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8月22日 世界にいくつもの言語があったほうがいい理由

方言と別言語を巡る話

 ニューギニアというのは実は「多言語文化」である。ニューギニアは地形が険しい土地柄で、峠の向こう側や川の向こう側へ行くといきなり言語が変わる。鳥好きおじさんであるジャレド・ダイアモンドは常に現地の案内人を連れているが、だしぬけにまったく言語の通じない相手と遭遇したこともあったそうだ。
 そんなニューギニアの人たちは多言語を操ることができる。少ない人でも5言語。もっとも多い人で15言語も話せた。ニューギニア人が何人か集まって話すと、複数の言語をいくつも同時に聞くことになる。
 しかしこんな話を聞くと、こう思う人がいるだろう。「そりゃおめぇ、別言語じゃなくて“方言”じゃあねぇのか?」と。
 「方言」と「別言語」の線引きは、話者の意思疎通度が70%可能かどうか、という定義があるそうだ。もしも70%以上意思疎通できたらそれは方言。それ以下であれば、別言語ということになる。
 ちょっと面白い話として、ドイツのバイエルン地方の方言は、同じ国の人ですらまったく理解できないという。「あれはほぼ別言語だ……」ドイツ人ですら言うほどものすごい方言だったという。ところがドイツ政府は、イデオロギー的観点としてバイエルン地方の言語も「ドイツ語の方言」としている。実はこういう「ほぼ別言語なすごい方言」というのは、わりとヨーロッパ各地にあるものだそうだ。
 ジャレド・ダイアモンドもイギリスの東部イースト・アングリア地方を訪ねた時の体験談を書いているのだが、ふと道に迷ったことに気付いて周りの人に教えてもらおうとしたのだが、そこは英語がほとんど通用しない土地だった。どう聞いてもほぼ別言語。イギリスなのにまったく英語に聞こえない。しかし国家としてはそういう言語も、「英語の方言」としていた。
 なるほど、どこの言語にも「方言」というものはあるわけだ。

 話は日本、明治の頃に遡る。
 明治時代というのは日本語が統一されておらず、地方に行ったらほぼ別言語でコミュニケーションが不可能だったと言われている。当時は黒船がやってきて「開国だ!」と血気盛んに騒がれていた時期だったが、しかし統一された言葉がなければ、国家としてのまとまりが出ないではないか……。それで当時言われていたのは、「英語を話そう」だった。日本人同士でも方言が障害となって対話ができず、それにこれからは国際化の時代だから、英語を公用語にしよう……という動きはわりとあったそうだ。当時の人は英語にも方言があるなんてきっと知らなかっただろう(英語を推奨している現代の日本企業も、「英語の方言」の存在はきっと知らないだろう)。
 少し話は変わるが、あるとき、テレビで「おでん研究家」という風変わりな職業の人が紹介されていた。その人が言うには、旅をしながらその土地土地のおでんを食べていくと、峠を越した瞬間、味付けも具材も変わる……ということに気付いたという。
 この話で理解できたのだけど、日本の土地というのは元来「峠」で区切られていたんだ。現在は県・市・町という区分で線が引かれているが、そこに住んでいる人の意識として自然な“境界”とは「峠」だったんだ。
 ニューギニアが山がちな地形で峠や川を越えると言語が変わるというから、かつての日本もきっと同じような状況だったのだろう。「ほぼ別言語な方言」ではなく、本当に日本には様々な言語があったのかも知れない。
 それで結局、なにを基準に「標準語」を作ったのかというと、「落語」の言葉だった。江戸の街はつねに田舎からたくさんの人がやってくるし、参勤交代で大名達がやってくる。そういうまったく言語観の違う地方の人でも楽しめる娯楽文化が落語だった。私たちは知らず落語を元にした言語を喋っているわけである。
 一時は「英語を話そう」という潮流も生まれたが、しかし「日本国」としてのアイデンティティを持つならば日本語を話さねばならない。明治の人々は正しい判断をして、日本語を選び取ったのだった。

 ちなみに明治時代の大学の授業は英語で行われていて、先生も生徒も全員英語ができた。これは当時の日本では「教授」や「博士」になることができず、アメリカにいかねばならないという事情が絡んでいた。
 当時の大学生と今の大学生で「学習意欲」に差があるのかも知れないが、現代の英語教育よりも、明治時代の英語教育の方が優れていたのかも知れない。

 私の父方の古里は長崎だ。長崎の中でも辺境、あたり見回しても畑と山しか目に入らないような田舎だった。子供の頃は夏休みになると長崎へ行っていたのだが、私はいまだに「長崎らしい風景」を見たことがない。長崎と言えば「畑・山」のイメージだ。
 そんな土地で子供の頃からずっと過ごしてきたお婆ちゃんは、私たちとはほぼコミュニケーション不能なレベルでのすごい方言だった。お婆ちゃんが生まれたのは昭和以前……明治か大正かまではわからないけれど、とにかくも昭和以前。辺境の地ゆえに明治で起きた「言文一致」運動の影響をほぼ受けず、テレビもなかったからテレビを基準とする標準語文化の影響もほぼ受けずに来た。現代の方言は標準語文化が入ってきているのでだいぶならされているが、今にして思えばあれこそ“本物の方言”だったんだ。
 しかし子供の時代は「わからないものは興味を持たない」だったから、お婆ちゃんととくにコミュニケーションを取ることもなかった。いま思えば話を聞いていればな……と悔やまれる。

