してほしいだけ。あとのことは何も望みません。治す気がないのなら今が別れ時でしょう。予期せぬ女の反撃にあって気が動転してしまい、左馬頭はさらに悪態をつきます。すると女は「この分からず屋!」とばかりに彼の指に噛みついて追い出しました。これが「指喰い女」の名の由来です。

それからしばらくは、この女の家に寄りつきませんでした。・・・なあに、世の中に女はごまんといるさ。あとで述べる「木枯らしの女」とも、すでに深い仲だったのでそこを頼って、左馬頭は「指喰い女」のことを忘れようと努めます。時が経ち11月下旬の午の日、賀茂の臨時祭のために催された奏楽のリハーサルがあった夜のこと、夜が更けていざ帰ろうとすると、ひどくみぞれが降ってきて帰れない。ふと「指喰い女」の家が近かったことを思い出して、気まずくはあるけれど昔のヨリを戻す機会にもなろうかと、淡い期待を胸に訪ねることにしました。

女は不在でした。折悪しく実家に帰っているのだと、お抱えの女房たちが言います。がっかりした左馬頭ですが、ふと、服が畳まれてあるのを見つけます。それは明らかに彼のために用意された、彼好みの色に染め上げられた服でした。いつでも帰れるように。左馬頭は感動を覚えて、再び文通を始めます。

しかし、女の言い分は変わりませんでした。以前のような浮気な心を改めないのなら会いたくありません、と。ここで反省して女の言うとおりに身を正せばよい所を、左馬頭は強情を張って遊び歩きをやめませんでした。結局、双方の溝は埋まらないままに、女は嘆きの内に亡くなってしまいます。


(3)木枯らしの女


たいていの場合、人が改心するのは手遅れになってからです。「指喰い女」のことは深く悔やまれましたが、亡くなってしまったものはどうすることも出来ないので、今度は「木枯らしの女」に熱を入れます。

この女は「指喰い女」とは対照的に、歌や書のたしなみがあり、顔や姿も悪くなく、女性としての魅力については申し分のない女でした。しかし、どうも派手で色っぽすぎて、遊び相手にはよいが信頼する気になれない雰囲気がありました。

なかば予想されていた事件が起きます。10月の満月の晩に、公務を終えて帰宅しようとしていると、友人の帰りとたまたま重なったので、左馬頭は「私の車で一緒に帰ろうか」と誘って、相乗りすることにしました。道中、友人が急にそわそわし始めて、「気にかかる家がある。ここいらで降ろしてくれ」と言うのですが、その場所がちょうどあの女の家の近所だったので、悪い予感を抱きながら、左馬頭も車を降りて友人のあとをついて行きました。

案の定、あの女の家に吸い込まれて行ったので苦々しく思っていると、友人が吹く笛の音色が聞こえてきます。それに合わせる琴の音色も聞こえてきます。これはきっと女の手だなと思うと、悔しいやら情けないやら。

琴のねも/月もえならぬ/宿ながら/つれなき人を/引きやとめける

琴の音と言い、月と言い、えも言われぬ趣のある宿ではあるが、情のない男を引き留め得たであろうか(1-80)

男(友人)が自画自賛した歌です。私が情のある男だと貴女も認めているから、こうして引き留めたのでしょうね?さらにつづけて、「私のためにもう1曲弾いてくださいませんか?」と男がせがむと、女も歌で返します。

木枯に/吹きあはすめる/笛の音を/ひきとどむべき/ことのはぞなき

木枯が吹き合わすようなあなたのはげしい笛の音を、私の琴ぐらいでは引き留めようがありません(1-81)

この歌が「木枯らしの女」の名の由来です。左馬頭は、二人のいちゃつく様子を腹立たしく聞きながら、やはりこうした女は妻にするに値しないとつくづく思い知って、これを機に二度と女の家に寄りつきませんでした。

さて、以上が左馬頭の恋バナです。これをもって、左馬頭はどんな「結論」を導くのでしょうか?

