2月6日 映画『スーパーマリオ』を見ながら、ゲームの映画化の歴史に想いを馳せる。
前回
この記事を書く前日、『映画感想 ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』を書いたのだけど、そこでの書き漏れ、というか作品の外枠の話をするので、別の章を設けることにした。
長くなりそうだったしね。
話は「なぜ今になってようやく『スーパーマリオブラザーズ』は映画になったのか」あるいは「映画にすることができたのか?」という話。
実写版スーパーマリオはなぜああなってしまったのか?
話は1993年、実写版『スーパーパリオ 魔界帝国の女神』の頃に遡る。
ここからはWikipediaに書かれていることを頼りに話を進めていく。
年代は不明だが、最初に企画を出したのは映画制作会社Lightmotiveだそうだ。企画がまとまった後、ニンテンドー・オブ・アメリカの当時の社長、荒川實と面会し、脚本が提示された。
(荒川實 1980年から2002年までNOAの社長だった。任天堂社長の山内博とは娘婿の関係)
その後、Lightmotiveのローランド・ジョフィは任天堂社長の山内博と面会し、ここで正式契約を結ぶ。山内博はこの時に、「なんでそちらの会社にうちの会社の権利を売らなくちゃいかんのか?」と尋ねた。ジョフィは「そうしたほうがクオリティコントロールができる」と答えたが、任天堂側にその意識はなかった。そもそも「マリオを映画化する」といっても、任天堂としてもピンときておらず、何をするつもりだろうか、どうなるんだろうか、半分不安、半分興味という感じで干渉するつもりもなかった。
その後、本格的に脚本制作がはじまるのだけど、経緯を見るとなかなか地獄だったようだ。次から次へと脚本家が変わり、脚本家が変わると内容もガラリと変わる。最初はオスカー受賞経験のある脚本家に依頼したら、文芸映画風の脚本を仕上げてきた。次の脚本家は『オズの魔法使い』風。その次は『バットマン』風、『ミュータントタートル』風……。キャスティングも始まり、いよいよ撮影も始まる……というタイミングの時ですら、脚本は完成しておらず、脚本家が変わるたびにガラリと変わり、いろんな脚本家が書き重ねていくわけだから、だんだん謎めいたキメラ風の脚本になろうとしていた。
制作現場も脚本が上がらないから方向性をどう決めていいかわからず、編集に入れる気のない、無駄なカットの撮影を始めてしまう。どうやらエロいシーンも撮っていたらしい。
当時、『ジュラシック・パーク』が公開されるかも、というタイミングで、業界内で噂になっていたから「とりあえず恐竜を出そう!」ということになって、ヨッシーは恐竜そっくりな見た目になってしまった。これもなんだかわからなくなった結果生まれたものの一つだった。
そういう混沌状態の最中、撮影はスタートしてしまい、不幸にも完成してしまった。主演のボブ・ホスキンスは原作ゲームの『スーパーマリオブラザーズ』を知らない、と語っていたが、そういう説明もされなかったのではないだろうか。という以前に、映画スタッフたちも自分たちが何を撮っていたのか理解していたのだろうか。元々のゲームからあまりにも遠くに来てしまいすぎて、訳がわからない状態だったのではないか。任天堂は映画制作に干渉せず、の立場だったが、干渉したところでこの混乱状態がどうにかなったとは思えない。
実写版『スーパーマリオ』は映画史上に残る駄作映画として記憶されるが、しかし一方で、なぜかファンコミュニティが存在していて、「実は結構面白い」と語られ続けている。
私もこの作品を子供の頃見た記憶があるのだが……マリオかどうか、ということをさておきとして、なかなか面白かった記憶がある。
しかし原作があの『スーパーマリオブラザーズ』だとすると、この珍品を評価するわけにはいかない……。映画史上に残る駄作は、映画史上もっとも扱いに困る珍品だった。
実写版『スーパーマリオ』の現場がこの有様だったわけで、遠い海を隔てた向こうにある日本が作品に介入したとして、話を聞いてくれたとは思えない。当時のハリウッドは“外部の声”を受け入れるような体制ではなかった。
ハリウッドの男性的な空気感
ここからは、アメリカの映画業界の話をしよう。
アメリカという国について、昔からよく言われていることは、「金のあるやつの話しか聞かない」ということ。どんなに才能があろうが、どんなに優れた作品を描いていようが、金のないやつの話は聞かない――がアメリカの普遍的な思想。というより、ジャスティス。より多く金を持っているやつが正義。だから、「その仕事って人道的にどうなのよ」というものであっても、大金を稼げていたら正義……というのがアメリカ人の基本哲学。例えばウォール街で大金を稼いでいる人々は、「私たちは神の仕事をしている」とすら語る。
映画の業界も基本的に「金を出す」人の話しか聞かない。話を聞いて欲しかったら金を出せ、があの業界における基本。
映画史上に残る最悪の作品として名高い『ドラゴンボール・エボリューション』。この作品がなぜこうなったのか。なぜ原作者の意向は無視されたのか?
