映画感想 シドニアの騎士 あいつむぐほし
ウチクダケー!
シドニアの騎士――それは播種船《シドニア》を守る戦士のことである。
原作は弐瓶勉。月刊アフタヌーンにおいて2009年から2015年まで連載されていた作品である。2015年第39回講談社漫画賞・一般部門、2016年には第47回星雲賞コミック部門を受賞。
その作品がテレビアニメーションとして制作・発表されたのは2014年春。第2期が2015年春。アニメーション制作はポリゴン・ピクチャアズ。アメリカでは『スターウォーズ・クローン・ウォーズ』(2008年)『トロン・ライジング』(2012年)といった作品で実績を上げていた制作会社である。特に『トロン・ライジング』ではアニー賞を受賞している。そんなポリゴン・ピクチャアズだったが日本の原作を全制作引き受けるのは今作が初めてであった。
2014年、2015年代のポリゴン・ピクチャアズのデジタル表現はそこまで優れたものではなかったが、『シドニアの騎士』という世界観が味方をした。世界観は宇宙船の中。登場人物はみんな似たような格好をしている。中にはクローンもいる。ほとんどのキャラクターが似たような服を着ていて、CGが苦手とする柔らかな質感のものが作品の中にほぼ出てこない。しかもシーンの3分の1くらいが宇宙空間でのメカバトル。CGの苦手分野にそこまで直面しなくてもいいし、逆にCGの強味を最大限発揮できる。それに、なにより弐瓶勉が描いた『シドニアの騎士』という世界観とデジタル表現はうまく噛み合っていた。
表現よりもシーンや物語に集中させられる……。この見込みは大成功を収めていて、『シドニアの騎士』は当時のアニメファンに注目された1作となった。当時は全編デジタルで作られたアニメーションはかなり珍しかったというのもあるが、手書きでは絶対できないような群衆表現、激しいメカバトルにアニメファンは新しい表現の予感を感じたのだった。
テレビアニメ版はシリーズ2本制作され、そこで一応の区切りは付いていたのだけど、原作はその後が描かれている……。真の完結編が見たい。その願いかなってようやく完結編である本作が制作されたのだけど、アニメシリーズ終了から6年後――2021年のことである。
では本作のあらすじを見ていきたいのだが……。
なにしろテレビシリーズから6年後に制作された劇場版。それを2023年に見ているのだから、設定やキャラクターを忘れている。見ながら「この人なんだったかな……」となんともおぼつかない感覚での視聴だった。余裕のある人は「総集編」が出ているので、そちらでまず復習した方がよい。
あれから10年の時が流れていた。
播種船シドニアの艦長・小林は新たに入ってきた新兵たちを前に、そしてシドニアのすべての住人たちに向かって語りかける。
「シドニアがこの惑星ナインの星域に入って、はや10年の歳月が流れた。諸君らの中にはこのまま平和が続いてくれればと願う者もいるだろう。だが、今一度我々がここに来た理由を思い出して欲しい。《惑星セブン》への入植。それが人類の播種船(はしゅせん)としてのシドニアの使命であり、悲願なのだ。だがそこにはガウナの大衆合船(だいしゅがふせん)が居座っている。我々は10年間、これを討伐すべく、戦略を練ってきた。そしてついに、そのめどが付いた。時は来た。シドニアはこれより、大衆合船との戦争を開始する。大衆合船との距離を考えると、決着が付くまでに1年は必要だと我々は見ている。その策はすでに練られた。今こそガウナと雌雄を決し、人類の悲願を果たすときだ。諸君らがその責務を十二分に果たすことを期待している」
播種船シドニアが崩壊した地球を脱出して1000年……。播種船の使命は、人類が移住可能な惑星を見付けて、そこに定住し、子孫を残すこと。その旅が今まさに果たされようとしている。
