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息子と虫と、鬱抜けと

2 才の息子を見ていると、愛おしいなあと思うと同時に、虫に似てるなと思ってしまう。決して悪口のつもりはない。虫といっても、お花の中で蜜を吸うのに夢中な小さいハチみたいな虫だ。小さくて丸っこい虫は、自身に比べればはるかに巨体である人間の挙動や観察の目などお構いなしに、もぞもぞ動き、蜜を集め、背中を花粉だらけにして集中する。

息子を見ていると、ときどき、映画のスクリーンを通して息子を観察しているような錯覚に陥る。映画のように自由にズームインしたりズームアウトしたりしても、つまり私が顔を急に近づけたり遠ざけたりしても、息子は気にも留めないからだ。大人相手に、顔をぐっと近づけて観察しようものなら、それはもはや喧嘩腰である。しかし息子のまあるいほっぺに顔を近づけてためつすがめつ眺めていても、本人は気にするそぶりもなく、小さいハチのように目の前の粘土やミニカーに熱中しているのだ。

息子は常になにかに熱中していて、おむつを替えるとか、もうご飯の時間だとか、風呂の時間だとかで遮られるのをとても嫌う。こちらも、なだめすかして食事の椅子に座らせるのは疲労困憊するから、きりの良さそうなタイミングを狙って声を掛けようとするのだが、まあそんなタイミングはこない。かつてはベビーマッサージといって、手にホホバオイルを塗って全身マッサージするという時間をとっていたのだが、ハイハイを始めた頃にもうできなくなった。私としてはもっと続けたかったが、なにせ本人が、常に好奇心のおもむくまま突っ走っているので、じっと受動的にマッサージを受けるなどとんでもないのだ。

かつて、鬱だったとき、当時の恋人に “You are not here” と言われたものだった。そばにいても、君は心ここにあらずだ、困っていることがあるなら僕にも手伝わせてくればいいのに、と。熱中して別世界に入り浸るのとは全く幸福感が違うが、鬱もまた、固有の世界に没入して現世と隔絶してしまう点で似ている。特に躁鬱人の鬱は、原因があって鬱になっているわけではないから、余計説明できず、物語に落とし込めないだけ孤独だ。鬱の国に入り込んでしまえば、現実の、平常時の自分が他者と共有していた世界に戻ることはできない。しかし、全く別の世界への移動はできる。なので私は漫画を読む。それも、できるだけ低俗な漫画がいい。全く頭を使わない、お決まりをなぞるような陳腐なやつがいい。内容がうすっぺらければうすっぺらいほどいい。金に糸目をつけず、ガンガン買う。クソみたいな漫画だけが最後の命綱なのだ。

面白いことに、一度鬱から抜けると、鬱転中、むさぼるように読んでいたそれらの漫画への関心はストンと途絶えてしまう。よくもまあこんなもんを読んでものだ、という気すらする。

小さい頃から、没入する才能には自信があった。小学校の担任たちは、そろいもそろって同じ動作で私を形容した。両手のひらを競走馬の目隠しのように伸ばして顔の側面に起き、視界を狭めながら「あなたはこうとなったらこうだね」と。「自分の世界をもっている」とか「夢中になっているとき目がキラキラしてる」ともよく言われた。それは嬉しかったけど、没入する才能は、躁鬱気質と裏表だったような気もする。何かに没入し、体が訴える悲鳴を無意識に押さえつけて作業を続けちゃうから、脳は鬱転という形で私に急ブレーキをかけ、強制的に休息させるんだろう。

昨年 11 月半ばから続いていた鬱は 1 月も下旬に差し掛かって、ようやく抜けたみたいだ。産前に服薬をやめ、それから 2 年近く、薬なしで耐えていたが、退職をめぐるドタバタで鬱転したのが長引き、薬を再開した。薬のおかげで眠れるようになったが、しばらくは昼夜逆転に苦しみ、昨日ようやく、普通に眠れるようになった。夜眠れて、朝すっきり目が覚めることの幸福を噛み締めている。ずっとこのまま、エネルギーが充填された体でいられたらいいのにな。

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