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映画感想 ゆるキャン△

 もう一度自分を見つめ直すために。

 『ゆるキャン△』は2015年から『まんがタイムきららフォワード』で連載がスタートし、2019年からは『COMIC FUZ』に移籍して現在も連載が継続。現時点で600万部を超える大人気漫画である。『ゆるキャン△』がアニメになったのは2018年。アニメーション制作C-Station、京極義昭監督によるアニメシリーズは高い評価を獲得し、制作会社を変更しながら現在第3シーズンが放送されている。実在のキャンプ場をロケハンして丁寧に再現しただけではなく、キャンプ道具の扱いや料理シーンまでとことん描き込み、アニメがヒットしただけではなく、キャンプブームの火付け役にすらなった(『ゆるキャン△』放送後から山梨県へのふるさと納税額がいきなり10倍に跳ね上がったとか)。2020年には実写版『ゆるキャン△』が放送。こうした漫画の実写化としては、異例なくらい原作に忠実な作品として作られ、珍しくアニメファンからも評価されるテレビドラマとなった。
 そんな『ゆるキャン△』の劇場版が公開されたのは2022年7月。テレビシリーズを制作したスタッフがそのまま劇場版も制作。ただ登場人物達は女子高生から大人になっていて、自らキャンプ場を作る……というストーリーになっている。
 興行収入は全国121スクリーンという小規模ながら10億8100万円というなかなかの好成績。興行通信社による映画観客動員ランキング第3位。初日満足度でも第3位。いずれのデータを見ても評価の高い一本となった。

 では前半のストーリーを見ていこう。


 富士山を前にしたキャンプ場に、各務原なでしこ、志摩リン、大垣千明、犬山あおい、斉藤惠那、鳥羽美波といういつもの6人が集まっていた。夕食の準備をしていると、森を越えた富士の麓辺りから花火が上がった。どーんと空気が震える。夜空に散る火花が、真っ暗な湖面に色彩を与えていた。
「花火大会に合わせて来て、大正解だな」
「富士山と花火がいっぺんに見られるなんて最高だよ」
 そうしているうちに、鍋ができあがった。みんなで夕食を食べながら、山裾の向こうにあがる花火を眺めた。
 そんなひとときが終わって、なでしこたちは自分たちの将来を語る。高校を卒業したらどうしよう。みんなそれぞれの希望を語る。大人になっても、こんなふうに集まってまたキャンプをやりたいね――そう言い合って、その夜は終わるのだった。

 数年後。
 志摩りんは名古屋の小さな出版社に勤めていた。ライターの仕事を務めながら、日々新しい企画を書いては没をくらう日々……。楽しみは週末のツーリング。来週はどこへ行こうか……。先月は三重まで行ったから、今度は内陸を……と、突然にメールが来た。高校時代の友人、大垣千明からだ。
 話を聞くと、名古屋に来ているらしい。久しぶりに一緒に会おう……ということとなった。
 居酒屋で会うと、千明はイベント会社の仕事を辞めて、地元山梨の観光推進機構の勤めになっていた。そこで最近潰れた施設の有効利用を担当することになったのだが……。
「そんなに広い敷地なら、キャンプ場にでもすればいいじゃん」
 リンがそう言うと、千明の目の色が変わった。居酒屋を飛び出し、タクシーに乗って山梨まで! 件の廃墟へ向かうのだった。
 行ってみると、本当に何もない。広い敷地に草むらが旺盛に茂っている。理想的な広さに、階段状になった敷地をずっと下りていった先は森になっていて、森の向こうに富士山が臨める。眺めだけは理想的だが……なにもない廃墟だ。
 実は千明も、ここをキャンプ場にしよう……という計画は立てていた。ただし予算は少ない。ボランティアを入れるつもりだったけど、どうせなら――
「作ってみないか。私たちで」
「……考えとく」
 リンがこういう時は、「肯定」という意味だ。千明も長い付き合いだから、それがわかっていた。
 話もまとまったところに、なでしこがやってくる。どうしてここが?
「え? だってあきちゃんがここに集合だって言ったから」
 タクシーでの移動中、千明は高校時代の仲間達にメールで居場所を伝え、招集をかけていたのだった。が、酔っ払っていたので、その時の記憶がない。
 意図したものではなかったが……思いがけず高校時代の仲間達が集まり、自分たちのキャンプ場建設が始まるのだった。


