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2023年冬アニメ感想 その他

 ここからは前クールからの継続作品と、独立した記事に上げるまでもない作品の話。

うる星やつら 2クール目

 上坂すみれ=ラムが可愛い『うる星やつら』のつづき。
 前回、『うる星やつら』はあくまでギャグ漫画だからキャラクターたちに厚みがない……という話をした。メインキャラクターたちをいくら掘り下げてもそこから新しい物語は生まれない。同じことの繰り返しになるから、どんどん新しいキャラクターが追加するしかなくなってくる。

 そういうわけでどんどん新しいキャラクターたちが登場してくるわけだけど、その結果――だんだん面白くなってきた。今の『うる星やつら』の状態をイメージで例えると……それぞれで《固有の持ちネタ》を持っている芸人が集まってきている……という感じ。出てくるキャラクターたちは相変わらず厚みがないんだけど、でもそれぞれで持ちネタを持っていて、それがメインキャラクターたちとぶつかりあうと良い感じの化学反応が起きてくる。
 キャラクター数が増えてくるとだんだん手数も増えてくる。「この場面にはあのキャラクターを投入しよう」という感じでエピソードが練られている。作者もだんだんどのタイミングでどのキャラクターを出せば良いかわかってくる。厚みのないギャグキャラクターだから、あるシチュエーションに対し同じリアクションしかしないんだけど、これだけキャラクターが増えるとあらゆるシチュエーションにハマるようになってくる。「オチにチェリーを使おう」……という感じでいきなりチェリーが出てくるけど、そこでこの作品における「定番オチ」になってくる。
 そうするとだんだん純然とした「コント劇」として楽しめるようになってくる。まず「ネタ」があって、そのネタに対して控えにいる芸人たちの中から「今回はこの人とこの人を使おう」という感じ。
 ただ、それで毎回面白いか……というとそういうわけでもなく。アタリハズレはある。そういうアタリハズレがある……というのが昭和時代の作品という感じで悪くない。

 コント劇として賑やかになってくると、起きてくる問題が主人公であるはずの「諸星あたるのサブキャラ化」。
 なにしろ諸星あたるは美女を見たら「おねーさーん」と飛びつくだけ。それだけが諸星あたるが持っている持ちネタ。
 するとコントの中でもメインとして扱いにくい。むしろメインは他のキャラクターに取られがちになっていって、諸星あたるは時々出てきては「おねーさーん」と飛びつくだけ。そしてラムの電撃を喰らう……という定番展開。諸星あたるは美女を見れば「おねーさーん」と飛びつくから、物語の中で作動させやすい、介入させやすいキャラクターではあるのだけど、しかしそれしかないキャラクターでもあるから、どうしても物語の中心になりづらい。
 それに後から登場してきたキャラクター達のほうがはるかに個性的であるため、諸星あたるのキャラクターがどうしても薄味に感じられてしまう。後から考えると、そんなに面白いキャラでもない。
 そこまで大きなプランを立てた上で作られたお話しではなく、後からどんどん建て増し的にキャラクターを追加していったゆえの問題。高橋留美子の想像力が初期の頃からどんどんブーストがかかってきている証拠でもある。

 前回の感想文で表現に関する不満を書いた。空間表現があやふやで説得力に欠く……と。
 しかしギャグ漫画は現実ではちょっとありえない「おかしなこと」をしなければならない。そこで笑いが起きる。あまりにも空間をガチガチに表現してしまうと、ギャグ表現がシックリ来なくなる。
 漫画であればそこは問題なく繋がる。なぜなら漫画は都合良く背景がミュートにされるからだ。空間が表現されていなくても、読者が勝手に脳内で補完してくれる。
 背景をしっかり作り込んだコントよりも、何もない舞台上に椅子とハンドルを持った男だけを置いて「車に乗っています」というコントをやったほうが笑いが起きやすい……というのと同じ理屈だ。
 ギャグアニメの難しさは、漫画で描かれていない空間表現をあえて再現しなければならず、それをきちんとやりすぎると原作漫画が持っている軽妙さが喪われていく。ギャグ漫画は「おかしなこと」の連続だけど、読者が脳内補完するので繋がっているように感じられる。それを映像作品にすると「時間」が発生してしまう。ギャグ漫画は読んでいるときのリズムが大事。アニメにするとどうしても整いすぎて漫画を読んでいるときのリズム感が喪われてしまう。
 そういう意味でギャグ漫画のアニメ化は難しい。
 という感じに思っていたのだけど、こちらの画像を見てほしい。

