2月5日 お前はそうかも知れんが、俺は違うからな……という話
今でもあるけれど、戸塚ヨットスクールというものがあった。不登校や引きこもりになった子供を拉致同然に連れて行き、ヨットに乗せ、海の中へ放り込む。
「どうだ! 助かりたいか! 生きたいか!」
「はい! 生きたいです!」
というクソみたいな芝居をやらされて、ようやく助けてくれる。おそろしいことに、これを体験した人は「人生観が変わった」と言っていた(それ以前の人生観は相当安っぽかったんだろうな)。客観的に見ると「洗脳」に近い。当時の戸塚ヨットスクールはこうすることでダメ人間の根性をたたき直し、強くなれる! ……と語っていた。
戸塚校長は学校のイジメも肯定派だった。「人は過酷な状況に置けば置くほど鍛えられ、強くなる!」……という理論だった。
いや、サイヤ人じゃないんだから。
一時、国会で「最近の若者はナヨナヨして情けないから、徴兵令を復活させて、鍛え直すべきだ」みたいな意見が出たことがある。
いや、軍隊はボーイスカウトじゃねーから。
こういう意見はわりと普遍的にあるものらしく、定期的に浮上しては消えてを繰り返す。ということはある特定の人たちはこういう考えを潜在的に持っている……ということだろう。
若者をもっと鍛えるべきだ! より過酷な状況に放り込めば強くなるはずだ! ナヨナヨした若者ばかりだと国が滅ぶ!
……とかね。
しかし私の経験上、心というものは一度折れると、基本的には元に戻らない。むしろ脆くなる。PTSDという言葉を聞いたことはあるかと思うが、一度トラウマを経験してしまうと、その後なんども記憶がフラッシュバックし、この恐怖を乗り越えるのに何年もかかってしまう。
より過酷な状況に人を置けば心どんどん強くなる! ……そんなわけはない。その逆で、どんどん弱くなっていくものだ。
私もいろんな経験があったから、もうあまり外に出たくない、人と会いたくない、できれば一生閉じこもっていられるお屋敷を作って、誰にも会わず、気づけば死んでいた……みたいな余生を過ごしたいとか思っている。そう思っているのは、いろいろありすぎて折れまくったからだ。
繰り返すが、過酷な状況に置けば人は強くなる……ではなく、弱くなるのだ。むやみに警戒心ばかり強くなって臆病になる。経験していないことにし対し、心配ばかりするようになる。私は自分の体験からもそう断言できる。
ただし過酷な状況に置けば精神が強くなる“タイプ”というものは存在する。そういう人種は確かに存在するのは間違いない。ただそれは普遍的な属性ではなく、あくまでも“特定の種”でしかない。
前にも取り上げたけれど、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に登場してくるビフ・タネン。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は未来や過去を冒険する物語で、どの時代にいっても必ずタネン一族はいて、主人公マーティーを妨害する役割として登場してくる。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』はコメディ映画なので同じ俳優を起用して、わかりやすくキャラクター作りをやっているが、遺伝行動学的にわりと正しい描写をしている。乱暴者の息子は乱暴者だし、さらにその息子も乱暴者の性質を受け継ぎやすい。
遺伝行動学の話を掘り下げると、子供の性格や趣味、さらに友人選びまで遺伝子の影響を受けるという。親の交友関係と子供の交友関係を比較すると、だいたい同じような人を友人に選んでいる……という。それくらいに親と子は似るものだという。
ではどうしてタネン一族のような乱暴者が現代社会まで生き残ったのか? これも前にも話したことだけど、人類の歴史とはだいたい暴力の歴史だったから。人類はいつも暴力にさらされ、その暴力から守ってくれる人たちが必要だった。暴力が必要になったときの戦闘要員、あるいは抑止力、あるいは守護者としてタネン一族のような乱暴者がいた。人類の歴史の大半で、タネン一族は必要とされてきた、だから今の社会でも当たり前のようにいる。
