宇治十帖のゆかりを歩く 2023/1/1(後編)一乗寺
石山駅から琵琶湖線で京都駅、歩いて七条駅、京阪電車に乗って出町柳駅、叡山電鉄に乗り換えて一乗寺駅。
ここに降り立つ日がまた来るとは、旅を計画する直前まで思いもよらなかった。10年前、大学生の頃に、ラーメンを食ってカラオケという、何とも若者らしい遊びのために訪れたことを思い出す。久しぶりに寄ってみよう。
ラーメン屋は今も盛況だったが、カラオケ店の方は閉店の知らせが店前に貼られていた。それが時代の流れならば仕方あるまい。
源氏物語の最後の舞台が一乗寺だったことは、恥ずかしながら最近になって知った。本文で「京都の北郊」にある「比叡坂本の小野の里」と述べられているから、比叡山の西側(京都側)のどこかであることは分かっていても、小野の里が具体的に現在の何という町に当たるかを、気にしたこともなかった。
この旅は「宇治十帖のゆかりを歩く」のが目的であるから、事前に調べてみると、本当に便利な時代になったもので、インターネットに次の記事が転がっていた。
わずか8頁に満たない論文をかんたんにまとめると、次のようになる。
論文の言う通りに一乗寺下り松へ。なるほど。たしかに、ここを起点に坂が急になっている。平安時代、比叡山の登り口だったというのも納得だ。横川僧都(よかわのそうず)の妹尼は、ここに住んでいたのだ。・・・浮舟も。宇治十帖の閉幕、源氏物語の終焉の地は、こんなにも、寂しいところだったのだ。
あらすじを確認しておこう。宇治の時の続きから、最終巻まで。(第52帖「蜻蛉」、第53帖「手習」、第54帖「夢浮橋」)
【宇治十帖あらすじ】
8.新しい恋
浮舟自殺の知らせは、薫と匂宮に衝撃を与えたが、いつまでも悲しんでいられない。薫は彼の妻である女二宮の姉、女一宮に恋をする。成就しない恋の代償に、女一宮の女房である小宰相の君を愛人にする。大い君の身代りに浮舟を愛したように。
宇治では、外聞を気にして自殺であることを隠し、空の棺を焼いて体裁を繕った。それを薫は事後に知って、葬儀を簡略に済ませたことについて、浮舟の女房たちを責めた。四十九日の法要は薫の指揮のもとで盛大に執り行われ、常陸守(浮舟の義父)はこの時はじめて、義理の娘がどんなに高貴な人に愛されたかを知った。彼の息子である小君を召し使ってやって欲しいとの依頼を、薫は快く引き受けて侍者にした。
9.横川僧都、浮舟を助ける
源氏物語という交響曲は、終盤に至って大胆に転調する。横川僧都という、全く新しい人物の登場が、思いがけない方向へと読者を連れて行く。
当代随一の高僧と言われた横川僧都は、80になる老母と50になる妹と共に、比叡山の西坂本にある小野の里で暮らしていた。修行のため、比叡山の奥深くにある横川の僧院に籠りがちだったが、家族のことを常に思いやり、物心両面で支えていた。
ある時、母と妹が長谷詣りをした。その帰り道、母が著しく体調を崩す。横川にいた僧都は知らせを受けて、即座に宇治在住の知人に頼んで、彼の家に母を休ませるよう妹に命じた。
体調が悪化の一途をたどる。折悪しく、その知人は御嶽詣りを近く予定しており、参詣の直前は穢れを忌むことから、ここで死なれては困ると言われる前に、場所を移すことにした。移した先は宇治院と言って、かつて朱雀天皇(光源氏の兄)の別荘だった建物だが、今は使う者がなかった。
僧都と弟子たちが合流する。主人亡きあとの邸宅は、どこか薄気味悪い感じがしたので、僧都は弟子に命じて見廻りをさせた。すると、寝殿の奥、森のようになった木立の間に、月明かりに照らされて、白い装束を身にまとった女が倒れている。弟子たちは物の怪を疑って声をかけたが返事がない。師を呼んで対応を求めた。僧都は静かに告げる。
10.妹尼の世話焼き
女は手厚い看護を受けながら、幾日も言葉を発しなかった。ようやく口にした最初の言葉が、「この世に用はありませんから、夜になったら川に投げ込んでください」だったので、相当の事情があることだけは分かった。放っておくわけにもゆかず、母の体調が回復するのを待って、母もろとも女を小野の里に引き取ることにした。
僧都の妹も出家して尼だったが、これは夫に先立たれ、唯一の生きがいだった娘も、結婚してまもなく死んでしまったことから、世の無常を悟ったのである。この妹尼は、女を見るなり、その美しさに驚くと同時に、亡き娘の身代りを見出だした。何とかして女を正気に戻し、あわよくば娘の婿だった中将と結ばせることで、夢の続きを見ようと願った。
女は妹尼の計らいを迷惑に思う。私はあの時に死ぬべきだったのだ。こうして不本意にも生き延びてしまったけれど、もう二度と恋などするものか、と。
11.出家とその後
ある時、宮中で女一宮が重病を患った。ぜひ高名な僧の祈祷を、ということで、僧都が指名されて山を降りる。折しも、母と妹尼が長谷詣りに出掛けて留守にしていた時だった。知らずに立ち寄ると、女に出家のことを強くせがまれて、ついに髪を切り落としてしまう。
宮中では幾日か祈祷を施すと、女一宮の体調が回復したので、そろそろお暇を願おうとすると、女一宮の母・明石中宮が引き留めるので、僧都は話し相手になる。雑談の一つとして軽い気持ちで、先だって出家させた珍しい女がいる、宇治川のほとりに倒れていたのを拾ったのだが、一向に事情を明かそうとしない、と僧都が話す。聞いているうちに、明石中宮はその女が浮舟である確信を深めてゆく。
明石中宮は、息子の匂宮の想い人であり、異母弟(ということになっているが、実際は光源氏の実子ではない不義の子)の薫の想い人でもある浮舟のことを、二人に話すべきかどうか悩む。結局、薫の愛人である小宰相の君を呼んで、寝物語にさりげなく伝えてくれないかと頼んだ。
薫は浮舟生存の情報を、信じるに足りるものかどうか、判断がつきかねた。こうなれば直接に確かめるまでだ。浮舟の異父弟・小君に命じて、旅の支度をさせた。
12.恋の道を説く法師
薫は持ち前の慎重さで、「薬師仏の寄進」という大義名分を設けて、比叡山は横川中堂の僧都を訪ねた。あくまでもそのついで、という感じで浮舟のことを話し出す。僧都ははじめて知った女の来歴に驚き、薫の想いの深さに感心する。はたして、出家させたことは正しかったのだろうか?
