映画感想 鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎
鬼太郎誕生物語はこれで良かったのだろうか……?
2023年11月に公開された映画鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』は、妖怪作家で知られる水木しげるの生誕100周年を記念して制作された作品である。鬼太郎誕生物語については、その原点である『墓場鬼太郎』でも描かれたが、それよりもさらに以前、鬼太郎の両親がどうしていたか……を掘り下げた作品だ。
監督の古賀豪は東映アニメーション所属で、2018年に『ゲゲゲの鬼太郎』第6シーズンを演出、2008年には『劇場版 ゲゲゲの鬼太郎 日本爆裂!』の監督も務めている。鬼太郎とは縁の深い作家である。
キャラクターデザインの谷田部透湖は学生時代に卒業制作が高く評価されてアニメ制作会社カラーに入社。『龍の歯医者』では絵コンテと演出を担当。2021年の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』では副監督を務めた。若手アニメーターだがすでにものすごいキャリアを築いている新鋭である。
音楽川井憲次は押井守監督作品のほとんどに楽曲を提供する。この界隈では知らぬ者なしの名作曲家だ。
制作費は公表されていないが、観客動員数は190万人、興行収入は27億円。SNSでの口コミ評価が広まり、6ヶ月にわたるロングヒットとなった。2023年の邦画興行収入ランキングでは14位となっている。これを書いている今、本作のバージョンアップ版が公開予定となっている。300カットをリテイクし、さらに最終仕上げを変更したバージョンだという。
第47回日本アカデミー賞・優秀アニメーション賞受賞。日本SF大会23回センス・オブ・ジェンダー賞大賞受賞。アニメージュ第46回アニメグランプリ受賞。作品評価はなかなか高い作品である。
それでは前半のストーリーを見ていこう。
廃刊間近の雑誌記者・山田は都市伝説の調査として鬱蒼とした森の中へ。その奥地で、不気味なトンネルを発見する。これこそ都市伝説として語られるトンネルに違いない……。その入り口に待ち受けていたのは、鬼太郎と猫娘だった。
「引き返してください。この先は何が起こるかわかりません」
しかし山田は、次号で廃刊となってしまう雑誌に、どうしてもこのトンネルの向こう側を調査して記事を載せたい。山田は警告を無視してトンネルの中へと入っていく。
トンネルの向こうは廃村だった。しかも奇怪な幽霊が大量に蠢いている。山田は間もなくその村で起きた過去を知るのだった……。
時は遡り、昭和31年の東京。
帝国血液銀行のとあるオフィスに、ある知らせが舞い込んできた。
「なに! 龍賀時貞翁が!? ……まだ他には漏れていないんだろうね。よしわかった」
どうやら内密の電話らしい。しかし部長の怒鳴り声に、オフィスにいる社員全員が緊張の顔を浮かべる。部長はすぐに電話を切り、退出する。すると社員の中の1人――水木がその後を追いかけていった。
部長が向かったのは社長室だった。部長は龍賀家一族の当主・時貞翁がこの世を去ったことを知らせる。龍賀家が一族経営する龍賀製薬は、帝国血液銀行と深い関係で結ばれている。前当主がこの世を去った……すると次に起きるは骨肉の跡目争いだ。帝国血液銀行としては、次の当主となる人物と早く接触を持ち、“良い関係”を築きたいが……。
そこに水木が入室する。水木は現在の龍賀製薬社長を務める克典に信頼を得ていた。このままいけば、龍賀家の時期当主も克典に引き渡されるはず……。
水木は、「私を行かせてください」と申し出る。克典を龍賀家次期当主に据えさせ、今後も帝国血液銀行を優遇してもらえるよう、話をまとめて見せる……と訴える。
社長は水木を信頼し、行かせるのだった。