しかしその行く手には宿敵ガウナの大衆合船。敵は圧倒的に巨大で、容易に手が出せない……。そこで大衆合船を打倒する最終兵器が開発された。《重力子放射線射出装置》だ。重力子放射線射出装置であれば大衆合船も一撃で撃破可能だが、問題なのは消費エネルギー。播種船シドニアでは調達不能のエネルギー量が必要だった。
そこで恒星レムに回収機構を設置し、1年掛けてエネルギーを充填することに。回収機構は単純な構造だからガウナに探知されないけど、難しいのは送信機と中継器。送信機と中継器が設置されるのは回収機構が充分なエネルギーが溜まった後……の予定だが、送信機と中継器を設置した瞬間、ガウナに察知されてしまう。
そこでガウナ撃退用に新型衛人・二零式劫衛(にーぜろしきゆきもり)が現在開発中。エネルギー充填が終了する1年後を目標に開発が進行していた。
間もなく作戦決行。回収機構設置のために、戦術防巡艦水城が出撃。衛人が護衛に当たった。手始めに恒星ともっとも近い惑星エイト近傍宙域の制圧に乗り出す。
惑星エイト近傍宙域にやってくると、そこに巣喰うガウナが一斉に襲いかかってきた。衛人との交戦に入る。優秀な新人たちの初陣は、こちら側優勢で展開していた。
だが何者かが介入した。そいつは猛烈な速度で駆け抜けていき、新兵たちを次々に撃墜していく。いったい何が……何者なのだ……。
「フフフ……一気撃破……」
知性型ガウナだ!
あまりの超スピード。こちら側の攻撃をすべてかわし、ゆうゆうと襲いかかってくる。衛人が次々に撃破される。
その戦いに谷風長道が飛び込んできて、ようやく知性型ガウナを一体、さらにもう一体撃破。しかし知性型ガウナは衛人を一体拘束して、エイト近傍宙域を去って行くのだった……。
ここまでが23分。
まあとにかくも「独創」。個性の塊。こうやって文字情報であらすじを説明したところで、専門用語だらけで意味はほとんどわからないでしょう。《重力子放射線射出装置》ってなに? って感じ。
これが不思議も不思議、映像になるとするっと頭に入ってくる。独自用語だらけだけど、字面を見ているとなんとなくわかってしまう。例えば主要舞台である「播種船(はしゅせん)」。「種を播く船」。ここで種を撒くのは、もちろん人類という種。人類が移住可能な惑星を見付け、そこまで人類という種を播くための船だ……ということが名前でわかるようになっている。
世界観はゴリゴリのSFなのだけど、文化背景は「日本」。登場人物はみんな日本人の名前だし、見ていると日本でお馴染みのものは一杯出てくる。プロローグ的な艦長・小林の演説が終わった後、「重力祭」が催される。背景はコンクリートの巨大構造物のような街だけど、お祭りの風景そのものは古き良き日本のお祭り。提灯の灯りが夜を照らし、出店が並ぶ風景が描かれている。ああいった風景を見ると、私たち日本人はなんとなくホッとした気持ちになる。遠い世界、遠い文化のお話しではなく、自分たちと地続きになった世界観なんだ……という気がするからだ。
SFというジャンルは西洋発のもの。だからSFを描くとどうしても西洋的な様式で描く……ということが約束事になってしまう。登場人物もなんとなく西洋人が中心。日本でSFを描くと「西洋の借り物」の文化という感覚がどうしても出てきてしまう。
そこで『シドニアの騎士』は「いわゆるなSF」であるながら、がっつり日本の文化。宇宙船に乗り込んだ人たちがみんな日本人で、日本独自の文化をその中で作ったら……という想定の元で世界観が作られている。
そうやって作られているおかげで、映像や設定だけを見ると「難しそうなイメージ」だけど、実際見るとスッと頭に入ってくる。登場人物の名前もすぐに覚えられるし、難しい用語も字面を見るとピンと来る。日本人が作った日本人のためのSF……という感じがして楽しい(逆に西洋の人はどう見たのだろうか……)。
