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映画感想 初代ゴジラとシン・ゴジラを見比べてみる
初代 ゴジラ
最初のゴジラが劇場公開されたのは1954年11月。同じ年には黒澤明の名作『七人の侍』が公開されており、『七人の侍』は3時間超えの長尺映画でありながらメガヒット。この興業記録はそうそう打ち破られる物じゃないだろう……と語られていたが、まさかの同年11月に公開された『ゴジラ』の記録的大ヒットによって打ち破られることとなる。『ゴジラ』の観客動員数は961万人。当時の国民10人あたりに1人が観たという計算になる。1954年当時、誰もが『ゴジラ』を観て、その話題をしていた。1954年という時代を本当に代表する映画であった。
ストーリーを見てみよう。
ある夏、小笠原諸島付近を航海中だった貨物船が突如、消息を絶った。それを調査&救助に向かった船も次々と同じ地点で消息不明になってしまう。いったい何が起きたのか……。
映画を観ていると海難救助隊の事務所には貨物船の家族が詰めかけてくるのだが、対応する職員達はまだ笑顔。軽い感じに「大丈夫ですよ」と受け答えをしている。これは興奮している家族を落ち着かせるため……というのもあったが、まだ状況がわかっていなかったからだ。それが調査に向かった船が次々と消息を絶った……という話を聞いて、次第にみんなの顔が強ばってくる。
この過程で主人公は……登場してくるものの、影は薄い。どちらかというと、事件が起きて、その事件の反響や騒動といったほうにディテールを作り込んでいっている。
お話は港湾会社のシーンから大戸島へと移る。あの貨物船の唯一の生存者が島に流れ着いたのだ。
島の老人は、これは「呉爾羅の仕業かも知れん……」と語る。古くから大戸島に伝わる伝説の化け物だ。島の住民ですら、「そんな化け物いるか!」と笑うような話だが、老人は頑なに「ゴジラはいる!」と語る。
その夜……島を暴風雨が襲う。木造の家が風の力で破壊されかねない巨大な台風だ。だが台風だけではない。風の音に混じって何か不穏な……巨大な足音のようなものが近付いてくる。
あの貨物船の生存者、政治は「あの怪物だ!」ととっさに思い、家を飛び出す。家族も怪物の姿を見たが、あまりの恐ろしさに家の中に飛び込む、そこを踏み潰されて全員が死んでしまう。
大戸島が何かしらの襲撃を受けて壊滅した……という話を聞き、古生物学者の山根恭平博士は調査団を結成して大戸島へと向かう。現地での調査を始めると、村のあちこちが奇妙な穴ぼこだらけになり、しかも放射能汚染が検出される。この穴ぼこは何者かの足跡じゃないか……。それも古代生物の。山根博士はそう推測する。
とやっていると、遠くの方で巨大な足音が聞こえる。村の人々が興奮気味に「あっちだ!」と声を上げる。
映像を見ていると、島の住人達は猟銃や刀を持っている。まだ銃や刀で対処できる相手だと思っていたのだろう。あの足音をのほうへ向かおう駆け上ったところで、その稜線よりも巨大な怪物の姿がぬっと現れ、住人達はパニックに陥る。
ここまでが前半25分の内容。
映画を観ているとただひたすらに状況や騒動が描かれるばかりで、キャラクターが出てこない。主人公は比較的早くに登場しているのだが、影は薄いし、その後しばらく登場もしてこなければ特に活躍もしない。志村喬演じる山根博士が登場してくるのも15分を過ぎてから……とかなり遅い。
それにこの人物達が何かしらドラマを演じ、何かを達成することを最終目的にしているのか……というとまったくそんなことはなく、人間のドラマはごく薄い。映画は「何かが起きた」「謎の怪物が出現した」その状況を描き込むことに徹底している。
そう、初めて描かれた『ゴジラ』は「なんだかわからない物」だった。そのなんだかわからない物が夜な夜な海から現れ、東京を徹底的に破壊して、夜明け前に海へと去って行く。理由もなければ意味もわからない。ただただ恐い。ある意味、ホラー映画ですらある。そのなんだかわからない物が街をこれみよがしに破壊しに来る……ゴジラは理不尽で不条理なものであった。
ゴジラが初めて登場するシーンは、大戸島の山を登っているシーンだが、唐突にゴジラの顔がぬっと現れる。その顔が不気味に歪んでいる。後のゴジラ像と違い、イケメンじゃない。最初のゴジラは化け物の顔をしていた。
次に東京湾出現シーンが描かれるが、この時のゴジラは(海から出てきたばかりだから)全体がヌメヌメしていて、それが闇夜に現れる光景は本当に不気味でなまめかしい化け物のように見える。当時この映画を観た人々は恐かったはずだ。
これを読んでいる人は、もしかすると本作『ゴジラ』あるいは「特撮もの」は「子供向け」「マニアのもの」と思ってはいないだろうか。それは後々の人の評価であって、この最初のゴジラが描かれた時代は、本当に未知なるものであったし、本作が提起したテーマは評論家や文学者が語るほどのものだった(「あんな怪物いるわけがない」という批判も当時からあったが)。
『ゴジラ』をリアルタイムで観ていた人、といえば宮崎駿もその一人なのだが、大戸島のゴジラ登場シーンが来た時、映画館中の観客が一斉に椅子の上でのけぞった……と語っている。ゴジラ登場はそれくらいショッキングなシーンだった。
不思議な話だが、ゴジラは「戦争で死んだ英霊説」というのもある。というのもゴジラは夜な夜な東京に現れては、理不尽に東京の街を破壊し尽くして海へ帰っていくという化け物である。理由が不明だし、意味もわからない。ただ、夜に現れるという光景がなんとも不気味だ。そこから「あれは戦争で海に散っていった英霊が戻ってきているんじゃないか」と語られるようになっていた。
それで、ゴジラの進路を観ていると、銀座の街を破壊し、その後皇居へ行くのかと思ったらそこで180度回れ右をして国会議事堂を破壊して海へと去って行く……。この謎の進路を取るのは、ゴジラを突き動かしているのは英霊達だからではないか……? 最初のゴジラはただただ不気味だったし、謎の進路を取ることからこういう説が唱えられていた。
冷静に考えれば、皇居を破壊できなかったのは「大人の事情」。国会議事堂を破壊したのは、当時からあった国会議員に対する批評だったのではないかと思う。
国会議事堂で議論される場面があるが、一方では人々への配慮や経済への影響を考慮して全て公開すべきじゃない、すると野党は「真実だから全部公開すべきだ!」……と野次を入れる。野党は一見するとまともそうなことを言っているように見えるが、単純にイデオロギー的な対立に過ぎない。とにかく「はんた~い!」と声を上げているだけ、実のある反対というわけではない。そういう国会議事堂で繰り広げられている不毛に対する批判は、もうこの時代にあったわけだ。『ゴジラ』が制作された時代は、吉田内閣への不信があり、そうした政治への批判が、国会議事堂破壊の場面に繋がったのだろうと考えられる。
(余談ながら、その国会議事堂が出てくるシーン。私は「え?」と画面を戻してしまった。国会議事堂周辺の風景が現代とまるっきり違う!)
