見出し画像

赤い闇に詩が灯る

 週末に時間を見つけて、自宅で映画を観るようになった。今回はアマゾンプライムビデオで『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』を観た。
 舞台となっているのは1933年の英国とソ連である。英国のガレス・ジョーンズという実在の記者を主人公にした物語であり、原題は単に”Mr. Jones”となっている。ジョーンズは幼少期ロシアに在住した経験があってロシア語が話せる。ジャーナリストとしては首相であるロイド・ジョージの外交顧問を務めるほどの敏腕で、ヒトラーにインタビューした経験がある。ヒトラーやゲッペルスに取材した結果に基づいて、近い時期のナチス・ドイツの欧州侵攻の危機を訴えるが、ロイド・ジョージを取り巻く側近たちには嘲笑われてまともに受け取られず、挙句は外交顧問をお払い箱になる。
 当時のヨーロッパではヒトラー内閣の成立と全権委任法によるナチスへの権力集中が進んでおり、他方ソ連でもスターリン政権が体制を強固にして、第一次五か年計画に基づく集団農場化が進展していた。

(以下、ネタバレがあります。あまりネタバレうんぬんが問題になる作品だとは思いませんが念のため。)

 ジョーンズはソ連の異様な発展ぶりに疑問を持ち、スターリンに予算のつじつまが合わないことについてインタビューする希望を持っていた。そして、ベルリンで旧知だったポール・クレブという友人の記者をあてにしてモスクワへと赴く。ジョーンズは、ポールから名前を聞いていたニューヨークタイムズ社のモスクワ支局長デュランティに逢いに行くが、そこでポールがすでに「強盗」によって殺害されていることを知らされる(後に下手人がソ連当局であることをジョーンズは確信する)。デュランティはピュリッツァー賞を受賞したこともある大物ジャーナリストでモスクワの記者たちを取り仕切っているが、ソ連政府と蜜月状態で、裏の顔はソ連側からあてがわれた薬物と女性に塗れて頽落しきっている。また、その時ジョーンズはデュランディの同僚であるニューヨークタイムズの女性記者エイダと知り合う。そしてエイダがデュランディの「アヘン窟」を嫌っていることを知って親近感を抱き、またポールの情報を持っていることから接近する。

 ジョーンズはソビエト政府の穀物がウクライナから大量に輸送されている情報をつかみ、単独でモスクワからウクライナへ向かうことに成功する。車中で捕縛される危機を察知して上等の客車から脱出し、貧民の乗る車輛に紛れ込む。車中でパンと引き換えにコートを得て、「スターリノ」と名付けられたウクライナの雪の街に着くと、街中に行き倒れがいる。この地で展開される非人道的な場面が、タイトルの「スターリンの冷たい大地」を表象するもので、本作品のハイライトなのだろう。
 まずジョーンズは穀物運搬者に紛れて取材を試みるが、たちまちスパイだと疑われて官憲から命を狙われる。命からがら逃げた先は閑静な村落だったが、静かなのは至る所に餓死者がいるからで、まさしく死の村というに相応しい。ジョーンズは白銀の荒野を放浪することになる。彼は放浪しながらでも取材を忘れていない。例えば道行く子供たちにスターリンを讃える詩や歌唱を聞くが、その隙に食糧を盗まれたりする。また、幼児が生きたまま遺体とともに運ばれる様を目の当たりにして、カメラに収める。飢えと寒さに襲われ、狼に狙われるが、木の皮まで食べてジョーンズは生き残る。といってもこのあたり、生死の境を彷徨っているはずの切迫感はなく、さほど血色も悪くならないので、ジョーンズに超人めいた生命力があるような違和感がややあった。潜り込んだ無人小屋にやってきた子供たちに肉を食べさせてもらうが、それは彼らの死んだ兄の肉であることがわかり、ジョーンズは嘔吐する。姉弟たちは死んで凍結した兄の肉をこそぎ取り、煮て食っていたのである。この人肉食の場面は衝撃的ではあるが、予想のつく展開であり、場面そのものの演出的な凄惨さはそれほど感じないようになっている。
 ただ、兄の肉を食する際の姉弟たちの無感情な眼の演技には凄みを感じた。「僕たち何か悪いことをしているの?」と訴える眼なのだが、それが罪悪感に苛まれた恨みがましいメッセージではなく、善悪の判断を完全に停止した無垢な眼として表現される。この眼は邦題の「冷たい大地」を象徴する最も印象的なアイコンである。飢饉から道徳観念を失って心も冷え切った子供たちは、まるで理性を失った狐か狼のように無垢に飢えをしのぐ獣の子として描かれており、観衆の心までも凍りつかせる。
 ジョーンズが命からがら街に戻ると、やはり至る所に遺体があり、多数の市民が餓死している。生き残った市民は、自然の法則を変えると言って奪っていった連中により死の大地に変わったと語る。ウクライナの地は、かつては作物のよく育つ肥沃な土地だったのである。

