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【第二回】朝まだき、妙なる鳥声の楽の音に…

人生というものは、煎じ詰めれば、食ったり、眠ったり、友だちと会ったり別れたり、親睦会しんぼくかい送別宴そうべつえんをもよおしたり、涙を流したり、笑ったり、二週間に一度髪をつんだり、鉢植えの草花に水をやったり、隣の人が屋根からちるのを眺めたり、そういったことで暮れてゆくものだが、そういう単純な人生現象に関わるわれわれの考えを、一種のアカデミックなたわごとでよそおい立てるのは、大学教授連が、その意識内容の極度の貧困、ないし極度の空漠くうばくさをかくすためのトリックにすぎないのである。
それがために哲学は、勉強すればするほど、いよいよもって人間自身のことを難解にする学問となってしまった。
哲学者が哲学について談ずれば談ずるほど、われわれはいっそうわからなくなってしまう。
これが哲学者の業績である。

昨年、首都圏から東北地方の某都市に越してきた私にとって、
現在のもったいないほどの自然環境は願ってもない御馳走だ。
「森の生活」のソローを気取って(笑)、散策に出てみた。
「この道~は~」とか感傷的になったりして。
いい年になると、「感傷」すらすがすがしい。

私は考える、世界でもっとも重要な科学的哲学的発見の九割までは、実際、科学者や哲学者が深更二時、あるいは夜明けの五時ごろに、ベッドの中にまるくなって寝ているときになされたものである。
しかるに、臥床術がしょうじゅつの大切なことを意識している人のすくなすぎるのは驚くべきことである。

夜明けの5時ごろに、ベッドの中で丸くなって…

床にるには、正しいぜいたくな臥方ねかたがある。
偉大な人生藝術家げいじゅつか孔子は、臥床がしょうするのに、「寝不尸いぬるにしかばねのごとくせず」といった。
つまり死屍ししのようにまっすぐに身体を伸ばして仰臥ぎょうがせず、つねに左右いずれかを下にして、横にちぢこまってた。
私は人生最大の愉楽の一つは、床のなかで脚をちぢめてることだと信じている。

拙宅から徒歩わずか5分ほどで、この都市最大の自然公園の入り口まで行ける。予想外のご褒美だ

最大限に審美的愉楽しんびてきゆらくを楽しみ、精神力を活動させたいなら、腕の置き場所も非常に大切である。
もっとも理想的な姿勢は、床の上に平らに伸びる寝方ではなくて、一方の腕か両腕を頭のうしろにまわし、大きなやわらかい枕に頭を三十度の角度に支えておく姿勢だと信ずる。
この姿勢ならば、詩人はみな不朽の傑作を書き、哲学者は人間の思想を革命し、科学者は画期的な発見をすることができる。

同じ風景でも友人らとワイワイガヤガヤやっている際に見るのと、独りで見るのとではその奥行きが違うような。自分の気持ちがそこに投影されているのかも・・・。=この池には白鳥が飛来する

独居と瞑想めいそうの価値を知っている人のあまりすくないのには驚く。
臥床術がしょうじゅつは、緊張した一日の活動の後にくる単なる肉体的休息以上のものである。
臥床術がしょうじゅつとは、日中に会った人々、訪問した人々、ばかげた冗談ばかりとばしたがる友人たち、他人の行いをただして天国行きの保証人になってやろうと世話をやく教会の兄弟姉妹たち、そういう人々のおかげですっかりまいってしまった後の完全なくつろぎ以上のものである。

朝八時まで床にもぐっていたとて、かまうことはないではないか。
上等のかん入り煙草を枕頭ちんとうのテーブルに備えておき、悠々ベッドから起き上がり、歯を磨く前にその日の問題をいっさいかたずけてしまえるとしたら、そのほうがいくらいいかしれない。

規則どおり九時きっかり、あるいは九時十五分前に事務所に出て、奴隷の親方のように社員たちをにらみまわし、それから中国人のいわゆる「齷齪営々あくせくえいえい」として徒事とじに浮き身をやつすより、自分というものをしっかりとつかんでから、十時ごろ事務所に顔を出した方がいい。

「白いものが黒く、黒いものが白く」「白に付いているもの、黒に付いているものは自らを失う」
外に目をやれば、ますますそれが激化している。なんとせわしないことか。そんなことは置いておこう。そして、この小さな丸太の橋を渡り、あっちへ行こう。もう後戻りできないのだから・・・

いい音楽はすべてて聴くにかぎる。
李笠翁りりゅうおうは「楊柳ようりゅう」と題する一文で、よろしく臥床して晨鳥しんちょう(=朝さえずる鳥)を聴くべしといっている。
朝まだき目をさまして、たえなる鳥音の楽の音に耳を傾けてみたまえ。
なんとうるわしい美の世界がわれわれを待っていることだろう。

林語堂著『人生をいかに生きるか(下)』第九章「生活の楽しみ」所収、「一、床にることについて」より抜粋。



林語堂林语堂与烟斗より「リン・ユータンとパイプ」


台湾・台北にある林語堂の旧居(書斎)林悟堂故居



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Monikodo
東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。

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