アニメ感想 ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝- 永遠と自動手記人形 -
本作は2019年9月6日公開された。同年7月には「あの事件」が発生。作品はすでに完成していたが、京都アニメーションが完全崩壊している最中での劇場公開であった。3週間の限定公開だったにも関わらず、興行収入は8億3100万円。ぴあ調査では初日満足度ランキング1位を獲得した作品である。
あらすじ紹介
まず前半のあらすじを見ていこう。
舞台はとある寄宿学校。そこは深窓の令嬢とその侍女、女性教師以外は存在しない。高い塀で外の世界と隔絶された女の園。そこに通う生徒は、いずれ地位ある身分になるか、そういう相手に嫁ぐ者のみ――。
その生徒であるイザベラ・ヨークは約束された将来が与えられた女性だが、寄宿学校にはまるで馴染めない。かつて貧困地域でその日暮らしをしていたイザベラにとって、寄宿学校の“お高い”生活は肌に合わないものだった。
そこに派遣されてきたのが、ヴァイオレット・エヴァーガーデン。3ヶ月の間、イザベラ・ヨークが一人前の子女として育つまで、面倒を見るように指示を受けていた。
しかしイザベラ・ヨークはもともと寄宿学校の気風に馴染めておらず、その上に教育係として派遣されてきたヴァイオレットを快く思わない。それどころか、非の打ち所のない完璧な立ち振る舞いを見せるヴァイオレットに嫉妬のような感情も抱く。
それでも日々同じ部屋で過ごし、交流を深めていくうちに、ヴァイオレットに敵意はなく、献身的に尽くしてくれていることに気付いて、イザベラ・ヨークは警戒心を解き、友人の関係を築いていくようになる。
やがて深い間柄で結ばれたイザベラ・ヨークは、ヴァイオレットに自身の生い立ちを話す。実は寄宿学校にやってくるまで、貧民区で過ごす孤児だった。そこでとある小さな女の子と過ごしていた。テイラー・バートレット。血のつながりはないけれど、テイラーはイザベラの“妹”だった。
しかしお互いに貧しい暮らし。その日その日を生きていくのが精一杯だった。
そんなある日、男が訪ねてくる。その男はテイラーの“父親”だった。男は自分で捨てた娘を、取り戻しに来たのだ。
貧民区で過ごす少女は、実は名門ヨーク家の娘。もしも今の生活を捨ててヨーク家に戻るなら、テイラーの一生をこちらで面倒見よう……。
そう言われて、イザベラ・ヨークはテイラーと別れるのだった。
ここまででだいたい36分。
その後、イザベラ・ヨークはテイラーへの手紙をヴァイオレットに預けて、その手紙はテイラーに届けられる――ここまでで42分。ここまでが前半パートとなり、後半パートに入ってそれまでと違った展開が始まる。かなり綺麗に「前後編」で分かれた構成の作品となっている。
感想文
内容を見ていこう。
まず驚いたのが2.35:1のシネマスコープで制作されていたこと。アニメの多くはビスタサイズ(1.85:1)で制作されているので、シネマスコープのアニメは非常に珍しい。(最近の作品で言えば『シン・エヴァンゲリオン完結編』がある)
シネマスコープになると、画面の構成方法はまるっきり違ってくる。ビスタサイズまではキャラ単体の顔クローズアップをやってもわりと映えるが、シネマスコープで同じサイズのクローズアップをすると両サイドに余白が生まれてしまう。シネマスコープで顔クローズアップをやろうとすると頭と顎の切れた「どアップ」ということになってしまう。それをアニメでやってしまうと、画として映えない。シネマスコープで画面を作る場合、キャラクターだけではなく、背景を取り込んだレイアウトをきっちり練らないと、なんとなく画面が締まらない……というふうになってしまう。シネマスコープで画作りをきっちりやると、大スクリーンに映えるいい画になるが、そういうアニメはなかなかお目にかかれない。
今作の場合、シネマスコープの画面がめちゃくちゃにハマっている。どのカットも見事なくらい「映画の画」になっている。
もともとテレビシリーズの頃からどうかしている作画クオリティのアニメだったが、唯一の難点はレイアウト。これは「出来が悪い」という意味ではなく、「バランスが悪い」という意味。作画は超ゴージャスだけど、レイアウトが単調、パースの歪みも気になる、テレビアニメ的なショットもうまく噛み合ってなかった。「テレビアニメ的なショット」というと、対話シーンで手元や足をクローズアップしたり、うつむいた時に前髪に目元が隠れるといった表現。ああいった記号的な表現は普通のテレビアニメのキャラクターだとハマるのだけど、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』くらい煮詰めたクオリティの作品だと、かえって水と油として浮き上がってくる。