この件について、鳥嶋和彦の発言あった……と記憶していて、その証言を探したが見つからなかった。私の記憶では、ハリウッドの現場で発言権を持ちたかったら、相応のお金(制作費)を出せ、と。しかしその額が当時の集英社には出せなかった……。権利だけ持って行かれて、集英社も原作もどうしようもなかったという。
確かこのように発言していたインタビュー記事があったはず……と曖昧にするのはまずいから、結構な時間をかけて探したものの見つからなかった。
うーん、見つからない……ということは私の記憶違いだったのだろうか……。
映画の現場は基本的に「男性的」な現場だ。どういうことかというと、みんな自己主張する。みんな自分の爪痕を残そうとする。「俺のほうがいいアイデアを持っている」と自己主張して、その場を制した者が勝ち……そういう現場だ。
実写版『スーパーマリオ』はいろんな脚本家が次から次へとやってきて、変更を重ねていったけれど、最初から誰も原作ゲームには触れていない。みんな自分の“色”を出そうとする。みんな自分の爪痕を残そうとする。原作よりも「俺」のほうが大事。そういう人々がどんどん別物に作り変えていく。こんな環境下でオリジナルのイメージが尊重されるわけがない。
実写版『ドラゴンボール・エボリューション』もそういう現場で、とにかく監督のスタンスが「原作なんか知ったことか! 俺のイメージを出したい!!」だった。プロデューサーのチャウ・シウチーは原作ファンで、監督がまったくの別物を作ろうとしているのを察して止めようとしたが、監督はプロデューサーを会議室から追い出した。「俺のやろうとしていることに口を挟むな!」……と言ったかどうか定かではないが。その後のプロモーションの時、チャウ・シウチーは一切姿を出さなかったという。
その結果、『ドラゴンボール・エボリューション』は歴史に残る駄作となった。実写版『スーパーマリオ』はまだかわいげがあったから良いが、『ドラゴンボール・エボリューション』のほうにはそれすらない。要するに監督のイメージがそもそもショボかった、と……。たいした才能じゃなかったわけだ。この作品で干されて業界から姿を消したが、干されて良かったよ。
2000年代以降~風穴のあいたハリウッド
アメリカに対する一般的なイメージとして、「アメリカは自由の国!」「開かれた国!」「挑戦者に優しい国!」というのがあるが、すべて誤解だ。
実はぜんぜんそんなことはない。アメリカにだって派閥や昔からのしきたりといったものは当然ある。映画の業界にもあった。さっき、映画の業界で発言権を持ちたかったら相応の金(制作費)を出せ……という話をしたが、かつてのハリウッドは、そう言いつつ、外部からの資金を受け付けなかった。完全なる閉鎖サークル状態だったらしい。
ところが1990年代の終わり頃、映画制作があまりにも高額化していって、この閉鎖サークルが崩壊していく。制作費の工面が難しくなり、いよいよ外部からの金を受け付けるようになった。そんな時にやってきたのがマーベルだった。
マーベルも当時、優秀なライターが抜けたことで、人気に陰りが出ていた。そこでこれまで培ってきたキャラクターIPを映画展開させていこう……という狙いがあった。
さらにCG技術の発展で、これまで不可能だった表現が可能になりつつあった。実はマーベル映画はその以前から存在していて、例えば1990年に『キャプテン・アメリカ 帝国の野望』という作品が制作されていた。私はこの作品を、たぶん深夜のテレビ放送で見たんだと思うが……まあつまらない。痛々しいコスプレ映画だった(『パニッシャー』もやってたなぁ)。マーベル映画を制作するのは表現の面でも技術的な面でも無理があって、CG技術が生まれてやっと実現できたものだった。
その最初の成果が2000年公開の『X-MEN』。ある意味、ここから“映画は変わった”といってもいい。
マーベル×ハリウッドの試みは大成功して、以降、ハリウッドはヒーロー映画だらけになっていく。なぜそうなったか、というとマーベルが大口出資者になったし、その映画が売れる、という事例が生まれたから(そのマーベルはディズニーに買収された)。ハリウッドは保守的な世界だけど、1本大成功作品が続くと後追い映画が次々に企画される。それを20年続けた結果、今のような状態になった。
現在もハリウッドはヒーロー映画ばかりになってしまっているが、しかし「風穴」は開いた。これが新たな展開に繋がる。
2016年、任天堂は長らくアメリカ・メジャーリーグであるマリナーズの株式を所有していたわけだが、これをすべて売却。浮いたお金を映画を含む映像、キャラクタービジネス展開に使うと発表。
これより先立つ2014年に任天堂キャラクターIP展開の一つとしてユニバーサル・スタジオ内に「スーパー・ニンテンドー・ワールド」の建造が発表される。2017年6月8日に正式な着工式が華々しく報道され、同じ年の11月には君島社長よりイルミネーションとの共同で映画制作を始めていることが明かされる。正式な発表は2018年1月。任天堂キャラクターがいよいよ表世界に飛び出していく……それを予感させるものだった。
この時点でなにがかつてと状況が違っていたのか?
