信じないことは疑うこと、考えること。
信じるということ
「個」はグローバルに埋没した
信じる。
安易に何でも信じてしまう。
疑わない。
つまり考えない。
私の周りには、いやどなたの周りにもそんな人が圧倒的に多いのではないでしょうか?
現に私の身内にしてからが、何度騙されてもTVショッピングでまたしても不要なものを買ってしまう、ということがもはや「趣味化」している現実があります💦
昭和初期くらいまではまだ、
「ならん! それは拙者?の流儀に反する」
などと、堂々と異を唱えたり、「個」を主張する野武士も多くいたし、自分軸で物事を判断する気風があったように思えます。
しかし、もはやそれはナンセンスな時代遅れの精神と化してしまいました。
”グローバル”に物事をとらえることが一般化したからです。
民主主義という大義名分のもとでの非民主的教育
「自分」というものが、周囲や社会現象の一部として埋没している。
というより、「個」がない。
そこに「実体」というものが希薄である。
「これでは、どこかの国に揶揄されたり屈辱的な物言いをされても仕方がない。それに怒る前に、果たして我々自身の自己批判はできているのだろうか?」
という「一人語り」は置いておくこととして、
私自身、これはもう完全にやられた結果だと確信しています。
率直に言って、それは丸ごと(アメリカ式=ロックフェラー式)戦後教育の成果だからです。
説明は不要でしょうが、それは「戦後日本教育の間違い」や「ひずみ」とか言った次元ではなく、それこそが(仕掛けた側にとっての)大収穫であり、それを受けた(受けざるを得なかった)日本にとっては前代未聞の大損失だったということにすぎないのではないでしょうか?
よく言われてきたような3S政策(Sex、Sports、Screen)以上に、気が付けば(物心ついたころから)朝な夕なに植え付けられてきた「民主主義教育」そのものに潜むプログラミングに目を向ける人は少ないように思えます。
それは半強制的という非民主主義的なやり方でした。
「なんでそうなのか?」を考えない。
物事を疑うものがいない。
まして自分を疑うものはなおさらいない。
「いやいや、そんなことはない」と思われる方もおられるでしょう。
しかし、多くはたとえ何かに疑ったとしても、
学校や、社会や、世論がそう言っているからで、それは決して自分の意見ではないことが多い。
自己が不在だからこそ大勢になびく。
世論のパワーに迎合する。
それに乗っかっているほうが楽だ。
酷いのは、「そのほうが得だから反対する」なんてことまであるわけです。
実際にあまりにもそういういう人が多すぎて、それに辟易される方のフラストレーションは、どんどん溜まる一方のようです。
権力者の思惑通りの教育に反れるものは除外された
では、どうしてそうなったしまったのか?
それは、「疑う」という行為が悪いことだと教わり、それを信じて来たからだと思うのです。
実際には、疑う、疑問に思うからこそ、あらゆる発明、発見が可能であるのに。
では、なぜ「疑う」という行為が悪いことになったのか?
表向き、それは他人を信じない、学問の知識や学説を信じないフトドキモノということになるからですね。
(それは、現行の社会では「不良」とレッテル張りされます。)
それがゆくゆくは、社会に対する「不信感」を蔓延させることになるから、それをまだ若い芽のうちに摘んでしまおう、ということです。
(さすがにそんな催眠術もほどけてきて、世界各国での国家に対する不信感はもう極限にまでになってきました)
このことは、ひいては、権力者の思惑を信じない、ということに繋がります。
そこです。
この問題の肝は。
「私の言うことを信じて疑わないこと」
つまり、戦後の日本で行われてきた教育は、「考える」という行為を極力阻止しようという、それは実は強制であり、洗脳であったのではないでしょうか?
学校の「教科書」がいい例です。
とりわけ歴史のそれは、あからさまに恣意的に歪められていることは、多くの識者が指摘されているとおりです。
歴史の年号を丸暗記したりする教育は、まだ笑い話で済むかもしれません。
しかし、実際の「史実」と言われものを額面通りに(言われたとおりに=教科書通りに)認識していない、あるいは出来ない者、疑問を投げかけるものは、落伍させられるシステムが「教育」であったわけです。
「考えるな! 覚えときゃいい!」
「民主主義」という(一見主権在民的な)大義名分の下で、右も左も一緒のドグマを刷り込む。
それは、世界(といっても西側)が批判の対象とする「ロケットマン」の国やチュウキョウ(←変換候補に出てこない😆)や砂漠の国の「教育」と何ら変わりないのでは?