龍賀家は謎多き一族だった。本家の所在地である哭倉村の場所すら、公に知られていない。しかし水木は、龍賀製薬の社長である克典と良い仲になっていて、ある時の宴席で漏らすのを聞いていた。
水木はこう考えていた……。社長も部長も俺を捨て駒としか見ていない。ならば捨てられる前にのし上がってやる……! 今回の件をまとめれば、重役の椅子は確実。捨て駒にされるのは真っ平ごめんだ。
夜行列車にのって、さらにタクシーで山深い奥地へと入っていく。ようやくトンネルの前までやってきたが、タクシーでの案内はここまでだ。水木は1人トンネルを抜けて、その向こう側へ行く。
村だ。しかしそれなりに発展している。人の気配はするが、なぜか姿を見せない……。水木はそんな村の中を進んでいく。
すると見覚えのある女性の姿を見る。あれは――水木は龍賀一族について、以前から調査していた。あの女性は沙代だ。よし、ここは好印象を植え付けるいいチャンスだ。
水木は沙代に話しかける。どうやら履き物の鼻緒を切ってしまったらしい。水木は優しい顔をして、鼻緒の修理をしてやるのだった。
それから間もなく、龍賀家当主の屋敷を見つけて、そこで克典と会い、中へと案内される。大広間では龍賀家一族が集まっていて、さらに分家衆もみんな集まっていた。ちょうど前当主の遺言書が公開されるタイミングで、水木はその場に立ち会うことになった。
一堂が集まったところで、弁護士が遺言書を読み上げる。
「――現当主龍賀時貞として、以下のように子孫に申し渡す。
一、我が後を継ぎ、新たな龍賀家当主には――長男時麿を指名する。
一、時麿は長田時弥を養子とし、時弥の成人後は時麿に代わり、時弥が当主の座につくものとする。
一つ。龍賀製薬の社長は克典のままとする。ただし妻、乙米を会長とし、社の方針に関する一切の最終決定権は乙米が持つものとする。……以上です」
この発表に、その場にいた一堂が騒然とし、殴り合いの乱闘騒ぎになるのだった……。
長くなったので、ここまでにしましょう。ここまでのお話しで21分。この後、最初の犠牲者が出て、村に「ゲゲ郎」と呼ばれる謎の男がやってくる。ここまでがAパート25分。
では細かいところを掘り下げていきまっしょい。
お話しは昭和31年。終戦から11年。水木は戦場で青春時代を消費し、その後もひたすら辛酸を舐めてきた……という男。そこに、帝国血液銀行と深い関係にある龍賀一族当主が死去したという知らせ。水木はこれを出世のチャンスとみなし、乗り込んでいくことに。
水木の過去話は、原作者である水木しげるの戦争体験話がベースになっている。1973年の『総員玉砕せよ』で描かれた、悲劇的な戦闘をほぼなぞるように描いている。
その時の悲惨な体験が、水木の屈折した心理に影響を与えている。
この戦闘の最中、水木は飲まず食わずに何日も戦い続けられるようになるという、【不死身の秘薬M】と呼ばれる噂を聞くが……。
これは実際に存在していた。当時の戦争では覚醒剤がよく使用されていて、日本軍も「戦意高揚剤」としてメタンフェタミンをベースにした「ヒロポン」という商品を製造していた。当時、覚醒剤は非合法というわけではなかったので、戦場で覚醒剤を使うのは普通のことだったし、終戦後、あまったヒロポンが普通に薬局に並び、普通に購入できた……という逸話も残っている。
日本軍だけではなく、当時は各国が覚醒剤を使用していた。最初は1938年でナチス軍だったとされる。やはりメタンフェタミンをベースにした薬だった。
当時は非合法薬品というわけではなかったから、連合国軍も普通に覚醒剤を使用していた。当時は兵士の恐怖を克服し、長時間戦闘させられ続ける有効な薬だと考えられていた。
このあたりのお話しが、今作では「謎の秘薬M」に置き換わり、その謎を探るストーリーとなっている。もしかすると「M」は「メタンフェタミン」のことかも知れない……。
哭倉村へ行くと、間もなく龍賀一族前当主の遺言書を読み上げる場面に立ち会うことになるが……。