ところが「頭脳社会」がやってきて、タネン一族のような属性の人たちが急速に社会から疎外されつつある……というのが現代である。ほんのちょっと前まで必要とされてきたタイプの人種だったのに、今ではやや疎まれる存在……。
しかし人類は未来永劫暴力と無縁であるわけではない。いつかタネン一族が必要になる。その時のことを忘れてはならない。穏やかな時代になってきたからもう必要ない……というわけではないのだ。
タネン一族のような属性が普遍的にいた、というのは問題がない。問題なのは2つ。
1つには今でもタネン一族のような人間像に理想を見出していること。戸塚校長にしても、「徴兵令を復活させて若者を軍隊に送り込むべきだ」とか言う人たちも、みんな頭の中に描いているのはタネン一族。男性のイメージを“力”という視点のみでしか語れない。
人間には様々な属性がいて、だからこそ多様性ある社会が築かれる。そこから一つのイメージのみを抽出して、まとめてしまおう……というのは感心しない。今は「多様性の時代」とか色んなところで言われているけれど、結局は「理想の男性像」といえばやはりマッチョなのだ。
もう一つの問題は、やっぱり社会の価値基準をマッチョ的志向に置いていること。やっぱり経営者ってヤンキー上がりの乱暴者を重宝するんだ。「覇気があって良い!」とか言ってね。
私は昔、とある工場に勤めていたのだが、そこに明らかにヤンキー上がりの上司がいた。この上司は声がデカい、態度がデカい、そして無能……というどうしようもない上司だった。彼と一緒に仕事をしたことがあったのだが、彼の担当箇所があまりにも雑すぎて、外に出せないようなものだった。そこで「周りがフォローする」という業務がいつも必ず発生していた。とにかくもやることが全ていい加減。雑。周りに迷惑を掛ける。でも怖いから誰も反抗できない。そういう無能だったが、明らかに工場長から“甘やかされて”いた。
私のいた工場に限らず、こういうタネン一族タイプはどこの社会にも必ずいて、明らかに経営者クラスから重宝されていた。こういう人間がギスギスした職場環境を作っていき、ブラックな状態に追い込んでいくんだろう。
そういうヤンキータイプが重宝されるのは、ヤンキーは乱暴者だけどボスの言い分はしっかり守る……という習性を持っているからだろう。そして命令されたことは無理してでも実行する。それが経営者側からすれば、「重宝する人材」に映るんだろう……と私は想像している。なにしろヤンキーは親分の言うことはきっちり守るからだ。
それにヤンキーっぽい男っていつの時代でも女の子にモテるしね。「男らしい、素敵♥」……って、やっぱり“力”を前面に出していく男って女の子から魅力的に感じるんだ。人類は長く暴力に晒されてきたから、こうした力を持った男性は本能的に求められるのだ。(今ではそうでもない?)
今の時代、腕力や体力の時代じゃないでしょ……とは思うのだけど、やっぱりどこか力を持った男性、体力のある男性を価値観の中心に置きたがる。
そういう価値観を引きずっているのは、私たちの価値意識がどこかその以前の世界を引きずっているからだ。
余談だけど、Amazonで男性用パンツを見ているとね、モデルさんがことごとくマッチョ。ああいうのを見ると、やっぱりまだああいう理想から逃れられないんだね……。男はしんどいわ。で、たいていの男は広告で描かれるマッチョになれない自分にコンプレックスを持つ……と。『ファイトクラブ』って映画がそうだったなぁ……。
ずいぶん前にブログで『26世紀青年』というコメディ映画について取り上げたけれど、この映画はこんな始まり方をする。
まず2組の夫婦が出てくる。一組目はIQの高い夫婦で、もう一組はIQの低い夫婦だ。
IQの高い夫婦は、「今は不安定な時期だし、出産は控えよう」と慎重。