僧都は浮舟に手紙を送る。いわく、仏も説いておられるように、一日の出家は無量の功徳である。今あなたが為すべきは、薫に会って愛執を晴らすことではないだろうか?
浮舟は僧都の無理解を何とも思わない。自身の心情が他人に理解されないのは、今に始まったことではないからだ。それよりも、やっかいなのは己自身の心である。薫の名前を聞いた時に、否応なしに胸に込み上げて来た懐かしさである。嗚呼、私は私の心を捨て去るために出家したのだ。心よ、余計なことをしてくれるな。
13.小野の里、無限の余韻
薫は小君を使者にして、小野の里に向かわせる。いきなり自分が行かないのは、相変わらずの性格である。他方で、小君にも心はある。向かう途中、義理の姉に可愛がってもらった少年時代を思い出して涙する。
小野の里に着き、庵の前に立つ。御免ください。わたくしは、ここに住む女の方の弟でございます。しばらく行方知れずになっておりましたが、近ごろ人づてに、ここに住んでおられることを知りました。懐かしく、お目にかかりたくて、こうして参った次第です。また、大将の君(薫)の手紙を預かっておりますので、それもお渡ししたく、重ねてお願い申し上げます。
浮舟は、几帳越しに聞こえてくる小君の声に、心が揺れ動きそうになるのを、なかなか静められずに苦労する。取次の者に返答を求められても、平静を装って、「人違いではないでしょうか、と言っておやり」と、告げるのが精一杯だった。
ところ変わって京都では、薫が小君の歯切れが悪い報告を聞きながら、「私が昔そうしたように、誰か男が浮舟を匿っているのではないか」と勘ぐっていた。
・・・過去の恋に殉ずるために、恋する心を自らに禁ずる浮舟の心は、誰からも理解されることがない。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
さて、宇治十帖のあらすじは以上である。無限の余韻が読者にもたらされ、いかようにも続けられそうな気もする一方で、紫式部の恋の探求の終点にふさわしく、これより先に進められそうにない感じもある。
舞台になった一乗寺の景色が、この実感をさらに強める。物語中で浮舟本人が独白しているように、激しい宇治川とは対照的に穏やかな小川が流れているのは確かだが、およそ「詩情」とは縁がない雰囲気を漂わせている。
宇治十帖の結末で、紫式部は恋を否定したのではない。恋の行き止まり、終点を描いたのである。そして、それにふさわしい風景を、一乗寺に定めたのである。・・・と、断定口調で結論めいたことを言ってしまうと、次のような反論が聞こえてきそうだ。作者による一乗寺の地の選定は、横川僧都と妹尼の住み処であることが最大の理由であり、「詩情」うんぬんは主観的な再解釈にすぎない、と。
そうかもしれない。横川僧都のモデルが「往生要集」(985年成立)作者の源信(942-1017)であり、妹尼のモデルが安養尼(953-1034)であるという伝統的な解釈は、きっと正しいのだろう。しかし、確信をもって言えるし、何よりも重要なことだと思えるのは、そのことが何を意味するのかについて、納得の行く説明を聞いたことがない、ということだ。源氏物語にとって、横川僧都の存在とは何か?源信の浄土思想が源氏物語の思想だとする「定説」は、論外である。
私は旅の最終日になる明日(1月2日)の予定を空白にしていた。宇治十帖の主要な舞台である宇治と一乗寺を見たのだし、あとは適当に市内を歩いて帰ろうと思っていたが、今や、そういうわけには行かなくなった。横川僧都の問題を考えるのに、横川に行くことは必須のように思えて来たからだ。
梅田駅に近いビジネスホテルが今晩の宿である。歩き疲れた足を引きずって、ベッドに倒れるように横たわった瞬間、意識が身体から剥離する音が聞こえた。