要するに『犬神家の一族』ですよね。
比較してみると、かなりしっかり『犬神家』。こういうちょっとした構図も似せて作られている。古賀豪監督が影響を受けたのは『八つ墓村』というが、教科書に採用しているのは明らかに『犬神家の一族』。
設定もシチュエーションもよく似ている。マーティン・スコセッシ監督『タクシードライバー』と、トッド・フィリップス監督『ジョーカー』と同じくらいよく似ている。市川崑監督の『犬神家の一族』を「教科書」とみなし、フォーマットをなぞって新しい物語を構築する。物語作法というのは古くから伝わる神話を分解して再構築するところから生まれてくるもの。それが今では古典と見なされる映画を分解して再構築する……これも新しい時代の物語作りの手法なんでしょう。それだけ物語文化の層に厚みがある……ということです。
間もなく惨劇が起きるのだが、ミステリというより、シーンのショッキングさを狙ってくるところも、『犬神家の一族』をなぞっている。オチからお話しを遡っていっても、よくよく考えれば殺人現場を演出する意味がない。それ以前に、なんで死体を隠そうとしなかったのだろうか……という引っ掛かりはあるが、大袈裟に殺戮シーンを描くのも、ある種の様式美。
この後のお話しも紹介しておこう。
最初の犠牲者である時麿が死亡し、このタイミングでふらっと現れた謎の男。村人らはこの男が犯人に違いない……なかば興奮状態になって男の処刑を決めるのだが、そこを水木が助ける。謎の男は座敷牢へ。村人らは水木に謎の男の監視を押しつけるのだった。水木は謎の男を「ゲゲ郎」と名付ける。
ここから水木とゲゲ郎の交流が始まる。ゲゲ郎はどうやら失踪した妻を探しているらしい。水木は「こいつは負け犬だな」と判断して、関心を喪う。
水木は善人ではない。過酷な戦争体験から、「自分だけは生き残って、のし上がってやる……」ということを信条とするようになった。沙代に優しくするのも、自分の出世に役立つと判断したから。ゲゲ郎はそのための踏み台としての役目はなさそうだ……そう判断すると、すぐに関心をなくす。物語の前半では、水木は冷酷な人間として描かれている。
ただ冷酷だけど悪党ではない……冷酷さの裏側にある善性とのせめぎあいが、水木を奥行き感のあるキャラクターにしている。
翌日、水木は克典と会う。そこで克典は謎の秘薬「M」を差し出す。
Mを製品にする工程は東京でやっているが、精製前の原液はこの村で作られている。しかしその製造方法や場所は、龍賀製薬の社長である克典にすら明かされていない。所詮は婿養子……克典はいまだによそ者扱いだった。
この村にMの秘密が隠されているらしい……。水木は克典からもMの秘密を調べるよう依頼される。
そんなことをやっているうちに、ゲゲ郎がいつの間にか牢屋を抜け出し、「禁域」と呼ばれる島へ向かおうとしていた。水木はその後を追う。禁域で大量の妖怪がうごめいている様子を目撃する。この村の異常な側面を、まざまざと見るのだった。
いろいろあって、墓場で語り合う水木とゲゲ郎。ここでようやく2人は心情的な交流を持ち、共闘するのだった。
――ここまでがBパート50分。前半パートがうまくまとまっている。
脚本の作りはなかなかいい。この時代の空気感がよく表現されている。時代設定におかしなところは目立たないし、特に芝居の雰囲気が時代観をうまく表現している。
謎の秘薬Mを巡るミステリーの作りもいい。よくよく見るとミステリらしい謎解きは一切していないが、実は市川崑監督の『犬神家の一族』からしてそう。金田一耕助もたいして推理なんかしていない。こういうところもよく手本にしていると言える。ただ龍賀一族の骨肉の争いがちょっと手薄かな……という引っ掛かりはある。
映像作品としてのポイントは、水木とゲゲ郎の心情をいかに掘り下げ、バディものとしての熱い展開を作るか。そこが非常にうまくいっているので、それ以外の枝葉の引っ掛かりはさほど気にならない。