 ラムちゃん可愛いよね……じゃなくてちょっと不思議なカットインが入っている。これを見て「なるほど」と納得。キャラクターをレイヤーとして上へ重ねていったら、空間を表現しなくていい。それにカットを切り替えず、パッとキャラクターが出てくるから、リズムが壊れない。「アニメはそのカット内で空間を表現しなければならない」という文法を壊して表現されている。
 なるほど、演出面も試行錯誤しているわけだ。

 奥になった絵が明るい色使いになって、うまく差異が作られている。見た目としても綺麗。こういう表現は現代のアニメカラーが豊かになったから。旧作ではできない表現だった。

 ただ、この方法でも毎回うまくいっているわけではない。やはりアタリハズレはある。演出も作画も試行錯誤を重ねながら、少しずつこの作品における「表現の正解」を探しているのがわかる。

 名作『うる星やつら』も40年前の作品。当時は今よりもおおらかだったから、連載を続けながら試行錯誤が一杯あった。どのエピソードもアタリだった……というわけではない。時には実験的な変なエピソードもあった。原作からして、結構ハズレが多かった。でも時代的にハズレも許されていた。
 たとえば、プールの底に半魚人が住んでいた、というエピソードや、諸星家に突如として願いを叶えてくれる星が飛来してくるエピソードや……。「なんだそりゃ」というキャラクターによる変なエピソードも一杯あった。
(巨大化する七面鳥のお話しもあったような記憶が……)
 漫画家としての修練を積みながら、時に自由に、時に実験的に展開していったのが『うる星やつら』だった。今では巨匠となった高橋留美子だが、当時は駆け出し作家……連載をやりながらあらゆる実験を重ね、その過程で研鑽していった。そういう作品だから、1980年代アニメ版は当時の作家たちが好き放題実験をやって、そこから押井守が作家性に目覚める……というオマケもあった。
 そういう作品をいま時代にどう扱うのか? 面白いと言われていても、笑いの感性はどうしても今とは違う。「当時の実験」に過ぎなかったものを、現代的なそこそこ完成されたコント劇としてどう成立させるか。そこで試行錯誤はまだまだ続きそうだし、それがどう終着していくのか……。そういうところで興味はある。
 『うる星やつら』は現代の作家たちにとっても修練の場になるかも知れない。

 ところで初期の頃の『うる星やつら』はこんなお話しあったかな……とぼんやりした印象だったが、後のエピソードになればなるほど、私の記憶とも合致してくる。思い出せるお話になってくると「ああ、懐かしいな」という気持ちにもなれて、それがなんとなく嬉しかったりもする。

今季ワーストアニメ お兄ちゃんはおしまい 2020年代の最低ダメアニメ

 今季ワーストアニメ『お兄ちゃんはおしまい』。とにかくもお話しがつまらない。つまらなすぎる。つまらない以上に、作品が空虚。「なぜアニメ化した」と問い詰めたくなるくらいのダメな作品だ。ライバルが出てこなかったら「今年ワーストアニメ」確定の駄作アニメだ。

 こういう批判記事を載せるのは、今の時代どうか……という感じがあった。言葉選びを間違えるだけで、むしろ書いた方がバッシングされる。そういう慎重さが必要な時代だから、「掲載せず」も考えたけれども……。しかしなぜつまらないのか、どこがダメなのか……そこははっきり書くべきだ。それに私としてもこの作品に対して言いたいことがある。一言で言うと「こんなアニメ作るなよ」と。つまらない以前に、許せない。いや、許してはいけない。作り手の端くれとして、意思を示さねばならない。こんな作品、作ってはならない、と。
 そう感じたのでブログに掲載することにした。

 まず、どうしてこのアニメを見ようと考えたのか。
 ラジオで「アニメーションが凄い作品がある」という話を聞いたことが切っ掛けだった。Twitterを見ていると公式サイトが一部シーンを切り出して数秒のクリップを作っていたのだが、確かにアニメーションが良い。手書きでここまでしっかり“キャラクターの動き”を追い求めた作品はそうそう見たことがない。こんな見事なアニメーションが作られているのなら、是非見たい……そういう切っ掛けだった。

