村田沙耶香「コンビニ人間」「地球星人」、ドストエフスキー「地下室の手記」 感想文
少し前に村田沙耶香さんの「地球星人」と「コンビニ人間」を読んで、両者のあまりの素晴らしさに感動した。最初に地球星人を読み、次にコンビニ人間を読んだのだけども、地球星人を最初に読んだ時とコンビニ人間を読んでから対比した時に大きく印象が変わった。その両方を対比すると、ドストエフスキーの「地下室の手記」で最後のところで語っていた人間らしく生きるとはということについてと同じテーマではあるが、人間の本性が本質的に抱える矛盾を村田沙耶香さんは描いていて、その点においてこの二作はセットでドストエフスキーの地下室の手記が到達できなかったところを描いている。
今回はその点について書いてみようと思う。
若干のネタバレを含むので、ネタバレなしで小説を読みたい方は小説を読んでから読んでいただけると幸いです。
地球星人
最初に地球星人を読んだ時は、主人公の社会の常識との折り合いの悪さからくる疎外感についてだと思った。これは地下室の手記のテーマである。皆が当たり前に生殖するために生きてその役割のために何の疑問も持たずに、プログラムにそってただ社会の機能としての自分を全うするということに対して、個別の意思を持った人間性の欠如だへの精神的な戦いであった。
序盤は主人公の少女時代の淡い恋物語なのだけど、生殖という機能(目的、常識への迎合)を否定しつつも、想いを寄せる作中の人物との関係と心の繋がりの、それそのものを目的とする関係の存在の尊さ(つまりはカントの言うところの善や有用さではなく美である)を見事に描けている。そこには俗っぽい承認欲求に基づき相手を自分の性的欲求に利用することなく、その存在そのものと、そしてその存在と自分との関係を愛することを純粋に描けている作品は他にないのではないか。
(ここでいう性的欲求は性行為だけではなく、相手の注意を自分に惹きつけ承認されることの満足感や感情の高揚などに伴う快感を得るという意味も含む)
最初にこの少女時代の章を読んだ時、この恋愛のもつ美とドストエフスキー的な個別の人間の精神の美の融合としての凄さに感動したのだけども、その後大人になった後の章に対して少し疑問をもった。
その後大人になり変わらずこの生殖に対する違和感を抱えたまま、色々な歯車が狂い始め、事件がおこり最後には人間工場としての社会(つまりは個別性を否定した人間一般であることを要求する力)に反発し、それまでの美しい生き方、個別存在としての生き方を貫いて社会個別性を捨てた人間であることを拒絶した結果、破滅してしまう。この終わり方が不満だった。
また、作中において作者はドストエフスキーとは真逆の人間感の価値観を持っていることがわかる。ドストエフスキーは個別性を放棄した常識的な大衆よりも、それを拒絶し社会と馴染めず惨めにいる方が個別の人格を持っていて人間らしいと言った。しかしこの作品ではむしろ個別性を捨てた常識の方が人間で、それに馴染めない自分の個別性を持った人格は地球星人であり人間ではないという。
最後まで常識側の価値観で描いていくことに、文学や芸術とはそういうものではないだろうという不満を抱いた。
コンビニ人間
こういう疑問を抱いたまま、しかし地球星人は感動的だったのでその後すぐにコンビニ人間を購入し読んだ。
コンビニ人間でも同じような人間工場に対する違和感を抱えた女性が主人公で、人間である前にコンビニ店員であることを自分のアイデンティティとする主人公が淡々とコンビニ店員としての日々を描き、ある事件が起きて常識と個別の自分との間の葛藤がおこる。しかし、結末は地球星人と違いコンビニ人間としての居場所に帰っていくハッピーエンドだった。
この両作品とも個別性を捨てた常識としての人間らしく生きることを拒絶したのだが、地球星人は破滅し、コンビニ人間は居場所を取り戻した。この結末の差異は何だったんだろうと考えた時、この二つの作品の凄さに気づいた。
地球星人とコンビニ人間の比較
・私は人間らしさについてはドストエフスキーの考え方を支持しているので、この段落では人間らしさという言葉を「常識に疑問を持ち、それに対立して個別で独自の考え方と意思を持っている人」(非常識な人)という意味で使う。
地球星人は社会を完全に拒絶した。社会を拒絶したが、人間として生きることができなかった。人間をやめると生きていけないという結末である。
コンビニ人間は常識から外れはするが、それでもその自分が選んだ生き方というのは社会の中で相対的に規定されたものであり、居場所を社会に見出して生きている(ある意味工場の一部)。これはドストエフスキーのいうところの人間の概念に社会性の考え方を加えている。
社会の規範から精神的に自由であることが「人間らしさ」であるのに、「人間らしく」あるということは本質的に規範の中に相対的に見出されるものである。社会がなければ個別性だの一般だのということは定義できないのだ。
つまり人間らしさとは本質的に社会の規範からの逸脱であるが、しかしその逸脱が社会規範の中に規定されているという矛盾を含んでいる。
ここではヘーゲルの弁証法的な(一般的に誤解されているような、命題とその反対の命題の対立から上位概念へと行くというようなものではない)ある対象が本質的に備えている矛盾した概念を人間の中に見出している。
ドストエフスキーの「地下室の手記は」人間らしさとはこうであるという論理構造で人間らしさを恐ろしいほどの深さでもって感動的に描いているが、コンビニ人間と地球星人はセットになることで、このドストエフスキーのいう人間らしさが本質的に抱える矛盾とその社会の関係を描いていて、より人間を深く描けている。
この凄さにただ圧倒された。