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11月29日 AI革命以後社会を考える⑥ AI時代にこそ問われる「教養」と「遊び」

 AI時代、もっとも問われるのは「遊び」についてである。いかにして遊ぶか、遊びに価値を見いだせるか……が問われる。
 ……と、いう話は私の著書『生き残るために遊べ!』のなかで書いたのだけど、しかし件の本はAmazonの気まぐれによって絶版になってしまったので、今回はあの本に書いた内容の省略版を書くことにしよう。
(Kindleに裏名義でエロ本を出版していたのだけど、その一つがレッドカードになって、アカウントごとお取り潰しになった……というのが経緯)

 まず「遊び」というものに対する、多くの人達が陥りがちな偏見を書いておこう。
 「遊び」といったら、ひたすらに受け身で、生産性がまったくないもの……と思われがちだが、それは確かに「遊び」であるが「遊ぶ」行為の中でももっとも低級のものである。私はこういう遊びしかできない人を「消費者」と呼んでいる。
 また消費者としての遊びしか知らず、その遊びしか批判できないような人は、ただの浅い人間とみなしている。

 「遊びを極める」ということは、その遊びのなかにどんな価値を見出すのか、どんな深みを見出すのか、そこから進んで、遊びに社会価値を付けられることである。それができて遊びというもののなんたるかがわかったと言える。
 まず「遊び」には「教養」が絶対不可欠である。一般的には「遊び」と「教養」は対立事項と考えられ、「遊びには教養がない」と考えられがちだ。しかし教養がなければ遊びが深まることはない。その遊びはどういう仕組み、仕掛けで成立しているのか、あるいはどんな背景史を持っているのか……。それを理解してこそ、遊びの価値は高まっていく。
 教養のない人が遊ぼうとするとどうなるか……というとただ表面的な快楽を貪るだけになる。私はそういう人を何人も知っているが、教養なき人は直感的にしかわからない遊びでしか楽しめないし、あまり幅広い遊びにも目が向かない。これはケーキでいうところの、上に乗っているホイップクリームだけをなめた状態。まだそのケーキの一番美味しいところを口にしていないような状態だ。
 もっと深いところまで遊びの神髄を理解していこうとしたら、しっかり教養を身につけなければならない。勉強しないと遊びの深いところまで理解しきれない。だからこそ、遊ぶためにしっかり勉強しなくてはならない。

 そうやって「遊び」を極めていくと、「遊び」が「仕事」になっていく。最近では「YouTuber」がわかりやすい手本だ。YouTuberみたいな仕事はまず「遊び」をかなりの程度極めていなければならない。YouTuberにもトップクラスから底辺まで様々いるが、大半が底辺再生数しか出せずに断念する。
 なぜ再生数が伸びないのか……というと「教養」がないからだ。普通に考えてもらいたいのだが、どこの誰が教養のない人の話など聞きたがるものか。みんな忙しいのだ。みんな動画を見ることでなにかしらの「気付き」をもたらしてくれることを期待している。そうした視点を提供するためには「教養」が必要だ。
 世の中的にはYouTuberは学歴がなくても、誰でも気軽になれることができる……と言われている。確かに始めることはできる。しかし99%は生き残れない。なぜならつまらないからだ。どうすれば面白くできるか……というと発信する側に教養を身につけなければならない。なにもなし、徒手空拳で望めば玉砕するだけ。それがわかっていない人が、気軽に初めて、何もできずに脱落していく。

 世の中を見ると、色んな「遊び」が「仕事」になっている。スポーツの世界では野球やサッカーといったものがあるが、ああいったものは元々は子供の遊びだ。将棋も今やすっかり高尚なものになったが、やはり子供の遊びだ。
 よくよく考えてみれば、ただの「遊び」だったものは世の中に一杯ある。それが今の時代、産業の中心にすらなっている。野球やサッカーといったものの周辺に、関連書物の作られ、映画や漫画のエンタメが生まれ、関連するグッズや、スター選手が着ている服をみんなが買っていく。今そいういう産業の軸になっているのは、どれももともと「遊び」だったもの。そう考えると、いかに「遊び」を極めていくかがいかに大事かわかる。