 まずはオープニングシーンのこちらを見て頂こう。

 これは凄い! キャラクターの周囲をカメラが回り込んでいく……というアニメではよくあるシーンだが、“ブレ”がまったくない。カメラの動きがやや低速で、人物の色んな面がジワジワと見えてくる……という動きだが、デッサン上の狂いがまったくない。アニメキャラクターというのは3Dで作ってみるとわかるのだが、正確な立体に描き起こすことができない。こういう低速でカメラが回り込んでいく……という動きをするとどこかで“おかしなところ”が見えてしまったりするもの。そういうところがまったくない。しかも髪の毛が常に動いていて、こちらにも破綻がない。とんでもなく難易度の高い作画を、軽々と描いているように見せかけている。

 比較動画はこちら。『うる星やつら』の1クールエンディングシーン。空中にいるラムがゆっくりと回転している……という場面。
 この場面を見るとわかるが、立体がおかしい。女性の体なので胸、腰、尻までのラインにメリハリがあるので、回転の動きをするとそれぞれで回転速度が変わる。ウエストの動きがやや遅く、ヒップの張り出した部分がやや早くなる。
 ところがこちらの動画は回転するときに立体がやや崩れる。デッサンが崩れるし、回転速度も一定ではない。線で繋いでごまかしているけれど、見ていると変な崩れ方をしている。
 これが「普通」の作画。人物を回転する動きを描こうとすると、どうやってもどこかの形が崩れる。速度を一定に維持して作画するのも難しい。そもそも作画難易度的にかなり難しい。

 それを『お兄ちゃんはおしまい』ではスローで見てもデッサン上の崩れが発見できない、完璧なまでに一定速度の回り込み動画を描いていた。「これCGじゃないの?」という精密さ。手書きなのに制作会社オレンジのCGアニメと張り合えるくらいのアニメーションを作っている。あのオープニングを見ただけでも、エース級のアニメーターを揃えた上でアニメーションを作っている……ということがわかる。

 作品本編もとんでもない作画だらけ。第1話はほとんど室内での対話なのだけど、構図が凄い。キーボードをなめ込んだり、コーラのペットボトルをなめ込んだり。構図だけで飽きさせない工夫が山ほど施されていて、そのうえに見事なくらい作り込んだアニメーションが描かれる。ちょっと見ただけでも「あ、これは凄いアニメだ」とわかるクオリティだ。

 ただし、だ……。
 お話しがあまりにもつまらない。このシナリオ、ゴミ箱から拾ってきたの? と尋ねたくなるくらいにつまらない。第1話は23分の内容が2時間に思えたほど。あまりにもつまらなすぎて、5分おきに時計をチェックしてしまうほどだった。
 あまりにもつまらないので、あえて全話見た上で批判記事を書こう……と思ったのだが、残念ながら第3話で脱落。「見るに堪えない」レベルのつまらなさ。こんな原作に予算を出すなよ……と怒りを込めて言いたくなるくらいにつまらない。ここ最近で見た映像作品(映画・ドラマ・アニメ)の中でも確実にワースト1の駄作原作だ。今年1年の中でもここまで出来の悪いシナリオは出てこないんじゃないか……というくらいにダメな作品だった。

 では、どういうところがダメなのか。まずこの作品で語られていることがなんなのか……を見ていくとしよう。
 『お兄ちゃんはおしまい』はダメ人間である「お兄ちゃん」がある日とつぜん女の子になってしまう……というお話しである。第2話ではお兄ちゃんの高校時代が描かれる。妹があまりにも天才的で、その妹といつも比較されてしまう。兄としてのプライドの消失。男性としてのプライドの消失。そこから無気力状態になっていき、やがて引きニートになってしまった……。