 ここまでのお話しで25分。細かいところを見ていきましょう。

 といっても、そんなに掘り下げるところもないんだけど……。

 テレビシリーズの物語から数年。劇場版では大人になったなでしこ達が描かれる。こうした女子高生を主人公とした作品は山ほど描かれてきたが、「その後」が描かれた作品は珍しい。ではどうして大人になった姿が描かれたのか。その意義とは何か?

 現代における「女子高生」という社会的な立場を考えてみるとわかるが、女子高生というのはほとんどの場合、ただの「消費者」である。「生産者」になることはほとんどない。学生という立場である限り、誰かが作ったものを消費する人間でしかあり得ない……。それは誰もが承知していることで、だからこそ「何を消費するか」をアイデンティティの拠り所を探そうとするし、「何を消費しているか」で社会的立場も決まり、その社会的立場には「階層」という要素もあるので、若者達はそれで日々不毛なマウント合戦なんかやったりしてしまう(大人になってもやり続ける人もわりといるが)。
 世にある、山のように作られた「女子高生がなにかをする」という漫画作品を雑にまとめると、だいたいすべて「ただの消費者の物語」でしかない。こうした漫画作品の中にある女子高生が、自らの力で何かを生み出したり、新しい何かを提唱したり……といった作品を、私は今のところ1本たりとも見たことがない。そういった作品が存在しないということは、誰からも「作り手の物語」など期待していない、消費者としての意識が強いということだろう(読み手が若い世代だとよりその傾向が強いのかも)
 そこで「大人になった彼女たち」が描かれる意義とは? それは消費者の立場から生産者の立場に回ることにある。

 そこで大事になるのが、大人になった彼女たちがどんな仕事を選択したのか。志摩リンは名古屋の出版社でライターをやっていて、各務原なでしこはアウトドアショップの店員。キャラクター達がバラバラになって、それぞれの仕事をしていて、やがて一つの目的のために集まってくる……という物語になっている。
 私は兼ねてから、「仕事とは社会の中における自己実現を達成する場」と語ってきている。学生のときはただの消費者でしかない(大人になっても「ただの消費者」意識が抜けない人は山ほどいるけど)。そこで消費することで「自分とは」という自己表現をしようとするが、そこには限界がある。所詮は誰かが作ったものを消費しているだけでしかない。
 そこで大人になって社会に入っていき、自分が関わったものが世の中を変えていく、という状況になる。消費者から生産者に変わる。そこで達成できたものにプライドを持ち、その積み重ねがその人間にとっての自己実現の物語になっていく。
 しかし現代の問題は、自己実現というテーマとはまったく関係ない仕事を仕方なくやらねばならくなったこと。ただお金のために働いている……という人々が増えたこと。「仕事と自分」が正しくマッチングすることが稀になってしまった。仕事と自己実現が結びつくもの……という考え方自体、薄くなってしまった。
 と、いう話は横に置いとくとして。
 劇場版『ゆるキャン△』はここがうまく機能していて、それぞれが達成したい自己実現のテーマを持っていて、それに相応しい職業に就いている。「女子高生が何かをする作品」という一群の中の1本に過ぎなかった『ゆるキャン△』が、一歩先に進んだ……というところでもある。