こういったテレビアニメで引っ掛かっていた部分を完全に払拭し、シネマスコープの画面でどっしりとハマる画作りが試みられている。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』はもともと上品な味わいのある作品なので、シネマスコープの画面は素晴らしく映える。あの画を見るだけでも、視聴する価値のある作品だ。
さて、前半パートはとある寄宿学校の様子が描かれている。
イザベラ・ヨークの部屋は非常に薄暗く、窓の外から見ると壁面をツタ植物が覆っているのだが描写がゴツゴツしていて、格子状の窓が「檻」のように見える。寄宿学校の入り口も格子になっていて、その格子が画面全体を覆うように描かれ、ここでも「檻」に見えるように描かれている。
ナレーションでも「牢獄」と表現されているけれど、しかし「恵まれた生活」でもある。一生を保障されているけど、自由がない。イザベラ・ヨークの暗澹とした心理描写から始まるが、寄宿学校の全てを否定的に描いているわけでもなく、むしろ徹底した美を煮詰めた「端境の向こう側」の世界として描かれている。ここが作品の一つのポイントとなっている。
前半10分ほどはどのシーンも全体に影が被さっていて、薄暗く描かれる。イザベラ・ヨークの部屋になると狭い部屋が見通せないくらい暗い。おまけに、そんなに広くもない部屋に(どうやって入れたかわからないが)大きなベッドが二つも入り、やたらと狭い。わざと「身動きも取れない空間」として描かれている。この狭い部屋に閉じ込められている……というのがイザベラ・ヨークの心境、心象風景として描かれる。
それが20分ほどのところで、ようやくイザベラ・ヨークとヴァイオレットが打ち解けて、窓からさっと光が差し込んでくる。この場面では、ヴァイオレットの美しい金髪をほどくシーンだが、光で金髪が真っ白に輝き、非常に美しい場面になっている。イザベラが少し打ち解けていく様子が描かれる。
そこに続いて木漏れ日が落ちる通りを、イザベラとヴァイオレットが手を繋いで駆けていくシーンに入る。イザベラがようやく打ち解けて、牢獄の中とはいえ「走る」姿を見せる。「移動」を見せる場面だ。
木漏れ日が美しく描かれているが、しかし「青空」がまったく見えない。普通に考えて、空が全く見えないくらい木々が茂るなんてことはないのだが、そこは表現として「青空」が描かれていない。実写では難しいが、アニメだからこそ、こういうところで観念的な絵を作っている。ここでも「理想的な空間に思えて牢獄」という場所の表現となっている。
さらにいうと、前半40分くらいは「空」はほとんど描かれていない。映ったとしても「灰色」に曇っていて、青く見えないように注意を払われている。
間にイザベラとヴァイオレットの語り合いの場面を挟み、舞踏会の場面が描かれる。二人で真っ白な美しいドレスを身にまとう場面だ。不思議なのが、ヴァイオレットの衣装。男性服っぽいパンツスタイルだが、胸から上はウェンディングドレスっぽくも描かれる。男女の性が混ざり合ったモチーフとして描かれる。愛情あふれたちぎりを交わす相手が女性……という少し不思議な描写、ややレズビアン的なものを示唆しているように感じられる。(ここからイザベラのレズビアン的傾向を推測するのはやや強引な気がするので、しないけども……ただ「男性への不信」はある)
イザベラの髪には白椿。白椿は前半パートの中、あらゆる場面で描かれる重要なモチーフだ。花言葉は「完全なる美しさ」「至上の愛らしさ」……完全なる美しさとはこの寄宿学校のことを指し、その中で美しい乙女として育っていくイザベラを指している。「至上の愛」が向けられる相手はもちろん、その場にいないテイラー。テイラーに向けられた「愛」が完全なるものとして育っていく姿が映画全体を通じて描かれていく構造になっている。
イザベラはヴァイオレットと踊りながら、頭上を見上げる。天井には、青空が「絵」として描かれる。これが寄宿学校のシーンに入って初めて登場する「青空」であるが、それは「絵」。イザベラは直前まで笑顔を浮かべていたが、絵として書かれた青空を見て、ふっと笑顔が消えてしまう。空を見上げても、そこにあるのは本当の空ではない。誰かの作った容れ物の世界……。開放的なようで、悲劇的な主人公の心理が描きこまれていく。
舞踏会のシーンを経て、イザベラは自身の過去を語る。とある名家の出身だったが、なにかしらの理由で家を追い出され、路上生活に身を落としていた。このあたりの理由は精確には語られていない。男の「これがあの時の女の子か」という台詞があるから、行きずりの女とか、売春婦とか……そういう女との間に、うっかりできてしまった子供……というところだろう。