 日本が戦争をやっていた70年くらい前の話。旧日本軍は鹿児島弁を暗号に使っていて、それをアメリカは最後まで解読できなかった……という伝説がある。ドイツのバイエルン地方の言語と同じように、九州地方の言語はほぼ別言語というような方言だったのだろう。
 私が九州の田舎で体験した話からしてみれば、本当の方言とはほぼ別言語だった。標準語での対話がほぼ不可能。言語学的に貴重な体験だった……子供の頃にそこに気付かなかったことが残念だ。

 ずいぶん前に、アイヌ言語に関する本を読んだことがある。本にも書いてあったことだが、そのアイヌ語というのはほぼ1人のお婆ちゃん(確か織田ステノという名前だったと記憶している)から取材して得たものであって、その言葉がアイヌ全体に通用する「アイヌ標準語」だったかどうかはわからないという。
 アイヌと一言でいっても、北海道中に散らばっていた小規模血縁社会で、しかも北海道は非常に自然環境が険しい土地。その全域で同じ言語が使われていたとは考えにくく、きっと「アイヌ北部方言」や「アイヌ南部方言」といったふうに、その中でも細かく分かれていたと考えられる。
 果たしてアイヌ標準語なるものはあったのか、地方ごとにどれだけの言語の差があったのか……話者がすでにこの世を去ってしまったので、これを確かめる術はもうない。
 現在、そのアイヌの末裔である若者達がアイヌ語の復元をやっている。でもそのアイヌ語が果たして「アイヌ北部方言」なのか「アイヌ南部方言」なのかはわからない。

 ヨーロッパで「似た言語」としてお馴染みなものといえば英語とドイツ語だ。英語とドイツ語は個々の語感が似ているし、文法も一緒なので、英語を習得できればドイツ語も簡単に習得できると言われている。
 なぜ英語とドイツ語が似ているのか。今から1万年ほど前、ゲルマン一族の一派がブリテン島に渡り、先住民を虐殺して島の主となった。これがイギリス人だ。もともと同じ一族から分裂して、じょじょに別の文化圏になっていった……というから英語とドイツ語の関係はもともと方言のようなものから少しずつ別言語になっていった……みたいな感じだろう。
 そんなイギリス人とドイツ人が、世界大戦で二度にわたって戦争をすることになったのは悲劇的というしかないが。

 こういう話でいうと、不思議なのが日本語・中国語・韓国語の関係だ。日本、中国、韓国の3国は隣り合っていて歴史的にも深く交流があったのに、言語がまったく似ていない。日本文字はもともと中国文字を取り寄せて作られているから似ているが、「読み方」はまったく違う。ここまで言葉はまるっきり違う……というのは実はそこまで深く交流していなかった……。ということだろうか。

2言語以上話せることにどんな有意があるのか

 では2言語以上話せることに、どんな意味、有意があるのだろうか。
 アメリカはそもそも「移民国家」であるから、多言語国家であった。しかしアメリカにおける公用語は英語であるから、それ以外の言語は軽んじられる傾向にある。実際に、アメリカでは英語のみを話せる人と、2言語以上話せる人と比較すると、英語のみを話せる人のほうが社会的地位も所得も高いという統計データがある。教育のレベルも英語のみであったほうが高いとされ、語彙力も高いとされる。それで移民達も子供に英語のみを教育させようという傾向がある。
 しかしこれは他国からやってきた移民に対する差別というアメリカ特有のバイアスがあるから、このバイアス部分を是正して考えなければならない。両親の社会経済的状態がほぼ同じ子供であった場合、1言語のみと2言語を話せる子供の言語習得能力は差がないことがわかっている。2言語以上話せる人の学力が劣っているという事実はない。
 語彙力の差は、1言語のみを話す人のほうが最大で10%語彙力が高いという結果が出ている。ただし、これも調査方法に注意が必要な話で、1言語を話す人は2言語話す人に対して3000語のところを3300語習得できた。一方2言語話せる人は英語3000語、中国語3000語習得していた。1言語のみで審査すると2言語話者よりも上という結果になるが、“2言語以上トータルで”という要件を入れると2言語以上の人のほうが語彙力は確実に上という結果になる。
 1言語話者と2言語話者に認知能力の差はないとされている。ただ「命名能力」に関しては2言語話者のほうが優れているという話がある。といっても、これは「感性」問題も絡んでくる話だが。