私が引っ掛かったのは物語ではなく、映像。演出の作法がテレビ的になっている。まず引っ掛かったのは、遺言状を読み上げるこの場面。ダメ演出だらけ。
例えばこういうカット。克典が飛びつく瞬間を強調した画面だが、こういう見せ方はテレビであればそこそこ映えるが、映画でやると浮いて見えてしまう。
さらに分家衆がとびついてきて乱闘騒ぎ。次に時麿の泣き叫ぶ場面があって、乱闘が収まり……という展開だが、どれもテレビ演出。対象に一つ一つクローズアップし、そのたびに全員がその状況を注目する……。これをやればやるほど、どこかわざとらしくなる。その空間にある広がりが意識されなくなる。この空間に、龍賀一族とその分家あわせて数十人いるわけだが、それだけの人数がいる……というその厚みが感じられなくなる。
映画の演出をする場合、テレビ的にクローズアップされる場面はできるかぎり削った方がいい。わかりやすさ、誇張表現は削ったほうがいい。それよりもその場面にある全体で見せた方が、シーンの厚みに繋がる。
最初のこの場面を見て、「映画じゃないな……」と感じて、気持ちが逸れてしまう。
次に空間の捉え方。例えばこの場面。パースが崩れちゃってる。背景と人物のサイズ感も合ってない。
こっちもパースが崩れてる。ロングサイズになると、パースが怪しくなる。
設定周りにはおかしなところはさほど気にならない……と書いたものの、村の描写には引っ掛かった。まず電線。こんな山奥の、トンネルの向こうの村にもちゃんと電線あるんだ……。どこから電源を引っ張ってきているのだろう?
次に引っ掛かったのは畑の規模。さほど大きな村には見えないのだけど、これだけの畑って必要かな……。私も検証してないけど。米の出荷で利益を上げているようには見えない(農業を仕事にするにしても立地が悪すぎる)のに、この規模の畑は必要だろうか?
実は村の中に旅館もあるし、商店もある。大量消費社会がこの村にも押し寄せてきている。この描写も引っ掛かりどころで……。商品がこうやって送られてきている、ということは、この村もそこそこに発展しているということになる。こんな山深いところまで、トラックが来るものだろうか……?
ここの描写もひどいな……。とりあえず、それっぽいものをなんでも詰め込みました、というゴチャゴチャ感。もうちょっと整えようか。
画面が明るすぎる……というのも引っ掛かりどころで……。
気になったのは、禁則地域であるこの場所の表現。風景が明るく、湖が光を反射しているから、ここが「ヤバい場所」と言われてもピンと来ない。天気もいいし、気分もいいから、あの島まで泳いでみようか……そう思うような、明るい雰囲気で描いちゃっている。
唐突に出てくる謎の城。なんだこの設定? 奥に見える吊り橋も描写おかしくないか?
村の風景全体が見えるカットがこちら。画面の中央に龍賀家のお屋敷。そこから左側に向かったところにさっきのお城がある。
たぶん、龍賀一族が中心となって、その分家や小作人といった人たちのみで構成された村なのだろう。こうしてみると意外と整っている。
設定上でもう一つ気になったのは、龍賀一族は龍賀製薬を経営していて、戦後日本においてはかなり儲けている……という設定だったはず。ではその龍賀一族が治める村も、もっと発展しているのでは? そのように描くと、山深い中にある村……という不気味さは出なくなるが。
一番の引っ掛かりは妖怪の描写。ぜんぜん怖くない。
妖怪はそもそも正体がわからない者。なんだかわからない、不気味な何か。それに像を与えたものが妖怪。
それがアニメの世代になって「キャラクター」となり、キャラクターとなってしまったから時代に合わせてどんどん洗練してしまう。そうすると、その妖怪が持っていたもともとの時代観は喪われるし、なにより“不気味さ”が損なわれる。「妖怪というキャラクター」であって、もはや「妖怪」ではない。そういう傾向は『妖怪ウォッチ』ではもっと顕著になっていて、『妖怪ウォッチ』では「キャラクターとしての妖怪」に徹底している。「妖怪」の前に「キャラクター」が前に来てしまっている。