 さらに「遊び」を極めていくとどうなるか……自分が「遊び」そのものを創造する側になる。「作り手」になれる。
 「作り手」になるためには、まず「遊び」を極めていかねばならない。世の中にはどんな「遊び」があるのか。そういったものがどういった仕組み・仕掛けで成立しているのか。それを分析して、再現できるか。作り手になると、そういう意識で物事を見るようになる。アニメや映画を観ていても、「どうやって制作しているのか」を気にするようになっていく(「どうやって制作しているのか」というこれを追求するのも「遊び」の醍醐味になっていく)。
 もちろんただ「遊び」の形を分解し、再構築するだけでは作り手になれるわけではない。そこにさらに「創意」を盛り込まないと、それは世の中的に「オリジナル作品」とは認められない。
 ではそうした「創意」はどのように作られるのか。
 まず第1に直感。作り手になると、定期的に説明のできない直感に恵まれるときがある。こういうのを「創造の神が下りてきた」と言ったりする人がいる。しかしこういう神が下りてくるのは運次第、タイミング次第で再現性が低く、あまりその手法に頼るべきではない。
 そんな直感に頼らない方法が第2、論理的に構築していく手法である。例えば作りたい作品のテーマを考える。次に世の中に似たようなテーマの作品をピックアップしていく。いくつも羅列していくと、世の中に出ている作品たちの中にも、まだ「試みられていないパターン」があることに気付く。そこを深掘りして行けば、自然にオリジナル作品になる。こういう手法は、ある程度世の中にある作品に触れていること、普段から分析的に見ていることが必要になる。
 似たような考え方で「組み合わせ」を変更する……というやり方がある。世の中の似たようなテーマの作品をピックアップしていくと、だいたいみんな似たような方向性の組み合わせをしていることに気付く。ファンタジーものであれば、みんなドラゴンが出てくる……とか(今どきはドラゴンの出てこない作品くらい一杯あるけど、ここは例え話として)。どうしてファンタジーに○○は出てこないのか? そういう疑問を提唱して、自分ならばこうする……というやり方でもオリジナル作品になる。
 こういう作り方は、直感による創意は必要ではない。まったく新しいものをゼロから作り出す必要なく、オリジナル作品を作れる。オリジナル作品とは、いつも完全に新しいものを作り出す必要はない。それは「なろう系小説」を見ればすぐにわかる話だ。

 ゲームキューブ時代の名作ゲーム『カービィのエアライド』。このゲームを始めたとき、なににビックリしたかというと、レースゲームなのに「アクセルボタン」がなかったこと。
 でも始めてみて、実はアクセルボタンが不要だと気付いた。よくよく考えたら、私もレースゲームをやるとき、いつもアクセルボタン押しっぱなし……。ずっと押しっぱなしなんだったらいらないんでは? この閃きに行き着いた、凄い作品だった。(このゲームに行き当たったとき、「作った人はなんて頭がいいんだ!」と衝撃だった)
 レースゲームはアクセルボタンを押さなければならない……という思い込みがすべての人にあった。その思い込みに疑問を呈し、排除してしまった。これができたのは、作り手に「分析的能力」があったこと。レースゲームを分析的に分解し、なにが必要でなにが不要なのか。これを突き詰めたところに『カービィのエアライド』のようなゲームができあがる。

 今はAIが出てきてしまったことによって「勉強なんかしなくてもいい。AIに聞けばいい」という考え方を持つ人がすでに出てきてしまった……という。学生が学校の宿題をAIに入力して、答えだけをザーッと出力する……みたいなことをやっている人もいるという。
 それはよくない。「AIがあるなら教養は不要」というのは間違いだ。倫理的な問題ではなく、人間自身が教養を持っていなければならない。
 人間の脳の仕組みとして、その脳の中にインプットしていないものを想定して物事を考えることができない。言い換えると、人間は自分の知っていることでしか考えることができない。自分が理解している内容でしか、物事を考えることができない。だから「その都度ネットで調べれば良い」というスタンスはダメ。そういう知識は自分のものとして使えないから。
 もしも脳に教養が詰まっていない人は、どのように物事を考えるのか。考えられることは平凡で退屈な内容に留まる。私はそういう人をたくさん知っているが、こういう人達は何か面白いこと、新しいことを考えたり発言したり……ということはできない。いつもどこかの誰かが言ったことを繰り返すだけだ。
 ネットの世界を見てみよう。世の中の大半は、カリスマ的な人が言ったことを繰り返すくらいしかできない。例えばホリエモンが「インボイスに反対している奴は、公金を着服している」と発言したら、その直後からニュースサイトには「着服だ!」というコメントがぽろぽろと出てくるようになった。こういう人達は、インプットした内容を自分で咀嚼したり、そこから新しい何かを考えたり……ということができない。教養を持ち得ないから、ただの「コピー人間」になってしまう。
 こういったコピー人間の末路は、なにかしらに「利用」されて終わる……だけになる。世の中には自分の利益を出すために騙してやろうという活動家や、怪しい政治家がウヨウヨいる。コピー人間はこういう人達に騙されて、自分が言っていることや、やっていることが「正義」だと信じて、愚かな行動をやってしまう。例えば、いま欧米で大問題になっている「環境テロ」がそれだ。少しでもまともな教養があれば、環境テロが無意味どころかただの迷惑だ……ということに気付くはず。そこに気付くだけの知性がない人達が騙されて、活動家の操り人形になっていく。
 どうやったら色んなことを考えることができるようになるのか、どうやったら深いところまで考えることができるようになるのか。それは教養を身につける以外にない。こういったことをAIにいくら尋ねたって身につくものではない。