左馬頭「さればあなた方も、今のうちはお心のままに、折ればこぼれ落ちそうな萩の露、拾えば消えてしまいそうな玉笹の上の霰(あられ)といったような、あだっぽくて、か弱くて、すきずきしいお方ばかりを、興あるものにお思いになるでございましょうが、今に七年あまりもたちましたら、お分りになりましょう。どうぞ私の賤しい諌めをお用い下すって、蓮っ葉な、靡きやすい女には御用心なされませ。きっと間違いを仕出かしまして、男のために芳しからぬ評判を立てるものでございます」(1-82)

「あだなる女」には気を付けよ。かんたんに言えばそれだけのことですが、ならば「まめなる女」をよしとするのだな、と早合点してはなりません。左馬頭が同じ口から、冒頭の「総論」で言っていたことを思い合わす必要があります。世話を焼くばかりの実直一方で、こちらの喜怒哀楽に共鳴できない「まめなる女」を、生涯を共にする妻に選ぶのは残念でならない、と。


▽その2/頭中将と常夏の女


次は私の番だと、名のりをあげたのは頭中将です。彼は左馬頭のように長ったらしい前置きなどせずに、すぐさま恋バナを語りだします。ちなみに、「雨夜の品定め」では「常夏の女」と呼ばれているこの女は、のちに光源氏の恋人となる「夕顔」と同一人物です。頭中将の恋人になってからしばらくして行方不明になっていたのを、ふとしたきっかけで光源氏が見つけて、「常夏の女」とは知らずに恋人としたわけです。

頭中将が女と逢い初めた頃、すでに彼は右大臣の四女を本妻としていました。ということは、人目を忍んで逢わなければならず、頻繁に訪れるわけにも行かず、途絶えがちとなりながら、時々は顔を見せるといった関係にならざるを得ませんでした。

女はそれを恨む素振りを見せず、気丈にふるまってはいるものの、時おり物思いにふけると涙がこぼれそうになり、慌てて顔をそむけるような女でした。頭中将はそんな女をいとしく思い、ついに玉のように美しい赤ん坊まで生まれます。のちの玉鬘です。

女の、気立ての優しい、自己を主張しない人柄に安心して、久しく顔を見せなかった時期がありました。そんなある日、撫子(なでしこ)の花と共に手紙が届きます。読むと、女の歌がしたためてあります。

山がつの/垣ほ荒るとも/をりをりに/あはれはかけよ/撫子の露

山里のようにみすぼらしい、我が家の垣は荒れようとも構いませぬが、折に触れて哀れに思ってください、撫子のはかない命のことは(拙訳)

手紙を受けて、さすがに反省した頭中将は、本妻の目を盗んで会いに行きます。久しぶりの訪問だというのに、女は相変わらず非難する態度も見せず、いつもどおりの対応で迎え入れてくれました。

咲き交る/花はいずれと/わかねども/なほとこなつに/しくものぞなき

いろいろの花が咲いているがやはりあなたに及ぶものはない(1-84)

頭中将の歌です。常夏の花は撫子の別名になります。女の手紙にあった歌の「撫子」は、二人の子供を意味していましたが、それを常夏の花と言い換えることで女の意味に変えて、そのうえで「常夏の花の美しさにまさるものはない」と、愛の歌を詠んだのです。なかなか巧みな歌です。

しかし、こうした不定期の逢瀬にも終わりがやって来ます。女が子供と共に姿をくらましてしまったのです。許されない恋、いつか終わる恋と、前もって承知しながら、その日が来ればやはり、こみ上げてくる悔恨の念に、胸が締めつけられる思いがするのは、人間のさだめです。