 2言語以上の話者が優れている、とされる部分は、認知科学でいうところの「実行機能」だと言われている。
 実行機能とはなんであろうか。例えば道路を渡ろうとしているとき、人は様々なものを見る。空を横切る鳥や、広告看板や通り過ぎる人や……そういったものが目に入るが、道路を渡るときはさしあたって車に対して注意を払わなくてはならない。目に入るもの、体で感じるもの、そういう感性の99%を抑制し、1%の現在遂行中の行動に集中しなければならない。この実行機能と呼ばれる働きは、認知制御と呼ばれることもあるが、これは大脳の前頭前野の働きとされる。この実行機能のおかげで、選択した課題に注意を振り分けたり、注意散漫になることを避けたりしてくれる。
 言語の場合、多言語話者であると脳の記憶中枢から引き出される言語情報が多くなる傾向がある。1言語話者の場合、一つの言葉、情報から引き出される語彙セットは1つだけだが、2言語以上の話者は一つの言葉から2つ以上の言語を引き出し、それをスムーズに1つの言語に振り分けて口にする。当然ながら、1つの言語しか話せない人よりも脳はより活性され、しかもコントロールされているということになる。

 こんなテストもある。3歳から80歳までの1言語話者と2言語話者を被験者とする、問題解決スキルを試す実験だった。この時の問題というのは、問題解決のためにいくつものスキルを駆使する必要があるものだった。この問題は実験中に、何の前触れもなくルールが変更され、わざと被験者を混乱させるように作られていた。
 この実験の結果、実験の途中でルールが急に変更されると、1言語話者は成功率がガクンと落ちるといういうことがわかった。対して2言語話者は、ルールが突然変更されても、対応するスキルが高かった。
 同様のテストは内容を変えて何度か繰り返されたが、どのケースにおいても2言語以上の話者のほうが成功率は高かった。

 さらにアルツハイマー病、つまり認知症の研究においても、1言語話者よりも2言語話者のほうが発症が4~5年遅くなるという事例も報告されている。多言語話者になると認知症の発症時期はさらに遅くなる。こういうところからも、多言語話者のほうが脳がより活性されている証拠にもなっている。

 ではどう考えても有利にしか思えない多言語話者は、なぜアメリカにおいて社会的地位や所得が低くなるのか。それはやはりアメリカ特有の環境問題。アメリカ人は英語以外の言語を軽視する傾向にある。

 ハリウッド映画を観てもわかるが、世界中どこの人もみんな英語を喋っている。『ターザン・リボーン』という映画があるが、アフリカ奥地の部族社会の人が流暢な英語を喋っているのを見て、さすがに「おい、待て」となったことがある。しかしアメリカ人はそういう「外国人が英語を喋っている」ということに疑問を持つことはほぼない。『SAYURI』という日本を舞台にしたハリウッド映画があるが、出てくる日本人が全員英語を喋る。日本人から見ると「なんだこれは?」だったが、アメリカ人のほとんどは疑問を持たない。そういう国だから、英語以外の言葉を喋れても、特に尊重もされることもないのだ。

 それどころか、アメリカでは「英語以外の言語は無駄」と考える「単一言語主義」の傾向は強いようだ。「世界中に無用な言語があるからコミュニケーションが阻害されている」「英語以外の言語があるから人は対立するんだ」……などなど。
 私(ブログ主のこと)は海外の人とよく交流するのだが、その時、日本語を英語に翻訳するのだが、この時点で多くの“ニュアンス”が抜け落ちてしまう。日本語には一人称が多く「俺」「私」「僕」などがって、この使い方だけでニュアンスが変わるのだが、すべて「I」で翻訳されてしまう。日本語だと、言葉の使い方で真面目なトーンだったり冗談っぽいトーンだったりを使い分けられるのだけど、英語だと全部一つのトーンにまとめられている。英語にするとそのメッセージが真面目なトーンなのか冗談のトーンなのか伝えづらい。おかげで冗談を言うときは、かなり慎重になってしまう。
 それに、そもそも英語に翻訳できない日本語があまりにも多い。「なんとなく」「懐かしい」「木漏れ日」「もったいない」……。アニメの世界では「ツンデレ」や「萠え」といった言葉も翻訳家を悩ませている。それに「ひらり」や「ふわり」といった情緒的な言葉も翻訳できない。
 こんなふうに、言語にはその言語でなければ表現できない感情や描写というものがある。これは日本語に限らず、世界中のあらゆる言語にもあるはずだ(日本語に置き換えられない表現も当然あるはず)。もしも「言語は単一であるべきだ」というのなら、これらの言語が持っている感情や感性がまるごと駆逐されてしまう。しかも英語というのは、情緒表現に関してはあまり豊かな表現ができる言語ではない。なんだったら日本語のほうがより多様な表現ができる。「英語以外の言語は駆逐しろ」というアメリカ人の意見を受け入れてしまうと、世界にある多様な表現が喪われてしまう。そう考えると、「言語は単一でいい」という意見は受け入れられないし、どんな言語もできる限りその国で守るべきだ。

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