『シドニアの騎士』のもう一つ優れたポイントは圧倒的な「わかりやすさ」。世界観は一見すると難しそうに見えるのだけど、とにかくもお話しはわかりやすい。テレビシリーズ版の時は谷風長道を中心に女の子と知り合い、エースパイロットに育っていくお話し。そこに岐神海苔夫というイヤ~なライバルが出てきて……。独特な世界観を舞台にしていながら、お話自体は古典的。スポーツものに世界観を移してもそのまんま使えそうなあらすじとなっている。というか、昔ながらのスポ根もののテンプレートをうまくSFの中に落とし込んだようなお話になっている。
今回の劇場版は「永遠に続く宇宙の旅」のお話しではなく、その「終着点」を描いている。「移住可能な惑星」が発見され、そこに入植しよう……という直前。しかしそこにはガウナの巨大艦隊「大衆合船」が通せんぼしている……という設定だ。
お話しの要点を書き出してみよう。
①移住可能な《惑星ナイン》の近くまでやってくる。
②惑星ナインの前にはガウナの《大衆合船》がいる。
③その大衆合船を撃破可能なのは《重力子放射線射出装置》のみ。
④ただし重力子放射線射出装置のエネルギーを手に入れるために《恒星レム》に回収機構を放り込まなくてはならない
⑤エネルギーを満タンにするためには1年かかる。
映画の冒頭、まず新兵たちの活躍シーンが描かれ、続いて艦長・小林の演説で、「10年が過ぎた」「移住可能な惑星ナインの近くまでやってきた」という説明がなされる。
その後、「重力祭」のシーンを挟んで、会議シーンに入る。そこで上に書き出した説明がなされる。
上の5つが基本設定で、これが映画終了まで変更されない。「大衆合船撃破のために、重力子放射線射出装置のエネルギーを手に入れるだけのお話しですよ」……という前提がずっと守られている。
これが最初にかなりわかりやすく説明されるので、お話しがどこかでわからなくなる……ということがない。後で憶えることがない。あとはキャラクターのドラマが掘り下げるだけ。驚くほどわかりやすいストーリーになっている。
さて、次にその目的を達成するためにどんな障害が待ち受けているのか。テレビシリーズ版では一貫してガウナという敵キャラクターがいたけれど、それだけだと面白くない。
会議シーンの後、恒星レム周辺宙域のガウナを掃討するために、衛人たちが出撃する。そこで遭遇するのが「知性型ガウナ」。
その登場のさせ方がいい。まずザコキャラ・ガウナとの戦いを描いた後、「未知のガウナ」が登場させる。その未知のガウナが映像として姿が描かれる前に、新兵たちの阿鼻叫喚の悲鳴。そこで「何が起きたんだ」と思わせる。それからやっと登場シーン。人間の言葉を呟くように話し、見た目も人間に近い。それが超スピードで移動し、衛人の撃った弾丸すらスルスルッとかわしていく。脅威を映像で表現されている。エースパイロットである谷風長道以外ほぼ打倒不能……ということで脅威が強調される。
ここまでのお話しが、「起承転結」の「起」。お話しはまだ始まりでしかない。
次の「承」で新たな脅威が描かれる。「落合」の登場だ。落合は今作の「大ボス」として登場するので、25分から40分までの間にしっかりと描かれる。
同時進行で落合に乗っ取られた海苔夫&もずく兄妹が爆弾テロを仕掛けて、衛人を破壊、パイロットも負傷。谷風長道もこの時に負傷。順風に思えた作戦が崩壊し、シドニアに打倒すべき脅威が出現する。
こうして、
①重力子放射線射出装置のエネルギーを満タンにする
②落合打倒
この2つがこの映画における目標であると示される。
あとはその「過程」を追いかけて見ていくだけ。
落合復活の脅威が描かれた後……の46分、負傷した谷風長道が復活する。同じく落合を追い払うときに負傷したつむぎが療養している培養槽へと向かう。お互い無事が確認された後……。
谷風長道とつむぎのデートシーンに入る。これが49分から55分。つむぎのデートシーンの終了がちょうど映画の中間地点となっている。
『シドニアの騎士』はわかりやすい「ラブコメもの」として始まったのだけど、「わかりやすいラブコメ」で終わらないのが弐瓶勉らしさ。主人公の恋人は身長17メートルの異形。『シドニアの騎士』にはかわいい女の子キャラクターが一杯出てくるのに、谷風長道が選んだヒロインは17メートルの巨人。