 ただし、その社会の描き方に引っかかりもあって、まずオッサンの描写がいまいち。風景の描き方も、キャンプ場周辺の風景と較べて薄っぺらい。リアルな職場風景には見えない。
 アニメに登場するキャラクターたちは、リアルな社会を持ち得ない。女子高生という仮面を被った異世界の住人である(あんな目のでかい人間がいるものか)。彼女たちが過ごしている「学校」とは閉鎖サークルで、彼女たちは基本的にその中でしか生きていけない。そんな彼女たちが外には、どんな社会が広がっているのか。
 そこをきちんと描けているか……というとうまくいっていない。学校の中、という濃密な世界観に対し、妙に薄っぺらい。テンプレート的なオッサンばかり出てくる。そんなおじさん達の世界に、あのキャラクター達がうまく馴染んでいるか……これも失敗している。どうにも違う漫画作品のキャラクターが居心地悪く同居しているように見えてしまう。

 もう一つの問題が、アニメの少女達が「大人になった」姿をどう表現するのか?
 女の子のごく普通の成長曲線を見てみると、だいたい13~14歳くらいで成人と同じ身長と体格になる(男子はもう少し遅く15~16歳)。成人女性と比較しても、体格などの見た目はほぼ一緒となる。元来、これくらいの年代が成人であった。
 漫画・アニメの世界で、どうやってその後の成長を表現するのか……が問題だった。高校卒業後、さらに身長も伸び、オッパイも大きくなりました……。それはあり得ないのだけど、そう描写しないと学生時代から社会人への変化を表現するのが難しい。
 おまけに『まんがタイムきらら』の住人は、女子高生としてはあり得ないくらい幼くキャラクターが描かれることが多い。『ゆるキャン△』は漫画のキャラクターのまま、大人の社会に進出していく様子が描かれたのだけど、そこでうまく馴染ませることができたのか。とてもではないが、うまくいっているようには見えなかった。これは『ゆるキャン△』という単一の作品だけではなく、現代の漫画キャラクター全体における課題だろう。

 とにかく色々あって、「自分たちでキャンプ場を作るんだ」というテーマを持って、かつての仲間達が集まってくる。予算カツカツで人も雇えない……それじゃかつてのキャンプ仲間を集めよう……という冒頭の展開はうまく行っている。それぞれで仕事を持っていたキャラクター達が、一つの目的のために地元に集まってくる。あの時終えたと思った青春が、大人になって再開される。

 その物語の中で、繰り返し描かれるのがキャラクター達の過去。キャンプ作りをやっている過程で、自分たちは何が好きだったのか、原点はなんだったのか――そこに遡っていく。
 劇場版ははっきりと志摩リンを主人公として描いている。志摩リンにはライターの仕事があるので、様々なキャンプ場を取材として巡っていく。その過程で、どんどん自分の原体験的な風景へと遡っていく。物語後半で、高校時代に乗っていたバイクに戻るという演出もいい。高校時代好きだったものを、現在形のキャンプ場作りというテーマに上乗せしていく。あの時は消費者の立場でしなかったけど、今は生産者の立場にいる。そこで何を作るべきか?

 キャンプ場作りというテーマが、冒頭のシーンへと繋がってくる。あの時、好きなように未来を語っていた。それとは違う未来だと思っていたけど、実はもっと純度の高い形で自己実現を達成しようとしている。そこには冒頭から後半に至るまでの、一筋のしっかり連なったドラマがある。よく練られた設計であることがわかる。
 キャンプ場のコンセプトの中に、「キッズスペース」と「ドッグラン」が入ってくるけど、それも小学校教師になった犬山あおいと、ペットサロンのトリマーとなった斉藤惠那のアイデアだ。それぞれのキャラクターとキャンプ場作りのテーマがちゃんとリンクしている。