しかし、多くはそうした足元を見ない。
空恐ろしいことだと思うのです。
つまり、教育という場で、なにがしかの一元的なメッセージを写し鏡のごとく自らに投影出来たものが、エリートであり、彼こそ明日の世界を担う人財であり、リーダー足りうるわけです。また、そうだったわけです。
考えることによって、陰謀団の手の内がばれることこそ、絶対にあってはならないことだからです。
彼らにとっての脅威になることを恐れての教育(洗脳)である。
そこでのキーワードこそ、「信じて疑わないこと」である。
これは「宗教」と等しいのではないですか?
だから、上から下まで見事に現状に疑いの目を持たない人たちが出来上がってしまったのだと思うのです。
信じないということ
信じない→考える→ハイヤーセルフ
信じないということは、考えることである。
考えるということは、自分の中に入っていくことである。
自分の中に入ってゆくということは、ハイヤーセルフ(真我)に至る努力である。
ハイヤーセルフはマトリクスの外にある。
よって、信じないということは、マトリクスを脱出するためのまず最初の基本姿勢である。
そのように私は考えます。
たとえば、現行の(昨日や、5年前、10年前、20年前と自身が経験して学んできた人生としての)生き方、生き様、そこから学んできた価値観、世界観を、何の疑問もなく信じているとします。
しかし、通常それは自分では「信じている」とは思っていないものです。
いや、まさかそれが「信じていただけのこと」だったなどとは思いたくもない。
今現在の「自分」がそれらの経験によって成り立っていると信じているから、誰しもそのアイデンティティを維持したいと思う。
それが、数十年にもおよぶ「蓄積」によるものであったときに、そこにいわゆる(良くも悪くも)「人格」というものが形成される。
もうそこから少しでもはみ出ることが怖い。
それが揺さぶられることが嫌だ。
より頑なになり、外の意見が耳に入らなくなる。
そうして、本当に自分が間違っていたとわかった日に自己崩壊してしまう。
それが自己の全面否定につながるからです。
「自己否定」をしたことがなく、人生を送ってきたものにとってはそれは自らの力ではもはや立ち上がれないほどのショックに違いありません。
というのも、人格やパーソナリティというものがイコール自己(真我)であると勘違いしているからです。
だからそんな「自己」を否定されたり侮辱されたりすることにはなはだしく抵抗するのです。
まあ、それはどーでもいいような衣装でしかないのにです。
信じて疑わなかったものが実はそうではなかった
しかし、いま、多くの人たちの「信念体系」というものが少しずつ崩されようとしています。
そう信じて疑わなかったものが実はそうではなかった。
そんな転覆劇が、ここにきて加速度的にめまぐるしく展開してます。
自ら築いてきた「自己」という要塞の外堀の石が、一個一個外されようとしています。
もし、その「要塞」が、「社会に役立つ人間」「世のため人のためになる立派な人士」的な、上から与えられたものであって、その通りに生きてきて、実際にそうなってしまった者は、いま目覚めるのか自己崩壊するのかの瀬戸際に立たされているのです。
いったいどんな社会にとって自分は都合の良い人間だったのだろうか?
いうまでもなくそうした「人物像」は、現行の大勢を占める社会の奴隷以外の何ものでもないからです。
それが何をあらわすのかについてはもうお分かりだと思います。
大きく言えばそれは「現代文明」(という実は「物質教」という宗教・カルト)だし、何度も繰り返しますが、その終焉が「今」だからです。
くどいようですが、本気で終わっていく様が見事にわかりやすく形になって出ていますね?
残念なことですが、それに気づかない者は文明もろとも終わっていきます。
そして、多くの人たちがそれに気づき始め立ち上がり始めているのです。
それが「今」です。