テレビシリーズ版ではそんな谷風長道とつむぎの恋愛が、どのように展開していくのかが描かれていく。一見するとかなりユニークだけど、ちゃんと納得できるように描かれているところが面白い。これはある意味、恋愛ものとしての「作法」をきちんと守っていれば、相手は人間であろうが異形であろうが成立する……という証明となっている。
そのデートシーンなんだけど……。描かれているものは人間と異形という不思議なデートなのだけど、台詞だけを見るともう古典も古典。「いつの時代の作品だ」と突っ込みたくもなる。大昔の恋愛ドラマの再現シーンのような光景が描かれる。
どうしてこんな古くさい恋愛ドラマの再現が描かれたのか……というと映像が異様だから。なにしろ相手は17メートルの異形。バランスを取ろうとしたら、描かれているシーンや台詞は徹底的にわかりやすい、テンプレート的なものにしたほうがいい。もしもこれでシーンや台詞まで独創的にしてしまうと、誰もついてこれなくなる。バランスを取ると、これでちょうど釣り合いが取れる……と。ある意味で絶妙なバランス感覚だ。
さて次のシーンは艦長・小林が谷風長道を尋ねて、自分が「不死の船員会」であると告げ、谷風長道が同じく不死の船員会メンバーであった斉藤ヒロキのクローンであることが明かされる。テレビシリーズでは謎の存在であった不死の船員会の謎が明かされ、艦長・小林、ヒ山ララァ、落合を巡るドラマを完結へと導く切っ掛けを作っている。
1時間10分、谷風長道は海苔夫と合流し、最後の戦いへと向かって行く。ここからはクライマックスへ向けて一気に駆け抜けていく。見所しかない40分が描かれていく。
ただ、ここのシーンまでに、実は1年ほどの時間が流れている。もしもテレビシリーズだったら、この間の空白も掘り下げられたのになぁ……というのは映画だから仕方ない。
もう一つ気になったのは、整備員の少なさ。代表的な2人は描かれたのだけど、他の整備員がちらちらとしか描かれない。衛人一機につき、整備員が十人以上は付いているはずだから、もっと描かれてもいいはずなのにな……といっても登場させると画面がゴチャゴチャするし、仕方ないか。
ポリゴン・ピクチャアズのCGアニメはそこまでレベルは高くない。ライバルには神風動画やオレンジといった制作会社がいるが、見比べるとポリゴン・ピクチャアズは一段落ちる。キャラクターはまだ「CG臭さ」が残っているし、動きもぎこちない。どこか原画・動画の継ぎ目が見えてしまっている。表現は神風動画の「手書き感」には追いつかないし、オレンジの超流麗なアニメーションと比較するとロボットのように見える。
もう一つ、CGアニメのクオリティを推し量るポイントが「メシ」。ポリゴン・ピクチャアズが作るアニメのメシは美味そうに見えないんだ。こういう手書きで描いたときの「生っぽさ」が表現できないのがポリゴン・ピクチャアズの弱点。
でも短所をいかに長所にできるか。『シドニアの騎士』の世界観であるとキャラクター描写にそこまで情緒は求められないし、一番の見せ所はメカアクション。そこをいかに格好よく見せられるか。あとはそこに持っていくまでのドラマをいかに作るか。それがしっかりできているから、最後まで熱を持って見ていられる。エピローグまで楽しい。キャラクターたちの行く末を愛情を持って見守っていられる。
確かにメシを作るのは下手かも知れないが、そもそも『シドニアの騎士』には食べ物はほとんど出てこない。得意分野だけで全力勝負できる題材だ。
映画は谷風長道の旅の終わり。播種船シドニアにとっての新たな旅が描かれて終わる。こうした旅物語が終わるときというのはいつも切ない。それくらいに、私たちは苦難を愛しているのだろう。といっても、直面はしたくないけど。とにかくも、彼らの旅の終わりを見届けられて良かった。
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