「ゴジラ=亡霊」説を取り上げたのは、実はこの説、『シン・ゴジラ』にも繋がっている話。それは後ほどしよう。
『ゴジラ』あるいは「特撮物」が子供やマニア向けに陥っていったのは、その後の話だ。『ゴジラ』が公開された当時、特撮のあまりの精巧さに、当時の人々は実景と特撮の区別が付かず、『ゴジラ』の映像はただただ驚嘆だった。
しかし人間の目は慣れるものであって肥えるものだ。私はファミコン世代だから、この現象はよくわかる。最初の頃というのは、ささいなものに驚いたり、後々よく見ると大したものでもないのにリアリティを感じたりするものだが、文化が発達して人々の意識が変わっていくと、「なんだ、ただのミニチュアか」「ただの着ぐるみか」とその対象から感じられる意識を変えていく。
不思議なことにこれは個人ごとに起きるのではなく、社会ごとに起こる。社会認識がアップデートされてある時代までミニチュアと実景の区別が付かなかったものが、「なんだミニチュアか」という意識を持つようになると、その時代のほとんど全ての人々が同じような意識を持ち始める。そして、その以前の認識に戻ることができない。社会認識が創作が描いているものの向こう側へ行く瞬間だ。幽霊はそのうち「枯れ尾花に過ぎない」と社会そのものが見破ってしまうのだ。
CGが登場してきた最初の頃も、CGの恐竜を観てみんな驚いていたものだが、今では逆にCGだと誰も驚かなくなっていった。どんな凄い映像を持ってきても「どうせこれもCGなんでしょ」と……。CGが生まれたことによって、人々が驚きを得るためのハードルが一気に上がってしまった。
『ゴジラ』や「特撮物」が子供向けやマニア向けのもの、という認識はこういう時代観を経た後の視点であって、個々に特撮物を観ていこうと思ったら、その時代の人々の感覚も同時に観ていかなければならない。その時代のテーマが何であって、『ゴジラ』といった怪獣を用いて何を語ろうとしたのか……それを読み取らなければ、作品を理解したとは言えない。
だが、特撮物は確かにそのうち「子供の物」になってしまった。時代感覚はやがて「特撮は特撮に過ぎない。本当ではない」という認識を持つようになり、特撮からリアリティを読み取れるのは子供だけになってしまった。時代認識は特撮の持つリアリティの向こう側へ行き、特撮という表現だけが過去に残されてしまった。それ以降も『ゴジラ』は作られ続けたが、ゴジラは時代のシンボル、怒りやメタファーではなくなり、ただの子供のヒーローになってしまった。
この「子供のヒーロー」としてのゴジラはそのまま現代のハリウッド版『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』へと系譜が繋がっていく。
では庵野秀明『シン・ゴジラ』は? それは後ほど語るとしよう。
『ゴジラ』本編のお話に戻ろう。
間もなくゴジラが品川沖に上陸。人々はゴジラの脅威を目の当たりにする。
ここからが面白くなってくるシーンで、即座にゴジラ対策として東京湾一帯を有刺鉄線で囲み、電流を流す作戦が開始される。
映像を見ると、エキストラの投入が凄まじい。画面一杯に埋め尽くす人の群れ! 自衛隊のトラックに乗り込み、輸送される人々。戦車も次々登場してくる。特定の人物はほとんど登場してこず、そこに起きている騒動と群衆をただひたすらに描いている。1950年代映画とはいえ、なかなかリアルな描写だし、この時代の人々がどんな格好をして、どんな場所に住んでいたのか、避難する時なにを持って外に出たのか……こういった世相が見えてきて興味深いシーンだ。この時代、まだ荷物を風呂敷に包んで運ぼうとしてたんだな……。
この辺りから実景と特撮の合成が出てくるのだが、造りがなかなか上手い。この時代の映画だからフィルムが揺れるので気付くが、あの揺れがなかったら東京湾を囲んだ鉄条網を本当だと思ってしまうかも知れない。よくできている場面だ。
しかし山根博士はゴジラ討伐に対して反対の意見を表明する。ゴジラは巨大とはいえ、生物だ。それを殺すなんて、古生物学の立場から賛成できない。それに、人間の手で生み出した怪物を、人間が滅ぼすのは、それはエゴではないか……という立場だ。
『ゴジラ』の作品テーマの中には、「原水爆」という人間のエゴの産物があり、それによって生み出された怪物を、自ら滅ぼすことがいかにエゴスティックな行為なのか……という主張がある。ゴジラは原水爆のメタファーであったから、その是非について突きつけるような描かれ方をしている。
この話も『シン・ゴジラ』に通じる話だから一旦置いておくが、とりあえず私からは「数千人が死んでるんだぞ!」とこれだけは言っておこう。
