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残念ですが国語には道徳教育の振りかざし、しか残っていません。そんなもんでしかないから識字率は高くても文盲、なんて事態が普通に起こるの。所詮文盲庁なんて花見気分とウイルスで出来ているんだからせめてコトバの選び方くらい大事にしましょうかね。

ってことでおそらくかつて所詮文盲庁でシークした
成分分析はどこかにあったはずだ。
 これはあとから調べてみよう。

基本姿勢は数え方から、というコンセプトで
今日のメインテーマはこちら。
池田綾子で「数え歌」。

 ってことで標題のメインテーマを担っている
ところに関してはオーソリティーのこの人の本が
大体説明してくれます。

内容ばかりで、文章は全く無視されているのである。
僕は国語教育の最大の欠陥がここにあると思う。
国語では道徳教育しかないのだ。
国語で道徳教育をするなとはいわない。しかし、
道徳教育しかしないのは欠陥である。

石原千秋「秘伝 中学入試国語読解法」(新潮選書,1999.03 375.8/イ)p86-87

 なのでムダなイデは放置して、エツとり。
エッセンスだけ拾って、技術やコツのテクニックを
還元した方がやはり「よりまし」になる。
(日本語的にはよりましからその縁(よすが)
を持って広がりとのびしろが確保出来る可能性を
残すことにもなるし、英語的な「よりまし」って
いえばモアベターにもなるでしょ)

「本当に」そう思ってしまったことを、いまさら
「間違い」だと言えるだろうか。国語でそんな
思想教育はしなくていい。見えない思想教育を
するくらいなら、技術やコツに還元する方が
遥かに健全である。

石原千秋「秘伝 中学入試国語読解法」(新潮選書,1999.03 375.8/イ)p86-87

ってことでここで臨む時のコトバのフォーム
(としての姿勢)はおおよそこれになる。

頭のいい子がみんな文章が書けるわけではない。
極端に理系に偏った子や感覚や感性だけが優れた
子がいるからである。それは個性だと認めていい。
しかし、文章の書ける子はまず間違いなく頭が
いい。物事は言葉で考えるものだからだ。

石原千秋「秘伝 中学入試国語読解法」(新潮選書,1999.03 375.8/イ)p85

物事は言葉で考えるもの、なのでこのバリエー
ションをどのくらい埋蔵しているか、それを
上手く運用できるかで書ける文章は自ずと
違ってくる。それが文章を書いて構成して校正
する上でのあくまでも基本姿勢。

 そして、字数制限の緩やかな記述問題のポイント
は、「しかし」を使うことである。そう言ったら、
息子は「ああ、それ塾で習った」と呟いた。

 なぜ、「しかし」を使うといいのか。

それは「自分にはその反対意見も分かっている。
しかし、かくかくしかじかの理由でこういう結論
に至りました」という構造の文章を書くことで、
人間的に大きく見られて、その結果答案にも膨らみ
が出来るからだ、と説明しておいた。

技術を教えるだけでは不十分だ。

なぜ「しかし」を使うといい答案になるのかを、
「しかし」が自分をどう見せるのかを、きちんと
説明することだ。納得すれば、子供はそれを使う。

石原千秋「秘伝 中学入試国語読解法」(新潮選書,1999.03 375.8/イ)p90

逆に埋蔵していたとしても、それを上手く運用
できずにものぐさに走ると大概はロクな結果を
生まずにいつもの「ミノタウロスの皿」に殉じた
形で捌かれた血痕にしかならない。

つまりはこの方が近いからと無謀に横断歩道の
ないところで道を横断して交通事故とか、卑近な
欲望に釣られていろいろし損じるギャンブラー
とか、書店員にまともな検索ワードも与えず
それだけで通じると思ってんのか、という結局
目的の本にありつけない空回りする欲望の押し
つけをかましてありていに貰いの少ない、人の
話を聴かない団塊の世代に特にありがちな、
いわゆる典型的な死亡フラグってヤツである。