 というお話しだが、ここではシンボル的に「兄」と「妹」として描かれているが、これは現代的な「男」と「女」のお話でもある。
 今の時代「女性の社会進出」が強烈に叫ばれている。「女性は男性から役割を押しつけられている」「女性が社会進出できないのは、男性が女性を社会から排除しているからだ」。世間ではこういう声の圧が強く、国際的に日本が「男女平等」であることを示すべく、女性を表社会に出そうという運動が活発である。
 ……これに異を唱えると、「女性の社会進出を妨げるのか!」とバッシングが来るので、ここからの発言は慎重にならねばならない。だがこう言わねばならない。
「本当にそうだろうか?」
 本当に社会の中で女性は粗雑に扱われている? そうは思えない。世の中を見てみよう。女性のみが受けられるサービスはこの世には山のようにある。女性のみが割引になるサービスが山のようにある。
 それにファッションだ。男性ファッションは何十年どころか100年、200年さほど変わらない格好であるのに、女性はありとあらゆるファッションがある。そこで自分を表現できる。一方の男性にはファッションで自分を表現する……ということがほとんどできない。まるで「男はファッションで自己表現をするな」という社会的な縛りすらあるように感じられる。
 女性は「自分らしく」表現することができる。自分らしく表現できるツールが今、山のようにある。今の女性には「可愛い」「美しい」「格好いい」「芋っぽい」可愛らしさというのもある……あらゆる形容詞がある。一方、男は「男らしく」しなければならない。その「男らしさ」の評価基準は歴史を通じて1パターンしかない。男の長所を称える言葉は今も昔も「強い」「やさしい」しかない。
 例えば、適当にAmazonで男性パンツの商品写真を見てみよう。

 これみよがしなマッチョだ。どのパンツの商品写真を見ても、出てくるのはマッチョ。デザインも地味でダサい。
 女性もの下着は機能性だけではなくデザインも様々。それこそなんでもありの世界だが、男性は数パターンしかない。
 男らしさの評価基準は1パターンしかない。マッチョか、マッチョではないか。今も昔もこれからの未来も、評価基準は1パターンのみ。マッチョになれなかった男は、永久にこういうイメージを前にしてコンプレックスを抱くしかない。自分でも自分自身に幻滅するし、他人からも「マッチョではない」ことに批判される――特に女性たちから。

 その一方で、「マッチョであること」の価値観に対する揺らぎがある。どうして広告イメージ通りのマッチョにならねばならないのか。男にも「自分らしく」のイメージがあるかも知れないけど、そのイメージの確立が誰にもできない。マッチョになれば広告イメージ通りの人格としてスポットライトを浴びることができるけど、それ以外の何者かになるとぼんやりした陽炎になっていく。
 そうすると社会の中から男性は次第に「影」のようになっていく。私はこれを「男性の陽炎化」と呼んでいる。

 例えばこちらの作品。『雨を告げる漂流団地』という作品。この作品には少年3人、少女3人が登場する。普通に考えれば、少年3人、少女3人がそれぞれカップリングを作ってめでたし……というふうになるだろう。ところが主人公男女はカップリングが成立したが、次に女の子が女の子同士でカップリングを作ってしまった。残った2人の少年は余り物。あまった少年は「物語としての役目」がとうとう与えられないまま……。『雨を告げる漂流団地』にはそれぞれのキャラクター達に物語があったのだけど、「余り物の少年2人」には最後までドラマがなかった。ただの賑やかし要員でしかなかった。

 こういう感じ。エンタメの世界でも男性には物語が与えられない。主人公格になると物語が与えられるけど、スポットライトを浴びるのは女の子。男性は添え物の役割である。
(よく「女性は物語の中でも男性主人公の添え物」と言われるけど、いったい何を見ているんだ。アニメの世界では逆。男性が添え物。女性が主人公)
 今どき、こういう作品はわりと多い。
 女の子キャラクターは見た目も華やかだし、物語の中で重要な役割を与えられていることが多い。キャラクターとしてのバリエーションも多い。女の子だったらプリキュアに変身もできる。
 しかし男のキャラクターは見た目が平凡だし、あまりバリエーションがないし、たいていは自立する女の子のアシストをする役割で終わっている。男の子に魔法が与えられるのはたいてい、ギャグアニメの時だけ。
 どうしてそうなるのか……というと今がそういう時代だから。
 マーケティングをやっても基本的に「女性」を中心に考える。女性の方がイベントを打った時に動いてくれるから……というのもあるが、男性はマーケティングの世界でも無視されがちな存在になっている。スポットライトを浴びるのは女性のほう。男性は影の扱いである。
 そういう時代を見て考えると、「女性は社会の中から疎外されている。もっと女性は社会に進出すべきだ」……というフェミニストたちの強めの声を聞くと……「そうか?」という気がしてしまう。
 むしろ女性はすでに強烈なスポットライトを浴びて、さらに声を上げてスポットライトを自分に向けさせている。
 そうした時代の中で「影」になっているのは実は男性のほう。男性の方がどこかイメージがぼんやりしている。自分が何者なのか、有り様を示すことができない。なにか言おうものなら、スポットライトを浴びている女性たちからバッシングが来る。それ以前に、男性達は自分が何を言えばいいかすらわからない。
 男性は自分でも自分がどうあるべきかわからない。男性にとっての「自分らしさ」とは? 自分をどう表現すればいい? 結局のところ、スポットライトを浴びようと思ったら体を鍛えてマッチョになるくらいしか道がない……広告イメージ通りのマッチョにならねば、となってしまう。