そもそもセルルックアニメは、線と色がきっくり出てしまうから、“正体がわからない不気味な存在”である妖怪のようなものを表現するのは不得手。どうあがいても“アニメキャラクター”になってしまう。アニメ絵として描いた時点で、妖怪ではなくアニメキャラになってしまう。現代であれば、妖怪をアニメキャラクターとして表現するのは、そういう時代だからまあいいかな……というのはあるけども、今作『ゲゲゲの謎』は昭和30年代だ。昭和30年代という時代にあった空気感を妖怪で表現してほしかった……。
昭和30年代は戦争が終わって10年という時期。この時期のなんともいえない陰気な空気、人々の暗い心情……というものがあるはず(昭和29年に、東京に最初の『ゴジラ』が襲来している。そういう時代だった)。妖怪とはその時代の負の感情をベースに、漠然とした人々の集合無意識的なものとして練り上げられる。作者は特定の誰か……ではなく、薄らぼんやりと、不安の具体化として現れるのが妖怪だ。暗い時代であれば、妖怪もまた不気味な影を強烈にさせる。
本作『ゲゲゲの謎』で妖怪のそういう不気味さを表現できたか……というとぜんぜん。ただのアニメキャラクターでしかない。妖怪が大量に出没するシーンでも、あれで誰が怖がるんだよ。
今作の場合、妖怪の不気味さよりも人間の不気味さを描きたい……という狙いだっただろう。妖怪すらも食い物にする人間のおぞましい業……そっちはある程度うまくいっている。龍賀一族の行動や思想はかなり不気味だ。
でもそれもそこまで突き抜けてもいない……というのが。
本作は『犬神家の一族』をお手本にして作っているのだけど、そのおかげで『犬神家の一族』を越えられていない。『犬神家の一族』とは別の魅力を……というほどにもなっていない。底の深い怨念や業を描き出せているか……というと、どうなんでしょう……という感想になる。
途中にも書いたけれども、シナリオはなかなかよくできている。少し手薄かな……と感じる部分。龍賀一族の掘り下げとか、重要人物である龍賀沙代の心情とか……(沙代ななぜ水木に好意を持つのか、あれでは理由がわからない。実は沙代こそ、見た目の清純さと裏腹に屈折極まった人物だった……そういうところがあまり見えてこない)。やや手薄になったところはさておきとして、全体的にバランスよく、クライマックスへの導線がしっかり描かれている。そこで惹きつける作品になっている。
すると惜しいのは映像作りのほうで、まず画面が薄っぺらい。どのシーンも奥行きがなく、重厚感に欠ける。演出もテレビ的で安っぽい。この画面作りだと「映画を観た」という気分にはならない。
シナリオと、声優の芝居はどちらもしっかりできていたから、あとは映像だけ。ここを作り込めば、それだけで評価は格段に上がったはず。そこを粘ることができなかったのが、この作品の惜しいところ。
(画面の弱さは、いま公開されている新しいバージョンを見れば、印象はだいぶ変わるかも知れない)
もう一つ、この作品の根本問題として、『ゲゲゲの鬼太郎』の前編として、この物語は相応しかったのだろうか……。お話しとしての整合性は取れている。今作のラストで、ちゃんとお話しが『墓場鬼太郎』に繋がっている。そこに違和感がないように、うまく作られている。
でもその因果が鬼太郎の物語に繋がっているのだろうか。
鬼太郎は普通の子供ではない。妖怪の子供だ。並の人間よりも、もっともっと背負っている闇が深い……はず。
鬼太郎の両親は、実は普通の人間っぽい姿をしていて、戦後の社会を人間として過ごしていて……これのどこが妖怪なのだろうか。妖怪をアニメキャラクターとして捉えている時代の発想でしかない。
この物語が鬼太郎誕生秘話として相応しかったのかな……最後までそこに引っ掛かったところだった。物語だけを見ると、かなりよくできてはいるのだけど……。