一方のIQの低い夫婦は、次から次へと子供を作ってしまう。夫婦間でも子供を作っちゃうし、夫婦外でも子供を作っちゃう。子供は早く育って、10代中頃になる頃にはもう子供を作っちゃう。IQの低い夫婦は計画性なしにどんどん子供を作っちゃうから、系譜がどんどん賑やかになっていく。
IQの高い夫婦は出産に慎重になるが、IQの低い夫婦は次々と子供を作ってしまう……。そんなことを500年ほど繰り返した結果、人類はバカばっかりになりました……という頭の悪いSF映画なのだけど、これは「確かにその通りだな……」と言える。馬鹿馬鹿しいけど真実を突いている。あまり公には言えないことだけど(何かしらで炎上しそうだから)、『26世紀青年』で描かれていることは正しい。
さっきも話したけれど、遺伝行動学的に子供は親と似た性質を持つ。親がIQの低い乱暴者だったら、子供も同じタイプの人間になりやすい。環境的問題――つまりIQの高い家庭に預けて良い教育を受けさせても、教育を受けた瞬間はそれに影響されるが、成長するに従って遺伝子の性質の方が強く出てきてしまう。
で、こういう乱暴者タイプはすぐに繁殖するので、この連中が決していなくなることはない。むしろこれからどんどん増えるし、社会の中心になっていく可能性もある。今は暴力の時代ではないけれど、暴力を肯定するタイプが人口の中心になってくると、平和な時代であるのにかかわらず社会の性質もそのように変わっていく可能性だって考えられる。
今の時代、結婚までなかなか進まないし、出産を躊躇う夫婦は非常に多い。日本国内の経済環境があまりにも不安定すぎるから、それは当然の判断だ。
それに教育レベル、文化レベルが非常に高くなった時代だから、伴侶の選択に非常に慎重になる。今の若者がどうして結婚まで長い長い時間をかけるのかというと、「この相手は本当に自分に相応しいのか?」それを心情的側面、経済的側面の両方を天秤に掛けながら、(失敗したくないので)判定を保留にしてしまうからだ。
そんなことをやっている間に、IQの低い夫婦カップルは次から次へと子供を作ってしまう。そして社会の価値基準をIQの低い人たちによるマッチョ志向を中心にしてしまう。文化面が発達している一方で、なぜかマッチョ志向が支配的になっていく。そういう価値観が中心になっていくと、マッチョになれなかった男がコンプレックスを持つ。そういう悪循環が起きそうだな……という予感はしている。
いろいろ話が蛇行したが、テーマを最初に戻すと、戸塚ヨットレーススクールみたいな環境に放り込んで、彼らがよく言うように「鍛えて根性をたたき直すんだ」という試みは、人間のタイプによってはうまくいくし、そういうタイプではなかったらうまくいかない。むしろ逆効果だ。という以前に、それでうまく行く人というのは、元から遺伝的にそういうタイプだった……という話。
(一時……今もあるかも知れないが、引きこもりの少年を拉致当然に引っ張り出してきて施設に放り込む……というお仕事が注目されたが、あれによって「精神障害を負った」という訴訟はないのだろうか?)
「過酷な環境に身を置けば強くなるはずだ!」……それはそういうタイプの人間だけの話です。まずはじめに、その相手がそういうタイプかどうかを見極める方が先でしょう。
それにそういう精神的強さを持ったやつって、だいたいクズだよ。私はFランク高校に言ってからはっきり言えるのだけど、肉体的に強い、精神的に屈強なやつってだいたいクズ。なぜなら「感情移入」の能力を基本的に持たないから、どこまでもクズになれる。「おい、お前とお前、ここで殴り合え」とか「あの店行って万引きしてこい」とか普通に言うよ。従わなかったら「根性ねーな」って言われて、翌日からイジメの対象。世間的には「ヤンキーは本当は心が優しい」とか言って称賛されているけど……いやいや、クズだって! なんでいつも真面目にやっている人間を「つまらない人間」呼ばわりして、たまに良いことするクズを称賛するんだ?