いよいよゴジラ襲撃。有刺鉄線に流した電流でゴジラを仕留めようとするが、それはただゴジラを怒らせるだけだった。怒り狂ったゴジラは東京を灰燼に帰してしまう。
そこからは15分間に及ぶ破壊描写! ミニチュアセットの街が徹底的に破壊されていく。当時のこととはいえ、これだけのものをよく作ったな……と驚くような破壊描写だ。
破壊描写の後は、病院のシーンへと続く。大量の怪我人。死人。生存していても、放射能汚染にやられてしまい、後遺症は避けられない。
この破壊後の描写は、「もしも東京に原爆を落とされたら」という譬え話のような描かれ方をしている。描写そのものはゴジラによる破壊だったけれども、あれがもしも原爆だったとしても、その後の風景は同じように描かれただろう……そういう描き方が意識されている。
さて、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の感想の時にサパスタインの話をしたが、彼がロサンゼルスの劇場へ『ゴジラ』の偵察に行った時、観客の反応も確認にいったのだが、ゴジラが次々に街を破壊する描写に、観客は喝采を上げていた。単に巨大なものが街を破壊する描写は痛快……というのもあったが、ゴジラの破壊は人々の怒りを代弁するものでもあった。破壊描写を見て、「ざまーみろ」感があったのだ。
平成『ガメラ』では渋谷にガメラが降り立つが、渋谷の街が破壊され、大量に人が死ぬ姿が描写される。私の記憶では、絵コンテには「バカな若者が……」と説明書きにあったように思える。
怪獣は――目障りなあいつらを、俺たちに代わって潰してくれる。鬱陶しいやつらを皆殺しにしてくれる……。よくやったぞ! もっと殺せ! バカで目障りの若者を片っ端から殺せ! 殺せ! ――と怪物は普段思っても言えないこと、できないことを代弁してくれる。鬱憤を晴らしてくれるものでもあった。怪獣が破壊する街を見て「ああ、自分たちの街が……」という感慨以上に、「もっとやれ!」という感覚があった。「ざまーみろ」感だ。
初代『ゴジラ』に込められた想いは、原水爆の恐ろしさと、それが人々にどんな影響をもたらすか……という恐怖と畏怖の対象として描かれていたはずだが、その感覚は次第に、人々が思うような「目障りだからぶっ壊してくれ」という怒りを代弁するものへと変換されていく。『ガメラ』は実際にそういう描き方をされていた。
街が破壊される恐怖よりも、手前勝手な「ざまーみろ」感の方が勝ってしまった。それは、所詮は怪獣が出てくる映画は虚構であり、あの街はミニチュアでしかない……という認識にみんな至ってしまったから……というのもあるだろう。その後のゴジラは、そういう人々が思うとおりにものになっていった。
ゴジラの徹底した破壊の後は、芹沢博士を説得するシーンに入る。ここは『キング・オブ・モンスターズ』の中でオマージュが捧げられたシーンだ。
まあ重要なシーンではあるのだが……この辺りの演出の組み立てははっきり良くない。どの台詞回しもわざとらしいし、納得感がない。というか、わざとらしすぎて笑えてしまう。
映画としての『ゴジラ』の難点は、こうした人間のドラマが薄いこと。破壊の描写や人々の騒動は丹念に、かなりのリアリティを持って描かれている分、人間のドラマがかなり雑。短い尺の中で感情の動きを描かなくてはならないから、展開が強引になってしまっている。それで、結果的に笑えるものになってしまっている。
この後が映画の一番のクライマックスなのに、なんか惜しい問題を残してしまったなぁ……。
まとめ
まとめとして初代『ゴジラ』はどうなのかというと……正直なところ、今の感覚でいってあまり面白いものではない。まずいって、なにもかもがショボい。この時代の最高技術による特撮で作られたのはわかるが、それを今の時代に見るとおもちゃにしか見えない。そう見えてしまうくらい、私たちの目も肥えてしまったのだ。認識もアップデートされてしまったから、あの『ゴジラ』にリアリティが得られるかというとかなり厳しい。あらゆるシーンがツッコミどころだらけになってしまっている。当時の人と同じような純粋な気持ちで初代『ゴジラ』を見られるか……というと無理。小さな子供だって、初代『ゴジラ』を見たら「ショボい」と言うだろう。エンタメとして見ると初代『ゴジラ』はもう過去の映画でしかない。