イザベラはある日、貧民区の店の前に捨てられている幼い子供をひろってしまう。それがテイラー。イザベラはこの子供を幸せにするんだ……と誓う。
そこで、「復讐」という言葉を使っているから、イザベラは自分の生い立ちについて、ある程度知っていたと思われる。「復讐」という言葉が向けられるのは、直接の父親に対して。それから「血縁」、「女という性に押しつけられた立場」など様々に含まれる。
テイラーを幸せにしたい、という言葉の中には、「血縁を越えた関係」を含まれる。この作品において、情のこもった親子だったり、親友だったりという関係を結ぶのは、みんな血縁とは無関係な間柄。血縁に対する不信。男性に対する不信。女だから……という生まれで決めつけられた立場に対する不信。それに対する猛烈な抗いの意思が作品の中に表れている。
しかし結局はイザベラはテイラーと別れてしまう。貧困の生活をいくら踏ん張っても決して良くなることはない。イザベラ自身、喉を悪くしていて、それがそのうちどうなってしまうかわからない。父親の申し出を受け入れて、テイラーを預けた方が、テイラーの幸せのため……。
テイラーの幸せを想うために、「復讐」の意思を打ち砕かれてしまうイザベラ。どうしようもない諦めと挫折から物語が始まっている。ただその自己犠牲は美しく、その後のイザベラは牢獄のような中で過ごすが、美は決して損なわないように描かれていく。
ここまでが前半パート42分だが、すでに見事な出来。西洋建築の美が細部まで表現されて、空気感までが伝わるように描かれているので、構図の見事さもあって、アニメというよりヨーロッパ映画を観ているような格調高さがある。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は劇場アニメとして描かれるべきだったんだ……と確信する内容だった。
ここから後半パートに入り、物語の様相はガラッと変わる。数年後、テイラーが成長し、ヴァイオレットたちが務めるライデン社を訪ねる。
数年後のライデン社の様子が描かれるのだが、クラウディア・ホッジンズがリアルな感じで髪が薄くなりかけている。そこをこだわるか……。
ヴァイオレットやエリカやカトレアはあまり変わらないが、アイリス・カリナーは少し髪がボリュームアップして、美人からより美人になっている。この変化は嬉しい。
成長したテイラーがヴァイオレットを尋ねて、配達員になりたいと願い出るのだが、しかしテイラーはまだ幼いし、未だに文字の読み書きができず、言葉もだいぶ怪しい。文字が読めないと、まず配達ができない。幼児教育をしっかり受けられなかった影響が、数年後の姿に現れている。
ここで前半部分の状況と反転した姿が描かれている。前半部分は「自由がないかわりに完璧な教育を受けられる世界」。後半は「自由を手にしているが充分な教育を受けられない世界」。「自由」が天秤に乗せる材料になっている。「自由がある」という状態は「責任を自分で負う」という意味でもある。不幸や不条理も受け入れていかねばならないのが、自由。どっちが良いのか……と聞かれるとなかなか難しいところだ。
ただ、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の世界にも変化の兆しが現れている。
まず象徴的なのは、電波塔の存在。エッフェル塔ですね。「電波が飛ばされるようになってもうすぐ時代が変わるんだ」――そういう示唆が示されている。
かつてヴァイオレットと共に学んだとある女性が出てくるが、どうやら結婚するらしい。じゃあドール引退……ではなく、結婚後もドールとして働き続けるという。「結婚したら引退」――そういう価値観はもう古い。「男が働きに出て、女は家にこもる」……そういう価値観は『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の時代でも過去のものになろうとしている。ヴァイオレットの同僚達、エリカやアイリスもそれぞれ夢を持っていて、未来に対して希望的に語っている。テイラーもそういう時代を背景にして、独力で自分の未来を築き、自分のなりたいものを目指そうとする。これが後半の物語。
ただ、作品は全て希望的に、明るく語って終わり……というわけではない。時代が変わろうとしている……でもそんななか、取り残されていくのがイザベラ・ヨーク。
イザベラ・ヨークはどこかの伯爵と結婚し、その後も半幽閉生活を送っている。伯爵は町の人と会ったりしているそうだけど、奥方となったイザベラは人々の前に姿を現すこともなかった。