はっきりいえば、感情移入の感性を完全に断てば、誰だって強くなれるよ。「殴ったら相手は痛いかも」……みたいなことを考えないようにさせれば、いくらでも強くなれる。しかし精神的な強さを持って、結果的にクズになっていいのかい。
いま世の中で言っている“強さ”は、古典的な武士道精神の“強さ”とはまったくの別モノ。いま世の中で言っている強さって、明らかにタネン一族的な乱暴者としての強さでしょ。ヤンキー上がりがいい……という価値観だもの。どうせなら武士道的強さを復活させたほうがいいでしょ。でもそうしないのは、そういう文化観が私たちから完全に途絶えてしまっているから。ただの乱暴者と武道家としての強さの違いがわからない。
ここまで話を蛇行させたのは、そもそもタネン一族タイプのような人間を他に人間達と同じ環境に放り込むというのが間違い……という話をしたかった。人には相応しい“場所”というものがある。そういう話でいうと「学校」は考えられる限り最悪の環境。子供の社会は未熟だから、そのなかにタネン一族タイプの人間が放り込まれると、力による支配的な社会を作り上げ、さらにヒエラルキーまでも作ってしまう。それに準じないタイプを「不適合者」として排除される。今は「陰キャ」「陽キャ」という言い方をするけど、情緒と理性が不完全な人間を頂点に置いて、それに対してコンプレックスを感じる……というのはおかしい。IQの低い人たちにコンプレックスを持つのはおかしい。でもそういうコンプレックスを持っている若い人たちがものすごく増えた。
(本当言うと、子供の「性質」が現れ始めた段階で教室を分けて指導したほうがいいのだけど……学校側にそれだけの余裕がない)
子供は“力”を社会の中心に置きたがる。そういう歪な社会を子供が作っているのに、大人達は基本的に何もしない。そういう時こそ、大人が価値規定をすべきだろう……でもそういう時の価値観を提唱できない、というのが今の大人達だ。だから若い世代の社会観が早い段階で歪んでしまう。
人間の属性というのは、人間が思っている以上に多様だ。同じ環境下においても、それぞれ違うように感じ考えるようにできている。そのようになっているのは、生きる残るために必要だったから。みんな同じように考えて行動していたら、何かしらのクライシスが迫ったときに、全員共倒れする可能性がある。だから人類種の属性はバラツキをもって設計されている。
危ないのは「同じ人間だから、同じように感じ考えるはずだ」……という思い込み。一つの説明をしても、人によってはまったく理解力の解像度が異なる。中には「なぜそう解釈する?」と理解に苦しむ考え方をする人もいる。でもそのように感じる人達がいる……というのがクライシス回避のために必要なものだった。
でも現代はすべて一つの価値基準で同じ社会の中に放り込もうとする。だからどこかおかしくなっていく。タネン一族タイプと文系タイプの人間を同じ社会に放り込んでうまくいくか……というとだいたいうまくいかない。最悪の場合、タネン一族タイプがコミュニティの主導権をち、「精神論」を中心とするブラックな職場ができあがる。
人間のあらゆるスペックも人によってまるで違う結果を出す。同じ指導方法が全ての人間にとって有効というわけではない。
例えば子供がイタズラをしたときに、叱りつけて良くなるのか……というと一発で良くなる子供と、まったく利かず、その後も悪さをし続ける子供もいる。こういう事例に遭遇したときも、大人達は同じ教育を施す。言うことをすぐに聞く子供と、聞かない子供を同じ場所に放り込んで、同じように叱る。そこで歪みが発生する。歪みが発生していることに気付かない。一発で良くなる子供は「なんで?」とショックを受けて大人を信頼しなくなっていくし、利かない子供は永久に利かないので知らん顔。なぜか大人達はこういう「利かない子供」については特に関心を持たなくなる。そういう時こそ、相手を見て指導を変えていかねばならない(私もなんど子供時代にとばっちりを受けたことか……)。
とりあえず海に放り込めば「根性たたき直せる」じゃないんだよ。
そうそう、戸塚ヨットスクールは今でもどうやら存続しているらしい。かつてのような引きこもりの子を拉致同然に連れてきて、海に放り込む……という指導はもうやっていないとか。