 『クレヨンしんちゃん ガチンコ! 逆襲のロボとーちゃん』は男性の「哀愁」を描いた作品だ。男性はひたすら「我慢」をし続けている。社会に出て嫌なことを毎日経験している。それも家族のため。黙って耐えて頑張っている……それがとーちゃんの姿、男性の姿だ。
 今の時代、「女性の社会進出」がいかにも素晴らしいこと……と言われている。男性で占められていた場所に女性が進出していく。そういう社会こそが「開かれた社会だ」……というのが、いま時代の正義だ。
 でも本当にそうだろうか。仕事の世界はストレスだらけだ。男は家族のために、つらいことがあっても黙っている。そんな場所に女性がやってくる……それが「開かれた社会」なのだろうか。男はむしろ、女と子供を守っていたのではないだろうか。
 そっちの世界に行きたい……というのなら「どーぞ、どーぞ」という感じ。そっちの世界には良いことなんて何もない……って私はわかってるから。どうしてあんなストレスと名誉欲だけの世界に行きたがるのか、どうしてああいうところに行くことを「開かれた社会」なんて言っているのか、私にはわからない。
 男は女に、「女の役割」を押しつけていたというのは本当だろうか。視点を裏返せば、「女が男に男の役割を押しつけている」とも言えないだろうか。フェミニストで活動をやっている人たちは、本当に「男に男を押しつけている」ということを否定できるのだろうか。
 男も社会の抑圧を受けている。しかし抑圧を受けている事実を言ってはならない。

 でも男は黙っている。それが美学だから――というのもあるが、何を主張していいかわからないから。なにしろ男には、自分らしさを表現するツールがないから。スポットライトを浴びる女性たちの影で、男はひっそりと陽炎になっていく……。

 さて『お兄ちゃんはおしまい』という作品を見てみよう。
 主人公のお兄ちゃんは優秀で、いつもスポットライトを浴びている妹に羨望していた。これはもう一歩踏み込んで見てみると、「女性という性に羨望していた」ではないのか。女の子はあんなに毎日華やいでいるように見える。みんなから愛される。マーケティングの世界でも女性がターゲットにされる。男性はどこか放っとかれる。みんなからほっとかれるし、社会からもほっとかれる。成績優秀、頭脳明晰、運動神経抜群、容姿端麗でみんなから注目されている妹……それは男性から見た女性への羨望そのものを現している。

 ……女の子になりたい。女の子たちの中へ入っていきたい。

 もう男なんて投げ捨てたい。男としての社会的な役割なんてどうでもいい。マッチョにならなくちゃいけない……働いて甲斐性を見せなければならない……どうして男にはそういう価値観しかないのか。女はどんどん解放されていくのに、男に課せられた役目は相変わらず同じ。男にばかり男の役割が押しつけられる。「責任」を背負うのはいつも男。もう男なんて性、投げ捨ててしまいたい……。

 男性達の密かな願望として、そういう気持ちがあったとしても不思議ではない。
 密かにそう思っている男性は、今の時代、多いのではないか。
 誰も感情移入していない、密かな男たちの願望がそこにあるのではないか。

 それがある日、目が覚めると女の子になっていた。
 この構造は「異世界転生」ものでもある。「異世界」に行く代わりに、女の子の体を与えられて「現世」に転生した。
 そもそも世界観設計が嘘くさい。そこそこ大きな家に住んでいるのに、両親の姿が見当たらない。この不況時代にいったい誰があの兄妹の生活費を稼いでいるのか、だれがあの生活を提供したのか……それがさっぱりわからない。わからない、という以前にその前提がない。あの家には「現実」がない。嘘くさいまでの「理想世界」が描かれている。
 妹の設定も嘘くさい。白衣を着て、なにかしらの研究者……という設定らしいが、それらしい姿はまったく描かれず、台詞にも知性はまったく感じられない。あんな研究者、いるわけがない。あれではただの白衣を着ているだけの女の子。
 そこで私は妙な勘ぐりをしてしまう。あのお兄ちゃんが女の子になってしまう以前……実はもっと違う家庭環境だったのではないか。妹は飛び級で大学に行ったりもしなかった。もっと庶民的な家庭に住んでいたのではないか。あんな家に住んでいて、妙な薬を作っている妹がいて……という世界観はすでに「転生後」の世界観なのではないか。それくらいにあのビジュアルには「異世界感」がある。