まず「金」の話。ハリウッドがかつてのような閉鎖サークル状態から解放され、外部からお金を受け入れるようになった。以前なら任天堂が映画をやりたい……と言ってきても業界が受け入れなかっただろう。だがすでに風穴は開いていた。
やり方も変わった。かつての実写映画版はハリウッドが金を出し、権利を買って、好きなようにする……というやり方だったが、2023年のアニメ映画版は任天堂がお金を出し、権利も任天堂が持ったまま。任天堂側にとってかなり有利な条件で映画制作が始まった。
ゲームも変わった
ゲームのほうも変わり始めた。ゲームが3D表現に歩み始めると、すぐに実写的なキャラクター表現やカメラワークを指向した作品が出てくるようになる。初期の頃は表現力が弱く、そこまで驚くようなものでもなかったが、それがゲームの世代が新しくなるごとにどんどんと写実表現が極まっていった。
そうすると実写映画で活躍していた有名俳優も、普通にゲーム出演するようになっていく。最近のCGでもまだテカテカした質感は消えないものの、ちょっと見るとゲーム画面なのか実写映像なのか一瞬区別付きにくいところまできている。
ここまでゲームが映画に近付いてくると、「ゲームの映画化ってもしかして簡単では?」とすら思えてくる。
最近では『ラスト・オブ・アス』のドラマ版が非常に好評だ。私はU-NEXTに入ってないからこの作品をまだ見れてないのだけど、機会があれば見たい。『ラスト・オブ・アス』はもともとのゲームがすでに実写的、映画的演出に徹底した作品だから、実写ドラマ化への移行はそこまでの大事業というわけでもなかっただろう。ゲームで曖昧に描かれているあれはどう表現するべきだろうか、映画向けにどのように変換するべきだろうか……そういうことは考えなくても良い。ゲームをやればそこに答えが載っている。失敗要因が見当たらない。
ソニーはプレイステーションタイトルのゲーム化計画を立てていて、すでに2022年『アンチャーテッド』が公開。ソニーはもともと映像の制作、配給をやっていて、ソニーの中にコロンビアピクチャーズ、トライスターといった有名スタジオを抱えている。要するに自前で映画が作れる。映画業界が閉鎖サークルだったとしても、ソニーはあらかじめその中にいて、しかもトップの座に君臨しているので、クオリティコントロールが容易。やはり失敗要因が見つからない。
ソニーは次なる作品として『デス・ストランディング』を計画しているが、これが楽しみだ。そもそも『デス・ストランディング』はハリウッド有名俳優が一杯出演している作品なので、その俳優達がそのまま映画に出せばいいので、「原作ゲームとイメージが違う」ということが起こりえない。問題なのは、もともとのゲームがあまりにも完成度が高すぎて、映画にしたところで越えるものにすることが非常に困難だということだけだ。
『スーパーマリオ』もかつてのような2Dゲームではない。最近ではCG表現もこだわって、ムービーシーンだけ取り出すと、普通にCGアニメを見ているような感覚になる。マリオを立体的なCGキャラクターにしたら、どんなふうになるのか? 身長はどれくらいか? 着ているものは? 髪型は? ……といったイメージがゲームのほうで提示さえているので、もうこのまんま持ってくればいい。ここまで提示されているのに、「俺のイメージに変える!」なんて言い出す監督がいたら、そいつは相応しくないので降板させましょう、というくらい。
ゲームのほうが進化して、具体的な映像イメージの提示ができるようになった。次なる問題は「文法」だ。
映画はすべてにおいて自由なメディアではない。映画には「フォーマット」というものがある。一番わかりやすい例は「スラッシャー映画」だ。なぜわかりやすいのか、というとだいたいのスラッシャー映画はストーリーが一緒だからだ。
バカな若者が、旅行なんかへ行ってバカ騒ぎし、夜になるとセックスに興じる。すると殺人鬼が現れ、セックスに夢中の若者を次々と殺していく。最後に女の子が生き残ることがお約束になっているが、こういう女の子を「ファイナル・ガール」と呼ぶ。スラッシャー映画を何本か見てみればわかるが、だいたいのストーリーは一緒(スラッシャー映画は流行っていた頃は数百本も作られたが、正直なところどれも内容一緒なので、有名作品以外は見る必要がない)。あれがフォーマットだ。