読めないのではなく、読みたくないのである。
確かに、読みたくはないが、被害が起きない
ように、せっかくの識字能力を発揮すること
くらいしなくては、国税が可愛そうである。

機能的文盲率、機能的識字率

団塊世代が意志の押し付けを家族主義のイデ
込みで熨斗つけてくるのはもうくたばってくれる
より対処方法はないので、会話できるうちから
対応するしかないけれど(まあ昔からそれは
ある。「姨捨機能」って言ったりするヤツだけど)、
もう一つの不可能、があって、そろそろ社会的
にはここに属する人達を「機能的非識字」と
呼ぶようになって来ているらしい。

機能的非識字とは 文字が全く読めない「文盲」
とは違い、ひらがた・カタカナなどの簡易的な
文字の解読は可能で一定の文章解読能力を得て
居ながら、書かれている内容を理解し、活用
するということが出来ない方を指す。

薬のラベルを読む、食品の栄養表示を読む、
小切手帳のバランスをとる、求人応募への記入、
職場での通信を読んで対応する、住宅ローン
申請書への記入、銀行取引明細書を読むなど。
The Guardianにはこう書いてある。もちろん
他国の記事であるし日本語ではないので文化も
ニュアンスも変わるから理解に苦しむかも
しれない。

つまり、家具家電の取扱説明書が理解できない
のだ。経済損失に繋がる要因としては、複雑な
業務にかかせないマニュアルの解読が出来ない。
災害や業務イレギュラーなど緊急時対応ができ
ないなどが挙げられるだろうか。

機能的非識字について

 すなわち、もう何が「わからないかが、わから
ない」のレベルで動機付けが出来ないまま漂流する
社会的ぼっちが「機能的非識字」として存在
している、ってこと。

 棘観たときにはこれも少し気にはなってたな。
勉強が出来る子と苦手な子の比較に「分かる!」の声や「出来る子は
そう考えていたのか…」の声→それ以外のパターンの子も集まる
「勉強とか超越した子」

ここのコメント欄に残ってるツイートにもいろいろ
示唆はあるんですが、私が勝負しないところで
矢鱈かましてくるのを生理的に嫌うのはここの
価値観の衝突があるからかもね。

マヌス @8EwMMLFV0DyDtc9
2019年7月19日
小学校は100マス計算の時間を競ったり、九九を
いかに早く言うか、テストが解けたら残り時間
自由にしていいとかで、じっくり考えることを
推奨するのはあんまりなかったな…。
大体の教師が「活発さ・瞬発力>正確さ」だった印象

スポーツやeスポーツでよく言われる赤筋的思考
というか、「この記事は何分で読めます」思考に
凝り固まってる人達とは一線引いている一面は
確かにあるので。

 だからそうした瞬発力とデカイ声式クイズ
パターンに陥らない思考と工夫が日本語使い
としてはどうしても(対策的に)必要になるの
かな、と思っている次第。

 ってことで調べはついたかな。
 なんとか見つかったわ。

データ検索したけど出なかったが「文盲庁」では
なくて「文盲腸」で記述していたか。
 昔成分分析メーカー、ってのがあって「文化庁」で
成分分析してみたけど、余りにも的確過ぎてそれ以上
ガチャする気にもなれなかった、ってのがありまして。

当時遺していたコメントがこちら。

文盲腸(モンモウチョウ)はどれだけ世の中の痕跡
器官(機関)なんだか。

精査してみる必要はありそうね。
↓ってことで成分分析してみた。
文化庁 の成分の分析結果

文化庁 の35%は花見ムードで出来ています
文化庁 の34%はウイルスで出来ています
文化庁 の11%はウスターソースで出来ています
文化庁 の9%はオペラ座の怪人で出来ています
文化庁 の6%はバス釣りで出来ています
文化庁 の4%は誕生日で出来ています
文化庁 の1%はハロゲンランプで出来ています

花見ムードとウイルスで生成されてるなら、この現状と
惨状も納得するしかないね、と当時思ったのでした。

診断メーカーとしてまだ存在はしているようだけど。