 設定的にそうであっても、そうでなくても、どちらでも構わない。そもそもそういう設計も何もされていないような作品なのだから。

 この作品『お兄ちゃんはおしまい』のどこがダメなのか……というと私がここまで書いたような、「男性が密かに女性の性に羨望を抱いていた」そして「もしも女の子に転生できたら」という願望話である……ということを作品の中で包括していないから。
 いや、そういう意図のある作品じゃねーよ……という人もいるかも知れない。が、そういう話なのだ。そういう「今の時代に男であることの絶望感」と「女の子になりたい願望」が合わさってこの作品が生まれている。
 何が問題かというと、おそらく作者自身、そういう動機を自分で持ってこの作品を作っている……という自覚すらないこと。無意識に無計画に作り出されている。理想を形にしているけれど、思想がまったくない。「なんとなく書きました」というものに過ぎない。
 思想がないから映像が中途半端。ありきたりな一般住宅が描かれているが、どうしてあんな住宅が描かれたのかというと、想像力が足りていないから。想像力のない人が一生懸命考えた理想社会……しかしそれも現実からぜんぜん抜け出せていない。とにかくもビジュアルのセンスはただの素人。
 まずいって、読んでいる人に「こういうことでしょ」と解釈されないと実像が見えてこないような作品はダメ。それは「表現している」とは言わない。プロになるのはまだ早い。下積みからやり直したほうがよい。

 そういうものに過ぎないから、物語がどこに向かわせたいのか、という計画性がまったくない。ダメな男が女の子になって人生をやり直す……で、それから? がない。主人公が女の子になった……その時点でこの作品はもう終わっているんだ。『お兄ちゃんはおしまい』じゃなくて、この作品が最初の5分くらいですでに「おしまい」になっている。
 物語がすでに終わっているのに、どうにか物語らしくものを作ろうとするから、すべてのシーン、すべての台詞がすでにどこかの誰かがやったものの焼き直しでしかなくなる。オリジナリティなんてものはどこにもない。作家のセンス、作品の独自性がどこにも見えない。焼き直しに過ぎない台詞やシーンを継ぎ接ぎに継ぎ接ぎだから、どのシーンもやたらとモタモタする。お話しが進まないどころか、ずーっと止まっているように感じられる。そのおかげで毎エピソード体感2時間くらいのつまらないお話になっている。思想がないという以前に、エンタメとしてダメ。
 極上のアニメーションが作品の質を引き上げてくれているか……というとそんなこともなく。空虚な対話のなかに、無闇にリッチな動画集がちらほらと流れるだけ。お話しがつまらないと、どこかアニメーションとストーリーが分離して見えて、優れた動画も上滑りしているように見えてしまう(いっそ、アニメ本編を見るよりも、公式Twitterが切り出しているアニメクリップを見ていたほうが面白い)。特に、あまりにもお話しがつまらなすぎる場合は。

 だから私は、「ゴミ箱からシナリオを拾ってきたの?」と最初に話した。アニメの出来が悪いのではない。思想があまりにもなさすぎる。白痴による白痴のための作品だ。だから「今年最低のアニメ」だと最初に書いた。この作品は何か描かれているように見えて何も描かれていない。ただただ空虚――価値のない作品だ。だからこそ駄作アニメだ。
 これをアニメにしよう……と企画を出したプロデューサーたちに言いたい。こんな作品に予算は出すな。こんな駄作に優秀なアニメーターの労力を消費するな。可愛い女の子を出していればいい……そういう安易な考えだけでアニメを作るな。創作を舐めるな。アニメ視聴者を舐めるな。お前たちはその程度ものしか作れないのか――と問われて返せる言葉はあるか。この作品はあなたたちにとっての汚点になるでしょう――そう作り手に言いたい。
 このスタッフが作った作品は、今後見ることはないだろうが。


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とらつぐみ
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