それは仕方ないこと。時代が変われば、ものの見方は変わるのだ。創作は永久不変ではない。その当時では問題なかった作品でも、時代が変わると「差別表現と認識される物があるから」と封印されてしまうこともある。そんな30年前や60年前の創作物に言っても仕方ないし、今の時代の作品だから別にいいじゃないか……とは思うのだが、社会の認識はそういうわけにはいかない。現代人は現代の意識でしか考えることができないし、永久に“現代”という時代観に捕らわれ続けるのだ。それが現代人の弱さ……現代人の頭の悪さである(「現代」という感覚がその他の全ての時代と同じだと思い込んでいる)。
特撮といえば子供向け・マニアのものという認識も、その後に作り出された意識だし、怪獣の破壊に脅威ではなく「ざまーみろ」感を覚えるようになったのも、後の認識。私たちはそういう後の認識でしか、過去のものを観ることができないのだ。だからほとんどの現代人は、現代の作品しか読むことができないわけだ。
じゃあこういった古い映画はどのように観るべきなのか、というと歴史を掘り起こす感覚だ。その時代感覚がどういったものか。時代認識や思想……そういったものを知るツールとなる。
特に『ゴジラ』は時代にぴったり密着している。1954年とはいえ、まだ背後に「戦後」が見える時代で、現代的な豊かさもなければ、その以前の古い日本文化もまだ色濃く残している。ほんの10年前には、空襲によって焼け野原になっていた、という記憶もまだリアルだった時代だ。大戸島の風景も、あの時代、実際に漁村の人々が着ていた格好だし(現地の人が撮影に参加した)、猟銃や刀ももしかすると映画の小道具ではなく、大戸島の人々が持っていたものかも知れない。
特に我が国は原爆を落とされた国だし、さらに水爆実験の脅威にも晒された。そうした時代観を踏まえて、なぜ『ゴジラ』が制作されたのか、なぜゴジラという怪物が生み出されたのか。それを追求していくだけでも、1954年という時代が見えてくるだろう。それを知るためのツールとして初代『ゴジラ』は生き続けていくだろう。
余談
ゴジラの画像が国会で取り上げられるシーンだけど、このシーンの写真、捏造だと思うんだ。議員たちを脅かすための。ゴジラの姿が違うし、こんなふうに稜線に手は置いてなかったし、なにより構図が空中からの撮影になっている。
シン・ゴジラ
続いて『シン・ゴジラ』の話を始めよう。
今回、初代『ゴジラ』と『シン・ゴジラ』を並べてみたのは、『シン・ゴジラ』を初代『ゴジラ』のリメイク作品として観よう……という趣旨によるものだ。『シン・ゴジラ』が初代『ゴジラ』のリメイク作品……というのはあまり言われないことだが、続けて視聴すると共通点だらけというか、改めて見るとこれはリメイクじゃないかという発見があったから、今回並べて作品を語ることにしてみた。
まず冒頭のシーン。
「ゴジラ」のタイトルバックに足音、ゴジラの咆哮。ゴジラの咆哮はわざわざ古いバージョンの物が使用されている。これも初代ゴジラとほぼ同じ構成。
このタイトルバックの後に映像が始まるが、全面海で、船尾から噴き出る水しぶきの画が映し出される。比較してみると全く同じ画が出てくる。
しかし内容は少しずつ異なる。『シン・ゴジラ』では東京湾横浜沖。遠くには港の風景や、タンカーが横切る姿が見える。そんな只中を漂っているプレジャーボート。しかし中は無人で、揃えた靴が残されている。
靴が揃えられているのは、昔からあるサインで、その乗員が自殺したことを示唆している。姿を消した乗員はノートらしきものと折り鶴を残していた。
ここで『ゴジラ』の話の中で、「ゴジラ=英霊説」があったことを思い出していただきたい。初代ゴジラは、太平洋で散っていった日本兵の亡霊ではないか……という説があった。『シン・ゴジラ』もそれに近い考え方が採用されている。では『シン・ゴジラ』はいったい誰の亡霊なのか……が、今回の作品を読み解くテーマとなっている。
「ゴジラ」の名称についても、大戸島の伝承から「呉爾羅」の名前が採用されている。英語名「GODZILLA」も採用されているのは、「ゴジラ」という文化が英語文化圏を一度通過しているためだ。大戸島の伝承の「呉爾羅」は言うまでもなく、初代『ゴジラ』で初めて「ゴジラ」の名前が使用されたシーンから採用されている。これは単に過去作へのオマージュというだけではなく、「もう一度最初からゴジラをやろう」というリメイクの意思があるからだと感じられた。
初代『ゴジラ』と『シン・ゴジラ』の共通点はここまで。ここから『シン・ゴジラ』は違う展開に入っていく。
リメイクなのに、なぜ展開が違うのか? 過去作への敬意があるなら、まったく同じに作るべきじゃないか……という意見もきっとあるだろう。しかし『シン・ゴジラ』は「現代」を描くことをテーマとした。なぜなのか?