(余談。ホリエモンの言論はあまりアテにしないほうがいい。というのも、ホリエモンの言説は「俺はできるけど?」というやつだ。大半の人はできません。例えば「仕事がないんだったら起業すればいい!」と言うが、そんなの、ほとんどの人はできない。やったとしても、うまくいかない。ホリエモンは大半の人はできない、という前提で話してない。しかしホリエモンは言葉が強いから、ついその言葉に心酔してしまう人が出てしまう。つい自分もできそう……という気分になる。しかしできない。そこが危うい)

 私はこういう時、「筋力は身につけたほうがいい」と答えるようにしている。「筋力」というのは、腕や足の筋肉のことではなく、知識や教養といったもののことを指す。こういうものも「鍛えて身につくもの」だから、「筋力」と呼んでよかろう――だから「筋力」と呼んでいる。
 結局は、最終的に我が身を救うのは筋力だ。体を鍛えるように、知性も鍛える。こういうものを鍛えれば鍛えるほど、いざというときの生存確率を高めることができる。
 「そういう時が来たら、AIに聞けばいいよ」――そのAIが使えないシチュエーションだったらどうするのか。AIはいざという時には使えない。いざ、という時に頼りになるのは筋力しかないのだ。
 例えば、私は今回のAIに巡るテーマを、資料をほぼ何も見ずに書いている。長い内容になるから、書く内容をある程度箇条書きしているが、それ以降はすべて私の頭のなかにあるものアドリブで出している。それができるのは、そこそこの筋力が付いているから。
 今回のテーマの中に「核家族の崩壊」を取り上げたけれど、この知識はなにかの本で拾ったのではなく、これを書く前に、「ひょっとすると核家族って産業革命以降じゃないか?」と思いつき、調べたら確かにそうだったので、今回のテーマになった……という経緯がある。そういう思いつきに至れたのも、いろんな知識があったから。

 世の中的な誤解は「漫画家やゲームデザイナーになるんだったら、学校の勉強は不要だ」という考え方だ。「自分は将来漫画家になるんだから、学校の勉強はやらない」……みたいに言い始める人が一定数いる。
 そんなの、ダメに決まっている。「学歴は持っておけ」という話ではなく、教養のない人間が漫画を描けるわけがない。描いたとしても、それが面白くなることはない。
(学歴は持っておけばそれはそれで武器になる。特に、「面白い漫画」を描けなかったときには)
 確かに、学校の勉強さえしっかりやっていればいい……という話ではない。というか、学校の勉強はほとんど役に立たない。誰でも知っている知識だけで作品を描いたところで、誰でも知っているような内容にしかならない。新しいものは生まれない。どうしてある人からはどんなに頑張っても面白いアイデアが出てこないのか……というと、その人の教養のレベルが低いからだ。
 作り手は誰も知らなかったものを提唱しなければならない。誰も気付かなかったことを提唱しなければならない。誰も描いていなかった視点、誰も気にしなかったような考え方。こうした閃きに巡り合うためには、やっぱり知識を身につけておく必要がある。
 人間は自分の知っている範囲内でしか物事を考えられない。その考え方の幅を広げるためには教養が必要。漫画家やゲームデザイナーになりたいのだったら、まず必要なのは勉強。いろんなことを知っていなければならない。知っていれば、その知識が武器になる。漫画家になりたいのだったら、まずいろんなことを勉強せよ。

 社会的な構造や規範といったものは、「遊び」の中で作られる。というのはヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』の中に書かれていたこと。私たちの社会は「遊び」の中で徐々に構築され、ルールが決められ、現在のような形になった。
 そこから「遊び」を喪うと、そこにあるルールだけが絶対だ……という考えになってしまう。
 するとこれからの社会変化をどうやって作り、どうやって対応していくか、も「遊び」がキーワードとなる。新しいルールを作り順応していく……それに柔軟に対処していくために「遊び」感覚がなければならない。「遊び」を無価値で自堕落なもの……と思い込んでいる人は多いが、むしろ心から「遊び」を求めたほうがいい。しっかり「遊ぶ」人間だけが一歩先んじることができる。

 はじめのテーマに戻ると、「遊び」に「教養」は必要である。「教養」のない人は薄っぺらい「遊び」しか楽しめなくなる。例えば教養のない人間は、テレビのバラエティ番組のような、底の浅いものしか理解できなくなる。こういう人と対話していても、議論が深まることは絶対にない。こういう人間が新しい何かを生み出すことはない。
 「遊び」を深めるため、そこから一歩進んで「遊び」を提供できるようになるためには、「教養」は絶対必要。「遊び」と「教養」は分離したものではない。

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とらつぐみ
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