伯爵のような地位の高い人となれば、結婚していなければ「体面」に関わる。女は結婚して家庭に入らねばならない、という社会的な縛りがあるのだが、実は男性も社会的な縛りを受けている。男性も社会観に束縛されている……という話はあまり……というかほとんどされないのだけど、実際には縛られている(フィクションでもなかなか題材にされない。男だって男として生きていくのはしんどいのだが……。男の立場は大抵の場合、「縛る側」としか描かれない)。おそらくは伯爵も、伯爵という地位を持つ男として生きるために、(体面を保つために)結婚をしたのだろう。夫婦生活に愛情があるかどうかも疑わしい。
イザベラとその夫である伯爵は、封建時代の残滓、過去の時代観として取り残されていくように描かれる。イザベラは希望ある新しい時代のために、「礎」となったのだ(あるいは生け贄)。しかしイザベラは、礎となった自身に悲嘆しきっているわけではない。自分が望んだとおりにテイラーが未来を築こうとしていることを知り、そこに想いを託していく……。
こういう描き方に、「過ぎ去っていく時代への郷愁」のようなものもちらっとあるのかな……という気もする。やはり前半の封建的な寄宿学校の様子をこれでもかと美しく描いてみせたわけだし。確かに「自由」はなかったけど、あの時代にはあの時代の「理想」があって、それはやがて過ぎ去っていく美しいものだった。過ぎ去っていく時代に郷愁を見せつつ、新しい時代の到来を寿ぐ。その二つの時代観を繋ぐ美しさとは――それが「完全なる美」である白椿に託されたものかも知れない。「愛」こそが「完全なる美」だ。
という『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』のストーリーだが、エンドクレジットを見て、そこで監督が「藤田春香」だということに気付いて驚いた。テレビシリーズの監督「石立太一」だと思い込んで見ていたからだ。藤田春香はテレビシリーズの『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』と『響けユーフォニアム』で演出補佐を務めた作家だ。どうやら今作でついに監督デビューを果たしたようである。
ということは、女性監督による女性映画……が今回の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の姿だったのだろう。女性という立場から、いかにして作品と向き合うのか。なにを社会に提示するのか。そうしたテーマが生まれてきて、しかも強力なメッセージを持つのは、女性監督だったからだろう。
「女性の自立」というテーマの意味合いも異なってくる。アニメの業界はもともとは男性社会。そこに女性が立ち入って主張し、地位を獲得していく。男性が中心のアニメ業界で女性が生き抜いていくには……という自身の立場も作品のテーマとして引っ掛かってくる。
……といってももともと京アニは女性が高い地位にあった希有な制作会社だったけども(作監、演出に女性が多い)。
京都アニメーションとしても新境地だ。京アニといえば『けいおん!』『聲の形』を映像化した山田尚子監督がいるのだが、山田尚子監督の持ち味は女性の閉じた世界。イノセントを表現することに徹している。これも女性ならではの美学だ。一方で藤田春香はフェミニズム的な提唱を映画で展開した。こうしたメッセージ性まで持つようになったのは、大いなる変化だ。
まさかアニメでこうした「女性としてのアイデンティティ」をテーマにした作品が出てくるとは予想もしておらず、かなり驚いた。ヨーロッパ的な女性観がまさか日本のアニメの中で描かれるとは。それもライトノベルというジャンルの中で描かれることに、ジャンルとしての成熟を感じる。実写映画でならそういう作品はあるのだけど、いよいよアニメでもそうしたテーマを描く時代に入ってきたのか……。
劇場版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は作品と接していてファンタジーであることを忘れる見事な作りだ。世界観の作り込みがとにかくも精密。確かにヨーロッパ風の世界観を借りているのだけど、オリジナルの世界観。それを現実のものと感じられるレベルで作り込んでいる。ちょっと頭のおかしいレベルのクオリティだ。オリジナルのファンタジーでありながら、ヨーロッパ的な思想の変遷を見事に移し込んでいる。いっそヨーロッパ人が観た方が驚くじゃないか……という内容だ。
こうしたものがテレビシリーズの世界でポンと生まれて、しかも劇場作品として成長していくのは、本当に素晴らしいことだ。京都アニメーションの技術がいかに凄いか、がこの作品を通して見えてくる。