こういうフォーマットはいろんな映画にあって、だいたいのアクション映画は実はストーリー一緒。だいたいのミステリー映画はだいたいストーリー一緒。だいたいのカンフー映画はストーリー一緒。もちろん、細かく見れば違いは一杯あるが、俯瞰して見ると似通った特徴がある。映画の歴史はこのフォーマットをいかに開拓していくか……にある。
例えば1999年公開の『マトリックス』は新しいフォーマットを提唱した作品だった。だからこの作品の後、『マトリックス』によく似た作品が大量に作られた。新しいフォーマットが開拓されたからみんな珍しがって引用した……というのもあるが、みんな新しいフォーマットに飢えていたから、すぐでに手に取って自分のものにしたがった。かつてスラッシャー映画が流行ったときはみんな似たようなストーリーを作ったものだが、『マトリックス』の後はみんな『マトリックス』のパチものみたいな映画を作った。
(アニメの界隈では『エヴァンゲリオン』のあと、エヴァのパチもんみたいなアニメが一杯生まれたけど、あれも似たようなもの)
こういうことからもわかるように、たいていのクリエイターはフォーマット(文法)を自ら作り出すことはほとんどできない。もともとあるフォーマットにいかに自分の独自性を載せられるか……そこで腕が試されている。見るほうもフォーマットを意識するから、フォーマットを遵守したうえでいかに優秀なものを作り出せるか……が評価のポイントにしている。フィギュアスケートの規定技のようなものだ。映画というのは意外とそういうものなのだ。
(似たようなところで、「擬人化美少女」もあれにもフォーマットが存在する。美少女のテンプレートはだいたいこれ、と決まっていて、それにいかにモチーフとなるものを載せられるか……が絵描きの力量となっている。あれらは実は大して創造的なものではない。なぜならフォーマットの上に載せているだけだからだ。ほとんどのクリエイターはフォーマット自体を自ら作り出せないのだ)
そういう視点でいうと、かつての実写映画『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』も、あの時代にあったハリウッド映画ふうの文法に則った映画だ。脚本制作の過程を見ると様々に試みられていたことがわかる。『オズの魔法使い』風だったり、『バットマン』風だったり、『ミュータントタートルズ』風だったり……。『マリオ』をどの文法に載せればうまくハマるのか、当時のクリエイター達は苦闘し、その結果投げ出していた。
それで結局できあがったのはなんとも形容しがたい、キメラのようなシナリオだった。様々な文法を中途半端に織り交ぜて、2D表現で作られていたイメージをとりあえずぶち込んだ闇鍋のような映画だった。
当時は『マリオ』のような世界観を表現する手段そのものが存在していなかった。「CGアニメ」というジャンルすらも存在せず、だったら手描きアニメという可能性もあったはずなのに当時はその発想にすら行き着かなかった。「技術的に不可能だ」という以前に、表現方法自体存在していなかった。
2000年代以降、CG技術が導入され、『マトリックス』をはじめとして、様々なヒーロー映画が登場していく最中、映画のフォーマットは非常に多様になった。かつては考えられないような語り口の作品も、たくさんある文法の一つになっていった。「第3の壁」を破壊するような作品も生まれた。技術的なボーダーラインが上がった、というのと、表現も開拓されていった。『マリオ』らしい世界観の物語を表現する“物語形式”も2020年代になるともう存在している状態になっている。ここまで来ると、失敗するほうが難しい。
クリエイターも変わった
そうそう、クリエイターのタイプも変わった……という話もしておかなければならない。
かつての映画の業界は「男性的だ」と書いた。とにかくみんな自己主張が激しい。自分の爪痕を残したい。「原作よりも俺のイメージだ!」というタイプが多かった。
実はそういう業界の空気に合わない人たちもいた。スティーブン・スピルバーグとジョージ・ルーカスだ。スピルバーグは「自分の爪痕を残したい!」と自己主張の激しいスタッフを嫌い、周囲の主要なメンバーを女性のみで固めた。ジョージ・ルーカスは典型的なオタク気質で、声が小さく、自己主張できない。だから自分と気の合う人か、自分を崇拝する人たちだけで周囲を固めた。
(スピルバーグとルーカスは「オタク第1世代」……いや「0世代」というべきか。オタク監督の気質をもっとも早くから持っていた人たちだった)
昔はスピルバーグやルーカスといった映画人は珍しかったが、今では逆に、こういうタイプのほうが業界の主流。男性的な自己主張タイプより、柔軟な協調性タイプのクリエイターのほうが多くなった。