そもそもゴジラとは、「理不尽」な「現象」そのものだ。海からやってきたなんだかわからない怪物に、日本中が混乱し、その対応にそれぞれが知恵を出し、苦心する……ということがメインテーマとなっている。初代『ゴジラ』は1950年代という時代背景を基に描き、(いま観ると見劣りはあるものの)その時代に試みた物としては完璧に作られている。わざわざ同じ時代感のものを再現する意味がない。もしもリメイクとして描くならば、1950年代という世相を描くよりも、2010年代という時代を描いたほうがいいだろう。ゴジラという題材を使って、今のこの時代をどのように描くか……こちらをテーマにしたほうが、映像化する意義がある。
描いている時代は違うが、根本は同じだ。初代『ゴジラ』にしても、海からやってきたなんだかわからないものに対して、人々の騒動や、政治や自衛隊がどう対処するかが延々描かれていた。初代『ゴジラ』を観ても、人間のドラマはごく薄い。
それが『シン・ゴジラ』にしても同じアプローチで2010年代にあのような巨大生物が現れた時、人々がどんな反応をしてどんな騒動が起こるかがシミュレーションされた上で描かれ、さらに政治がどのように対応するかが丁寧に描かれていった。
『シン・ゴジラ』が初代『ゴジラ』のリメイクだとしたら、これ以上ないアプローチ方法できちんと描かれていると言える。
さて、『シン・ゴジラ』は早々に閣僚が集まり、官邸執務室での会議が始まる。展開が早い。開始4分というスピーディさである。
最初は海底火山ではないか……という話だったが、「尻尾」の映像によってどうやら巨大生物だった……ということが明らかになった。
巨大な尻尾が現れた時の映像。閣僚達が、かなり大袈裟に驚いている。これはあの映画の世界観には「特撮」や「怪獣もの」の歴史がない……という前提で描かれているからだ。『シン・ゴジラ』の世界観は私たち世界とちょっと違ったifになっており、エンタメ世界に「特撮映画」は存在せず、巨大怪獣もウルトラマンも存在していない……ということになっている。そういう世界観の人が、ある日突然あのような巨大生物を目撃したら、どう感じるか……。それこそ、初めての『ゴジラ』が公開された時、「映画館中の人々が一斉に座席の上でのけぞった」という光景が再現されるはずなのである。私たちのような映像の世界の怪獣なんていくらでも観ているから、オーバーに見えるが、本当にああいった怪獣映像を知らない人たちが観ると、あれくらいの驚きが普通なのである。
それにしても官僚の世界はなにかと面倒くさい。始まって10分ほどの所に、こんな台詞が出てくる。
矢口「速やかに巨大不明生物の情報を収集し、駆除・捕獲・排除と各ケース別の対処方法についての検討を開始してください」
平岡「それ、どこの役所に言ったんですか?」
行政の縦割り問題を突きつつ、少し面白く表現したシーンだ。指示があっても、役割と責任がどこにあるのか、それを明示しないと動くことすらできない。日本人は上も下も、責任の所在を決めるのが下手。「俺が全責任取る」とか格好いいことを言う奴もいない。だからあらかじめ決めておく。決めていない事態が現れると、みんなで「どうしよう、どうしよう」と慌て始める。
政治の世界は幕府の時代から、メンツが大事。みんなで恥をかかないように仕組みがきちんと作られている。総理レクチャーという場であっても既定路線。
はじまって5分ほどのところで、「海底火山じゃないか」という話をしたところで、「震源地が浅く、噴出物の成分はただの水蒸気と思われ、積極的に火山の噴火とは認められない事象でして」に対し「えっ、そうなのか。なら早く言え」と言い返す場面がある。これも既定路線で「火山噴火です」と進めるはずが、「それはない」と意見が出てきたから「そういうことは、レクチャーが始まる前に言え」と官僚を恥をかかせるな……という場面だ。
自衛隊の扱いについても、こんな台詞が出てくる。
「過去有害鳥獣駆除を目的とした出動は幾度かありますが、海事による東京湾内での火気の使用は前例もなく、なんとも……」
(巨大生物襲来に対し、自衛隊に防衛出動が下令されるのではなく、害獣駆除として災害派遣するのが対処としては打倒……という意見もある。どちらが正しいかは私にはわからない)
巨大生物が出てきた! じゃあ大統領命令で軍隊出動だ! ……というわけにはいかない。自衛隊を出動させるにしても、どういう前例に基づいて出動させるべきか、過去から参照を探してこなければならない。出動しても、総理の一声で「出動だ!」というわけにはいかず、書類による手続きが必要になってくる。実に面倒くさい。
後のシーンでゴジラによる避難民が出て救済措置を出す時ですら、やっぱり書類とサインが必要。面倒くさい手続きを一杯通らねばなにもできない仕組みになっている。
出てくる官僚はみんな早口で、ふとすると何を言っているのかわからないようなシーンが最初から最後まで続く。その最初のシーン、総理は周りから指示を受けて、ようやく「ああ、そうか」「わかった」と簡単な受け答えしかできていない。総理もあの雰囲気に飲まれているような描き方が、リアルに感じられた。
こういう描写を一つ一つ、きちんと取り上げて描くことが現代の『ゴジラ』を描く上で欠かせない。「巨大不明生物が出現した!」これに対して政府レベルでは何をするのか。情報収集し、何かを決め、その何かを実行するために過去の前例を突き合わせ、書類を作り、手続きを経て実行する。これが今の政治の仕組みだから、その通りにきっちり描く。『ゴジラ』という題材で時代を描こうと思ったら、これこそ一番妥当なアプローチ方法だ。
それにしても、どうして庵野秀明監督は、ここまで官僚の仕事や仕組みに興味を持って、深掘りしたうえで映画を作ったのか?