頭中将「こんなのがほんとうに、たよりにならない、添い遂げられない仲というものです。されば、さっきの口やかましい女(注:指喰い女のこと)なんかも、思い出としては忘れられないでしょうけれども、面と向えば小うるさくって、悪くすると嫌気がさすこともあるでしょう。琴の上手な才女(注:木枯らしの女のこと)にしても、浮気なところが許しがたいでしょう。今の女のようにやきもちを焼かな過ぎるのも、疑念を抱かせることがあるので、結局どれが一番よいとも定めにくいのが世の中です」(1-85)

やきもちを焼かな過ぎるのも問題だ。・・・この頭中将の言葉を思想的に翻訳すると、こうなります。常夏の女のことは心から愛していたが、彼女には一つの重大な欠点があったことを今にして思う。彼女は私との恋によって、一人では抱えきれないほどの「物の哀れ」(運命の味わい)を知っていたはずなのに、それを誰かに打ち明けることをしなかった。物の哀れを表現することをしなかった。この恋が破綻したのは、その結果なのだ、と。

頭中将はそのように総括し、左馬頭の恋バナも巻き込んで、「結局のところ理想の女性など決められぬ。それが世の中ってもんじゃないか」と、重たい結論を導くのでした。


▽その3/藤式部丞とニンニク才女


さっきから黙っているが、お前は何か無いのかと迫られて、藤式部丞が語ったのは、学者の娘との滑稽な交渉です。

賢い女と付き合うのがどういうものか、あの一件でよく分かりました。そう前置きしてから語りだします。大学生だった時分、習っていた博士に娘が大勢あるのを知って、興味本位で言い寄ったのが事の始まりでした。博士は二人の仲を聞き付け、二人の前途を祝って堅苦しい漢詩を贈り、藤式部丞は女を本妻にする気がなかったので、恐縮してしまいます。

女との関係は奇妙なものでした。夜の語らいにも、学問やら役人の心得やら漢詩文の作り方やらを教えてもらい、恋人というよりは師匠との関係に近いのでした。今になって振り返れば、あの時に授けてくれた知識があちこちで役立っているので感謝するものの、当時はたびたび無学をさらして居心地の悪い思いをすることが多く、それが嫌になって自然と足が遠のいて行きました。

長らく会わずにいましたが、ある日のこと、何かのついでに立ち寄ってみたところ、以前のように居間に通してくれず、几帳越しに対面させられたので、さては拗ねてしまったのだなと見当をつけて、ならばちょうどよい機会だ、このまま別れてしまおうと思います。すると、女から意外な言葉を聞きます。

この頃感冒の重いのに堪えかねて、極熱の草薬(注:ニンニクのこと)を服用しましたので、非常に臭うございますから、対面はよういたしません。直接でなくても、しかるべき御用があったらここで承りましょう(1-88)

このように言われてしまったら、「そうですか分かりました」と答えるほかはありません。話もそこそこに切り上げて帰ろうとすると、女は寂しく思ったのか、「この臭いが抜けた時分にお越しになって下さい」(同)とすがるような声で言うのですが、じきに猛烈な悪臭が漂ってきて鼻を刺激し始めたので、「こりゃたまらん」とばかりに、即席の歌を言い捨てて退散しようとします。

ささがにの/振舞ひしるき/夕暮れに/ひるますぐせと/いふがあやなさ

私が今日夕暮に訪ねて来そうだということは蜘蛛の振舞いを見ても知れているはずだのに、昼間(注:ニンニクの古名がヒルなので、昼間とヒルマ、ヒルの臭いが抜けるまでのマを掛けた)を過ぎてからおいでと言うのは分らぬ話です(1-89)

逃げようとする藤式部丞を女房に追いかけさせて、女が即興の歌を投げつけます。

あふことの/夜をしへだてぬ/中ならば/ひるまも何か/まばゆからまし

夜毎に逢うているほどの睦まじい仲であるならば、昼間(またはヒルが臭っているマに)逢っても何の恥かしいことがありましょう(同)

