「菖蒲の節供」とも呼ばれる「端午の節供」の由来とは?【歴史にみる年中行事の過ごし方】
「端午の節供」とは旧暦5月5日のことで、江戸時代に「五節供」の1つとして幕府の式日に定められ、武家を中心に男児の立身出世を願う行事として定着する。
「五節供」は明治5年(1872)12月の「明治の改暦」に伴い廃止されたものの、それぞれ旧暦の日付をそのまま新暦に引き継いで民間行事として残った。現在5月5日は「こどもの日」とされ、子供の成長を祝う日として親しまれている。
「菖蒲の節供」とも呼ばれた「端午」の行事から、その歴史を振り返りたい。
午の月の初めの午の日
「端午」の「端」は「初め」という意味で、「端午」とは本来「月の初めの午の日」を指した。
古来、中国では冬至を含む月(11月)を1年の起点(正月)とし、この月を十二支の最初である「子の月」と定めたため、5月は「午の月」にあたった。やがて「午」の音が数字の「五」に通じることや、陽数の重なりを重んじたことなどから「午の月の初めの午の日」=「端午」といえば5月5日を指すようになる。
中国では5月は悪月とされ、民間最古の年中行事記『荊楚歳時記』には、5日は菖蒲や蓬など薬草を摘み、菖蒲酒を飲んだり、蓬で作った人形を門にかけるなどして邪気や厄災を祓ったとある。
ちなみに「端午」に粽(真菰の葉で米を包み灰汁で煮たもの)を作る由来として、この日、楚の屈原が汨羅の水中に投身自殺したことを悲しみ、民衆たちが粽を水中に投げ入れて弔ったという起源譚が伝わるが、さきの『荊楚歳時記』には「夏至節食糉」(夏至には粽を食う)とあるから、もともと粽は夏至の行事食で、時代が下って「端午」にも食べるようになったのだろう。
節は五月にしく月はなし
これらの風習が日本に伝わったのは飛鳥・奈良時代のこと。『続日本紀』などが菖蒲や蓬など香りの強い植物に魔除けの力があることを認め、これらを身につけたり、軒端に挿したと残していた。
また、粽は平安時代中期の辞書『倭名類聚抄』に登場し、5月5日に食すと書かれている。
さらに、平安時代を代表する作家・清少納言の『枕草子』には「節は五月にしく月はなし、菖蒲・蓬などの薫りあひたる、いみじうをかし」とあった。
この日、宮廷では「端午」の節会が催され、邪気や厄災を祓うために、天皇、群臣ともに菖蒲鬘を冠に飾り、菖蒲や蓬などの薬草で作った薬玉を柱に掛けるなどしたという。
時代が下ると、菖蒲酒、菖蒲湯、菖蒲枕など、菖蒲に関する風習が広い階層で見られるようになり、江戸時代には農村社会でも定着する。
旧暦5月は田植えの時季にあたり、稲作を田に植える女性が家に籠って五穀豊穣を祈願する行事があった。
江戸中期の浄瑠璃作者・近松門左衛門の『女殺油地獄』には「三界に家ない女ながら、五月五日の一夜を女の家と言うぞかし」とあり、4日の夜、または5日の夜を「女の家」「女の夜」などといい、女性が上座に座り、菖蒲酒を飲むなど自由に振る舞える地域があったという。
宮廷行事から武家の行事へ
鎌倉時代から室町時代にかけて、しだいに宮廷における「端午」の節会は廃れていった。
代わって、菖蒲の葉が剣状になっていること、菖蒲の音が「尚武」(武を尊ぶ)に通じることなどから、武家のあいだでこの日を重んじる気風が生まれ、男児の立身出世や武運長久を祈る行事として形づくられていく。
そして江戸時代、「端午」は幕府の重要な式日「端午の節供」となり、大名や旗本は染帷子の式服で江戸城へ登城し、武家の棟梁たる征夷大将軍にお祝いを奉じた。
この日、武家では屋外(門外)に菖蒲兜を飾り、虫干しを兼ねて旗差物や幟などを立て並べ、屋内(座敷)には先祖伝来の武具などを飾った。
やがてこれらの風習が町人層へと広まり、彼らは「内幟」「座敷幟」と呼ばれる小ぶりの幟を屋内外に立てるようになる。
また、「端午」の行事食として粽も伝えられたようだが、どちらかといえば江戸では柏餅が主流で、幕末の江戸の風俗を記した『絵本江戸風俗往来』には「市中皆柏餅を食う」と記されていた。
この柏餅を食べる風習は江戸中期以降とされ、柏の葉は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから、跡継ぎが絶えない「子孫繁栄」の象徴として重宝されたという。
「こどもの日」は「母に感謝する日」
さて、「こどもの日」といえば「鯉幟」である。
この「鯉幟」の起源を江戸時代中期の町人層に求める記述を見かけるが、実ははっきりしたことはわかっていない。
ただ、江戸後期、天保年間(1830~1844)に出版された『東都歳時記』には「紙にて鯉の形をつくり、竹の先につけて、幟と共に立る事、是も近世のならはし也。出世の魚といへる諺により、男児を祝するの意なるべし。たゞし東都の風俗なりといへり。初生の男子ある家には、初の節句とて別て祝ふ」とあった。
どうやら「鯉幟」は江戸で生まれ、遅くとも江戸後期には男児の立身出世を願って掲げられていたようだ。
その後、明治6年(1873)の太陽暦の採用により、暦が約1ヵ月早くなったことで季節のズレが生じ、「端午の節供」における菖蒲や蓬にまつわる風習は後退していく。
その一方で、「鯉幟」は明治の頃まで真鯉(黒い鯉)だけだったものが、しだいに真鯉と緋鯉(赤い鯉)の2匹を対で掲げるようになり、昭和30年代には家族をイメージした子鯉(青い鯉)がつくなど時代とともに進化した。
ちなみに2匹を対で掲げていた頃、真鯉は父親、緋鯉は男児と定義されていたが、家族観の変化とともに緋鯉は母親、青鯉が子供と再定義された。
余談ながら、戦後、昭和23年(1948)に制定された「こどもの日」が、男女を問わず「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」という趣旨であることはあまり知られていない。(了)
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国立国会図書館デジタルコレクション
【主な参考文献】
・新谷尚紀著『日本人の春夏秋冬』(小学館)
・吉海直人著『古典歳時記』(KADOKAWA)
・河合敦監修『図解・江戸の四季と暮らし』(学習研究社)
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