話は簡単で、ドワンゴ会長川上量生が『シン・ゴジラ』の企画に関わっており、その川上量生の奥さんがまさに官僚。そこで官僚には官僚の苦労がたくさんあって、大きな災害があると不眠不休で働いているのに関わらず、その苦労が一般にはまるで伝わらず、それどころかことあるごとに揶揄され非難されてしまう。その苦労話を聞いた庵野秀明はそれなら官僚をきちんとした調査に基づいて描こう……と『シン・ゴジラ』の方針を固めたというわけである。川上量生の奥さんから、取材の申し入れや手続きもできるので一石二鳥……という事情もあった。そういった経緯があって官僚の仕事をここまで正確に描くことが可能になった。
詳しい話は電ファミニコゲーマーにて記事化されているので、そちらを参照にして欲しい。
→電ファミニコゲーマー:カドカワの社長退任や『シン・ゴジラ』の舞台裏、そして教育事業に賭ける情熱とは?──川上量生・特別インタビュー
その一方で、オミット(排除)された要素もある。
「御用学者」と「ゴジラがかわいそう」という視点だ。
御用学者が登場するシーンがあるが、老人学者達はまったくの無能。初代『ゴジラ』では山根教授が出てきて、「大戸島に現れた巨大不明生物は古代の恐竜である」というふうに自説を発表するシーンがあり、これが「ゴジラとは何者か?」を解説させる役割も含んでいたのだが、こういった御用学者の役割が排除された。
これは……やはり現実に御用学者という連中がまったくの無能……ということが世間的に周知されてきたからじゃないか、という気がする。御用学者は相変わらずあの界隈にいて、政府に対して何かしら説明しているらしいが、「いったい何を吹き込んだ?」みたいな話があちらの世界ではよく出てくる(特に経済関係は!)。そういう御用学者に対してはもはや同情的には描けない……ということだろう。
もう一つ排除された要素が「ゴジラがかわいそう」という視点だ。初代『ゴジラ』でも山根教授は、「ゴジラは人間の手で生み出され、それを人間の手で殺してはならん」と反対の立場を取っていた。
私は正直なところ、この意見は「不遜」に映った。なぜならゴジラが首都圏を通過すると、それだけで数千人の人々が死ぬ。それだけではなく、ゴジラが通った後、放射能が撒き散らされ、以降生活ができない区域になる。数千人が死んでいる状況を無視して、「かわいそうだから殺すな」という意見は正気とは思えない。じゃあゴジラが何人もの人を殺していく状況を無視していいのか? という話になる。
(残された遺族の前で、大量殺戮をやらかした殺人鬼を「かわいそうだから殺すな」……と言えるのか?)
実は初代『ゴジラ』が公開された当時、「ゴジラを殺すのはかわいそうだ」という意見がかなり多かったそうだ。あそこまで東京が破壊され、死人が出て、その後に放射能に汚染されていく状況を見て、どうしてそんな意見が出るのだろう……と不思議に感じる(もしかして映画の内容を理解できていないんじゃないか)。
映画の「ゴジラ」シリーズもやがてこういった「かわいそう」という意見を取り入れるようになっていき、ゴジラは死ななくなるし、ゴジラが通過した後もさほど危険ではなくなってくる。ゴジラが安全無害になっていく過程が、ゴジラシリーズの歴史の中に実際あった。その行く先がハリウッド版『ゴジラ』のほうである。
動物愛護の精神が進みすぎ、「人間なんていくら死んでもいいから、動物を大切にしよう!」という意識が生まれてしまった。デジタルゲームに対する批判にわりとある意見が、「モンスターを殺すのはかわいそうだ」という意見だ。これを聞くたびに、私は「おいおい……」となる。「そのモンスターに多くの人間が殺されているんだぞ」……と。でも人間はどうでもいいから、動物が……みたいな意識になっていく(あと「動物」と「モンスター」はまったくの別種だ)。
モンスターだと話が大きく感じるので、話を小さくしよう。
田舎で実際に起きていることの一つにアライグマによって畑が荒らされている……という事態がある。何かのアニメに影響されてアライグマを飼ってみるが、しかしペットにするには気性が荒く、手が付けられなくなりそのうち「森にお帰り」と手放してしまう。それが森の中で繁殖して、農家の畑を襲うようになる。
「アライグマを駆除するのはかわいそうだ」……という話をしたら、じゃあ農家の人はかわいそうじゃないのか? その農家で生産された食べ物は、やがて市場を通り、スーパーで売り出されるかも知れないものだ。自分たちの食が脅かされている……という認識はないのか?
『シン・ゴジラ』の後半に入り、矢口の事務所の周囲には左翼の人々が集まり、太鼓を叩きながら「ゴジラを守れ!」と反対の声を上げる人々がやってくる。それに対して、右翼の人々も集まり「ゴジラを倒せ!」と声を張り上げている。
(私はこういう人たちのことを「暇人」と呼んでいる)
こういったところで、「ゴジラを殺すのはかわいそう」の視点が描かれてはいる。でも作品も「ゴジラがかわいそう」の意見は「不遜」なものとして切り捨てるように描いている。
『シン・ゴジラ』で大きく変わったところといえば、災害の描き方。
初代『ゴジラ』は巨大怪獣が現れ、ただひたすらにパニックになる人々や、理不尽に殺されていく人々の姿が描かれてきたが、ゴジラの描かれ方は次第に変わるようになっていった……という話は既に書いた通り。ゴジラは次第に無害な子供のヒーローになっていった。
ところが『シン・ゴジラ』はあらゆる人たちが災害に巻き込まれる、初代『ゴジラ』と同じような状況が描かれるようになった。破壊の描写を見て「ざまーみろ」感は一切ない。建物がなぎ倒され、人が死んでいく姿を見て「スッとした」とは言えないような映像を作っている。
これはどうしてなのかというと……やはり東北の震災を経てきたからだろう。