藤式部丞は語り終えて、光源氏を始めとする聴衆に向かって、「これほど見事な歌を即座に返すなんて、さすが才女ではありませんか」と締めくくりました。みんな大笑いして、「嘘をつけ」「そんな女がいるものか」「まじめに聞いて損をした」などと口々に言います。

冗談に流れかけた話を引き取って、例の先輩面で左馬頭が次のようにまとめます。

左馬頭「すべて男でも女でも、下司な人間ほど、自分の持っている僅かな知識を残らず外へ見せ尽くそうとしますのは、可哀そうな気がいたします・・・女だからと言って、世間普通の公事や私事について、全く知る所がなくてよいとは申せません・・・すべて、心に知っていることでも、知らず顔にもてなし、言いたいと思うことでも、一つ二つは言わないでおく、という風でありとうございます」(1-89)

頭中将の「常夏の女」は自己を表現しない人で、そのために添い遂げることが出来ませんでしたが、自己を表現するとは何も、この「ニンニク才女」のように、持っている知識をことごとく見せて賢ぶることではないのです。作者の紫式部はこの箇所で、左馬頭の口を借りて、知識をひけらかすことは、「物の哀れを表現する」こととは対極にある、野暮で無粋なふるまいであることに注意するように、読者に求めているのです。


▽その4/光源氏と藤壺


さて、光源氏は3人の議論を面白がって聞いているだけで、みずから発言しませんでした。なぜ光源氏は自身の恋を語らなかったのか?語れなかったからです。この時、彼が想いをかけていたのは藤壺です。天皇である父の後妻であり、皇后でした。光源氏から見れば継母にあたります。これほど難儀な恋を、親しい友人を前にした恋バナの席で披露するわけがありません。

光源氏「ほんとうに、あのお方は今の話の通りで、これに足らないことも、また過ぎたこともなくていらっしゃることよ」(1-91)

心の中でつぶやいたセリフです。三人の友がさまざまに、過去に関係があった女の難点やら、理想の女性像やらを語るのに耳を傾けながら、光源氏は藤壺という己が恋する女が、いかに完璧な女かを思い知り、そのことでますます胸が塞がるのでした。藤壺との関係は絶対に許されない関係だからです。

話はそれからそれへとつづいて、いずれの方面で結末がついたということもなく、とうとうわけの分らない雑談に落ちて行きまして、夜を明かしておしまいになりました(1-92)

こうして長い夜が明け、「雨夜の品定め」が終わります。


※  ※  ※  ※  ※  ※


さて、今夜は会話の全体を整理しただけで結構な紙数を費やしてしまったので、宣長の解釈については次回に持ち越すことにします。

それにしても、いかがだったでしょうか?ここに描かれているのは、千年前の平安朝貴族たちが、たまたま公務がお休みになったために、思い思いの恋バナをして夜を明かした姿ですが、現代を生きる私たちと、さほど変わったものではないと感じられたのではないでしょうか?むろん異なるところもあります。世間の価値観や、男女の置かれた社会的条件などがそうです。恋バナの今昔を比べてみると、いろいろと面白い気づきがありそうです。

恋はいつの世も、思春期の男女の最大の悩みでした。そして、答えがない。答えがないということは、理想の異性について、人はいつまでも考えつづけなければならない。思春期を過ぎてからも、です。視点を変えれば、生涯をかけて考えつづけなければならないことだからこそ、学問の対象にあたいする。宣長という人は、「恋は学問にあたいする」ことを発見して宣言した、この時代ではきわめて異例な学者でした。


思いのほか長くなりました。

それでは今夜はこのへんで。

おやすみなさい。




【以下、蛇足】




今回は、源氏物語の第2巻「帚木」に登場する女性論、いわゆる「雨夜の品定め」を、全体を整理したうえで通覧する試みでした。

通覧するだけでも大変な分量となってしまったので、これについての宣長の解釈は次回にまわします。宣長の「もののあわれ論」の斬新さが光る解釈を含みますので、次回もお楽しみに。


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