そしてそういう協調性タイプは、ほとんどが思春期の頃に日本のアニメ・ゲームを養分に育った……という世代だ。日本のコンテンツをよく知っているだけではなく、クリエイターを尊敬しているし、過去の失敗作もよく知っている。今の時代に『ドラゴンボール・エボリューション』や『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』なんて作ったら一瞬で干されるということをよく知っている。
こういう人たちが中心になったから、昔よりも「原作再現をしっかりやりたい」という欲求のほうを強く持っている。もはやゲーム原作が失敗することがあったら、クリエイターの力量以外ない……というところまできた。
それでもゲームの実写化は難しい
しかし、実際に映画になった『スーパーマリオ』を見ると、引っかかるところがあった。というのも、ゲームの『スーパーマリオ』は「ゲームとして面白いかどうか?」というところに重点が置かれている。ブロックを叩いたらアイテムが出たり、ギミックが動いたりするが……なぜなのか、という理由が提示されていない。いったいどういう原理なのか? そもそも誰が設置しているのか? そこは「ゲームですから」というのがゲーム版『マリオ』の説明だ。
映画にする、ということは、そういうものを説得力のあるストーリーにしなければならない。説得力あるものにするには、ゲームで「ゲームですから」とされているものにも、物語的な奥行きを感じさせるようにしなけらならない。ゲーム中に出てくる不思議な生き物たちは、どういう生態なのか、何を食べているのか。キノピオたちもどういう政治体制のもとで暮らしているのか、そういうものも示さなければならない。できなければ物語としての説得力に繋がらない。
それが映画の『スーパーマリオ』ができていたか……というとできていない。不思議なものは不思議なもののまま。ゲーム的イメージはうまく映画に持ってこられたけれど、すべてのものが説得力ある物語の中に取り込めたのか……というとできていない。これができていないから、物語がうまく機能していない。ゲーム再現したシーンがただただある……という状態だった。
しかし、やりようがない。「ゲーム的に面白いもの」のイメージを、「映画的な物語」に置き換えるのは無理がある。キノコ王国の風景にしても、レイアウト自体はしっかりしているけれど、あそこに文化的な奥行き感というものは一切感じない。どこか嘘くさい。
では今まである映画的文法で当てはめれば、あの光景をリアリティある空間に変換できるのか……できなくないが、やったらあの世界観の中にある魅力は喪われる。
『ラスト・オブ・アス』や『デス・ストランディング』はそういう「解釈」をする必要はないから、映画化してもうまくいくだろう(実際うまくいった)。しかし『スーパーマリオブラザーズ』を映画にしようとすると、解釈しなければならない要素が多すぎ。映画の『スーパーマリオ』はそういう意味でだいぶ頑張ったといえるけれども、ちゃんと「映画になっていたか?」というと疑問点が残る。これが『マリオ』の映画が「映画として出来が悪い」と言われてしまう理由だ。
この課題は次なる映画『ゼルダの伝説』でも立ち塞がるはずだ。『ゼルダの伝説』も「ゲーム的に面白いけど……これなに?」という要素がそこら中にある。リアルな世界観に載せて考えると、なんだかよくわからないものは一杯ある。
それに、『ゼルダの伝説』は大雑把なあらすじは存在しているが、登場キャラクター達が積極的にドラマを組み立てる作品ではない。いつもプレイヤーは広大なフィールドに放り出されて、その中で苦労して冒険している過程で、次第に「ああ俺はいまハイラルにいるんだ」という実感を獲得していく。そういう心理的過程を映画で再現できるだろうか?
『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』はゲームで描かれたシーンをかなり無理矢理に突っ込んで、なんとか映画として成立したけれども、『ゼルダの伝説』でも同じようなことはやってほしくない。
もしかすると、今までなかったようなフォーマットがそこで開拓され、新しいジャンルが生まれるかも知れない。ゲームの映画化がアップデートされる切っ掛けを作るかも……。そういうものを込みで期待しよう。
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