私もあの当時、ネットの映像で津波が迫ってきて、逃げ遅れた人たちが飲み込まれ消えていく姿を見た。海外のドキュメンタリーでは津波が去った後に残されていく死体も描写されていた(国内ドキュメンタリーだと死体はほぼ描写されない)。
何でもない、ごく普通にあの地域で暮らしていただろう、若者やおじさんおばさんがあっという間に波に飲み込まれて死んでいく……。それをCGや特撮でもなく、本当の物として観た時、私はどうしようもなく気分が悪くなった。本当の災害映像を目の当たりにすると、あんな気分になる物なのだ……と理解ができた。あの映像を見て、「スッとした」とか「ざまーみろ」とか思う人は、そうそういるもんじゃない(いたとしたら精神異常者)。
ああいった映像を、庵野秀明監督も見たはず。あんな大災害を前にして、「大破壊気持ちいいー!」みたいな映画が撮れるか……というと撮れるわけがない。それが『シン・ゴジラ』を初代『ゴジラ』に先祖返りする精神を作らせたのだろう。
ゴジラはシリーズを通過していくごとにどんどん無力化・無害化していったが、『シン・ゴジラ』になって改めてゴジラは「災害」の象徴、そして「原発」の象徴に戻っていった。ゴジラが通過すると理不尽に町が破壊され、人が死に、通った後は放射能汚染により人が住めなくなる。本来あるべきゴジラ像に戻っていった。
そのゴジラを驚嘆すべき怪物らしく見せるために、従来のゴジラ像すらも破壊した。最初に多摩川に上陸した時、本当になんだかわからない生き物として描いている。それが短期間のうちに変身・進化を遂げて、少しずつ私たちの知るゴジラに近付いていくわけだが……。
ゴジラを今までと違う姿にしたのは単に意表を突くため……ではなく、「あのゴジラ」が最初から出てきてしまうと、「ゴジラというキャラクター」として見てしまうからじゃないか……という気がしている。ゴジラというキャラクターだと思って見てしまうと、その姿を見て恐いとは感じない。制作者側は明らかに「恐い」と思ってほしくて作っている。今の時代、あの着ぐるみのゴジラを見て恐いと感じられるかというと、さすがに無理だ。私たちの感性は、あれをふとすると「可愛い」と言ってしまうくらいにまで進んでしまっている。
そうすると、「なんだかわからない得体の知れない何か」から出発した方がいい。訳のわからない何かを見た時、私たちは「なんだ?」と思うし、その対象に「気味の悪さ」を感じる。恐怖を感じて欲しい怪獣の姿に「安心感」なんぞいらんのだ。
最初はなんだかわからない何か……として描いたおかげもあり、その後の、あのお馴染みの姿になったときでも、相変わらず不気味に感じられる。今まで知っているゴジラとは違う、別の生物として感じられて、「嫌な感じ」がほどよく残ってくれている。
1954年当時、初めて「ゴジラ」なるものを見た時、劇場でその姿を見てびっくりしてのけぞったという人々は、あの姿を見てショックを受け「恐い」と思ったはずなんだ。実際、最初のゴジラ登場シーンは、「不気味」な印象だったんだ。さすがにあの当時の気分を今の時代に作り出すことは不可能だが、ゴジラに本来あるべき、「得体が知れず」「気味が悪い」感じをかなり取り戻してくれている。
ゴジラはゴジラという姿が大事なのではなく、ゴジラが……というか怪獣と接した時の「不気味」「恐い」という感覚の方が大事なのだ。
ゴジラの姿が変わると、攻撃方法も変わる。
まず炎を吐き、その炎が高層ビルの間をくぐり抜け、あまりの高温にすぐ手前のビルが焼けて崩れ、炎はどんどん温度が上がっていき、最後にはビーム光線のような形に変わっていく。この過程が信じられないくらい格好いいんだ。あのシーンを見るたびに、私は「うわー」と圧倒されてしまう。
ゴジラといえばあの口から出る光線でしょ……という先入観を打ち破っただけではなく、あれよりもはるかに格好いいし、しかもどのゴジラよりも恐い。こういうところは、さすがに『エヴァ』の監督らしい。あの攻撃方法を見てからハリウッド版を見ると、ちょっとダサいな、古くさいな……とすら感じられる。
一気にクライマックスシーンへとお話を進めていこう。
結局言うと、『シン・ゴジラ』でのゴジラは「倒せない」という結論だった。倒せない代わりに凍結させて、一時的に封印させてしまおう……と。
ゴジラは「災害」や「原発」のシンボル的な存在だ。そもそもそういった「事象」そのものを撃退するなんて不可能。せいぜい、脅威が迫ってきた時に身を守ることだけが精一杯だ。ゴジラが原発のメタファーだとして、メルトダウンした原発をすぐにその地域から排除して、元の生活ができるか……というとそんなことはできない。それは現実の東北の今が、現状を物語っている。そういった現状を踏まえて、『シン・ゴジラ』の結末は作られている。きちんと考え抜かれた結末だと言える。
しかもゴジラが凍結した場所……というのが東京駅真上。これが何を意味するかというと、鉄道を使ったインフラが使用不能になる、ということ。あの時点で東京は「首都」としての地位転落が確定してしまっている。
鉄道は東京を中心に地方へ広がっている、という構成になっている。この構成も全て作り替えなくてはならない。単に「東京復興ができれば……」という話に収まらず、全国の鉄道を全部見直す必要が出てきてしまう。
ゴジラが凍結された周辺は、いずれまたゴジラが動き始める可能性がるから居住不能になるわけだし、ゴジラ周辺を避けてインフラの再整備しなくてはならなくなる。ゴジラそれ自体も、チェルノブイリの原発のように何かしらで封印しなければならない。しかも(どうやら半減期の期間は短いらしいが)あの周囲は放射能まみれだろう。あの作戦に関わった人々も放射能汚染で元の生活に戻れなくなったはずだ。
ゴジラは倒せるものではなく、封印した後も共存していかねばならない。原発のメタファーとして、これ以上ない結末を描いている。