 しかし――率直な感想として、「映画になっていない」。
 画面の作りも、物語の構成を見ても、どれを見ても映画になっていない。それがこの作品の一番の難点。
 まず画面作りだが、画面一杯にキャラクターの顔だけ……というシーンが多い。これは25インチ前後のテレビであれば問題ないが、劇場のスクリーンで見る映像ではない。
 ならば風景の描き方は……そこも良くない。実際の場所をロケハンして、精密に再現した……しかしそれが美しいかというとぜんぜん美しくない。ありきたりな絵はがき的な風景がただ漫然と描かれているだけ。森の空気感も表現できてないし、遠くに見える山脈の立体感も表現できていない。テレビアニメであれば、この程度の描写であれば感心されるが、劇場スクリーンで勝負する絵ではない。

 演出の作法もテレビのまんま。とりあえず顔を見せる。顔で語らせる。これはテレビ演出であって、映画の演出ではない。
 緊迫感を出すときはとりあえずローアングルになるが、それもパースがガタガタに崩れて、緊迫感以前に絵になっていない。テレビであれば、漫画的な記号の組み合わせでも成立するが、劇場スクリーンではこれらの演出は通用しない。

 後半、クライマックスに入り、急に珍妙なトラブルが発生するが、いかにも「とりあえずな山場」を作りました、という感じで感心しない。展開が雑。とってつけた山場。そういう山場は盛り上がらないし、それを切り抜けたところで感動もない。あれだったら、何もしないで「キャンプ場が完成しました。めでたし」のままのほうがまだいい。物語後半に向けて、大きなドラマ的な導線ができていないからこうなる。

 物語の構成について、それぞれのキャラクターが大人になって、本当の自己実現を達成する……というテーマ自体はいいが、そのテーマが最後にうまく着地できているか……というできていない。どこか骨のない。ただのテレビの延長上のお話しで終わってしまっている。そこが惜しい。

 女子高生がキャンプをするだけの作品。そこから一歩進んで、自分たちが生産者になる。
 そういう過程が描かれた作品としては高く評価できる。数ある「女子高生もの」から一歩進み出た、珍しい一本となった。
 だが映画作りとしてあまりにも手際が悪い。映画の画面が作れていない。後半に向かって行くドラマも弱い。映画を作るには、スクリーンで映えるヴィジョンが必要なのだが、明らかにそこが欠落している。これは映画ではなく、「テレビスペシャル」程度のスケールでしかない。

 しかし京極義昭監督にとっての初めてのテレビシリーズで、さらに初めての劇場映画と考えるとこんなものあろう。どんな名監督も最初の1本目は失敗するものだ。それにまったくダメな映画というわけではなく、目指そうとしているものはちゃんとあったし、とりあえずエンタメ映画としては成立している。画面構成がまったく悪いわけではない。まだまだ若い作家であるし、これからが期待だ。映画監督は50代になってからが本番。次の作品に期待しよう。

 劇場版『ゆるキャン△』はそんなつもりもなかったと思うが、世にある「女子高生物」に対するある種のアンチテーゼ的な作品になった。ただの消費者の立場から、生産者へ。作り手の立場になり、何を作るか、というテーマから改めてそのキャラクターを掘り下げる。結果的に、よくある女子高生ものより深いところまで掘り下げることができた。そんな作品は他に例がない。
 一方で様々な問題も提示された。学校の中という聖域の中では生き生きしているキャラクター達は、社会に出てみると異物。外の世界のキャラクター達とうまく噛み合ってないし、その外の世界の人々もメインキャラクターと同じくらい厚みを持たせられか、というと失敗している。これは漫画のキャラクターの有り様についての、今後長くつきまとってくる課題になるだろう。
 それでも、この作品は今までになかった世界観を提示できている。女の子達を学校という聖域の外に出すことができて、そこからさらに物語を紡ぎ出すことができた。それは『けいおん!』でも成し得なかった境地だ。このジャンルものが成長した証だろう。
 あとはこの先をどのように表現するか。少女達とともに、ジャンルそのものも成長する。その行く末がどうなるか……に期待したい。


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とらつぐみ
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