まとめ
『シン・ゴジラ』の感想文はここで終わりだ。
こうして初代『ゴジラ』と『シン・ゴジラ』を見比べてみると、リメイク作品だった、ということがわかる。ただし、初代『ゴジラ』の内容をなぞるのではなく、同じ状況になった時、今の人ならどう反応し対処するか……が描かれている。「時代」が違うだけで、「状況」は一緒なのだ。リメイクとしてこれ以上ないくらい正しいやり方だし、クオリティも非常に高い。
初代ゴジラを目撃した人がおそらく受けたであろう「不気味」で「恐い」という感覚を、『シン・ゴジラ』で取り戻してくれている。ゴジラが「災害」や「原発」のメタファーである……というモチーフも取り戻している。「ゴジラ」という姿が大事なのではなく、怪獣と接して「不気味」と感じる印象の方が大事なのだ。こういう基本的なことをしっかり押さえつつ、現代の作品として正しくアップデートされている。
リメイク映画には色んなアプローチ方法はあるかと思うが、単に過去作を今のカメラで撮るだけでは駄目だ。テーマを深く読み込み、いかにしてアップデートを図るか。『シン・ゴジラ』の場合はゴジラという怪獣を使って時代をどのように切り取るか。ゴジラというモチーフの正しい使いかただし、この試みのおかげで1954年『ゴジラ』に人々が初めて接した時の印象をかなり再現してくれた。『ゴジラ』を本当の意味で、最初に戻してくれた作品だった。
こうして比較して見ると、やはり『シン・ゴジラ』が初代『ゴジラ』のリメイクなのだ。
最後に『シン・ゴジラ』と初代『ゴジラ』の観客動員数と配給収入を比較して見よう。
初代ゴジラ 観客動員数961万人 配給収入1億5214万円。
シン・ゴジラ 観客動員数551万人 興行収入82億円(推定配給収入49億円)
『シン・ゴジラ』は大ヒット作だが、観客動員数を見ると551万人。これでも大ヒットなのだが、初代『ゴジラ』を見ると961万人。桁違いのヒットだった。ただし、当時はチケット代が非常に安かったので、配給収入は『シン・ゴジラ』のほうに軍配が上がる。初代『ゴジラ』も社会現象級大ヒット映画だった……ということがわかる。
ちなみに『鬼滅の刃 無限列車編』の観客動員数はおよそ2500万人。桁がさらに一個違うぞ……。
蛇足ながら、『シン・ゴジラ』が日本以外の国でたいして売れなかった……という話が出ている。検索してみると……スペインでの興行収入は91万円。確かに少ないけど、これはスペインで開催された「外国の映画を紹介するイベント」のなかでの話で、3日間のみでの計算だったそうだ。91万円という数字だけを見るとインパクトがあるから拡散されたようだ。アメリカでも『シン・ゴジラ』は公開されたが1億5000万円程度。やっぱりさほどでもない。
理由……? まずほとんどの台詞が何を言っているのかわからないからだろう。私でも半分以上わからない。でもだいたいのストーリーはわかる。なぜなら日本の話だからだ。
以前に『ROMA』という映画を見た時、私はよくわからなかった。あの映画はメキシコの社会情勢を知っていることが前提で、後で調べて「ああ、そういうことだったのか!」とわかった。メキシコの社会情勢を知ってからもう一度『ROMA』を観ると、ほとんど違う映画に見えてくる。やはり外国の社会情勢なんて知らないわけだから、そうしたその国での情勢を知っていることを前提とした作品は、外国の人には難しいものだ。
そういった話がなぜ映画の中で解説してくれないのか、というと、あれはメキシコの社会人なら一般常識の話だから。「知ってて当たり前でしょ」という話。
で、『シン・ゴジラ』だが日本の社会人なら一般常識でしょ……という話が一杯出てくるわけだけど、それを外国人が見てスッと理解できるか……というとそれは難しいだろう。
その上に、もしかしたら字幕映画だったんじゃないかな。あの難解な早口台詞がずーっと字幕で出る……と考えただけでしんどいだろう。試みにNetflixで英語字幕を見てみると……おっと、ものすごい省略されている。
ついでに『シン・ゴジラ』には鑑賞するのに親しみやすいフックがない映画だ。例えばハリウッド版『キング・オブ・モンスターズ』は、「家族のお話」という、誰にでもわかりやすいフックがある。これはどんな映画でも、難しい設定や政治状況を背景にあったとしても、前面にあるものがスタンダードな「恋愛物語」「親子のお話」「家族物語」を置いて理解させやくしている工夫がある。『スターウォーズ』でも結局は「親子のお話」で心情的なところで理解できるように作っている。『シン・ゴジラ』にはその要素が一切ない。いったい何をフックにして見ればいいか、わからないはずだ。
それに……やっぱりサパスタインは正しかった、と思うんだ。ゴジラは災害や原発のメタファーだが、そんなの外国人にわかるわけがない。映画を見ている人のほとんどは、作中に描かれているそれぞれが何々のメタファーなのか、なんて考えて見ていない。しかもそれが日本での社会情勢を反映した物……なんて言われても、世界の人からすれば日本という国がどこにあるかも知らん。だからゴジラを西部劇のヒーローのように描かれてきて、この系譜は『キング・オブ・モンスターズ』に繋がる。
結局の所、海外の人が怪獣映画に求めているのは、怪獣が街を破壊して「大破壊気持ちいいぜー! ヒャッハー!」という痛快さだと思うんだ。『シン・ゴジラ』は「災害」を真摯に描いた作品だから、この痛快さが皆無。ゴジラがあのお馴染みの姿じゃない理由もわからないだろう。
海外の人が『シン・ゴジラ』を見ようと思ったら、前提となる知識や心構えががっつり必要になる。それを考えると、売れないのも仕方ない話じゃないかな……。
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