 ジョーンズはヴィッカーズ社の英国技師たちとともに、スパイとして逮捕されるが、すぐに釈放される。釈放の手引きをしたのはニューヨークタイムズ社のデュランティである。ただし釈放と引き換えに、ソヴィエトに飢饉などなく、農民や集団農場の効率性を見たとの証言を強制的に約束させられる。この映画では、ピューリッツァ賞の受賞記者デュランティは完全にスターリンに買収された手先として描かれ、ラストでも彼のピューリッツァ賞が取り消されていないことに言及されるなど、強く糾弾している。

 ロンドンに戻り、迎えられた上司と、同席していたジョージ・オーウェルに対し、ジョーンズはソ連の話を書いていると述べる。この映画ではジョージ・オーウェルの『動物農場』を思わせる豚の映像が冒頭に使われ、『動物農場』のオーナーである「ジョーンズ氏」と記者「ガレス・ジョーンズ」を重ねているような始まり方をする。ジョーンズとオーウェルの共通項が示唆されており、これを見るとジョーンズの取材の影響を受けてオーウェルがボルシェビキ批判の『動物農場』を書いたかのような印象を与えるが、ジョーンズとオーウェルの接点が実際にあったかどうか、因果関係は不明のようである。
 ジョーンズは上司に対して、ソ連の飢饉についての真実を述べれば百万人が救われるが、無実のヴィッカーズ社の技師たちが犠牲になるので遠慮していると告白するが、真実を述べるべきだと力づけられる。そして、ジョーンズはソ連の計画経済の欺瞞について講演し、告発する。ソヴィエトは平等主義の実験中なのであって、結論を出すのは早いと擁護する言い分に対してジョーンズは、平等主義は搾取と同様でしかもタチが悪い、ソ連を買い被ってはいけないと述べる。人肉食を誘発するほどのウクライナの真実を見ているジョーンズと我々観衆は、ソ連の共産主義的理想を呑気に擁護する愚見に苛立たされるわけだが、実態がよく見えない当時は、このようにソ連の五か年計画への楽観主義や経済モデルとしての集団農場化への期待がまかり通っていたのも時代の一面なのだろう。

 一方、ニューヨークタイムズのエイダは、ジョーンズの告発を否定するため、ソ連を賞賛する嘘を書かされる。ジョーンズは大げさな表現との記事をタイピングさせられるが、最終的にエイダは署名を拒否する。

 同じころ、ソ連のリトヴィノフ外相からロイド・ジョージにクレームがきて、飢饉についてのジョーンズの発表は撤回を求められる。ジョーンズはそれを拒否するが、それをきっかけとして他紙などから猛烈なバッシングを受け、メディアからこぞって嘘つきだと叩かれ、ロンドンの報道界から干される。ジョーンズはウェールズに戻って地元の新聞社に入り、政治関係記事からは手を引くように言われる。その頃、米国とソ連との国交が成立していたが、そこにはニューヨークタイムズのデュランティの仲介があったことが描かれる。

 ウェールズでくすぶるジョーンズだったが、ある時メディア王のハーストが地元で休暇を過ごすためにやってくると聞き、邸宅に忍び込んでインタビューを試みる。ハーストといえばゴシップ記事で財を成した印象があるが、作中でも、世間にインパクトを与えることを重視して、他紙を出し抜けるかどうかということを最も気にする人物として描かれている。そして、ジョーンズはハーストに直談判して彼のゴシップ意識に訴え、ソ連の人為的飢饉(ホロドモール)を告発する記事の掲載に成功し、彼の主張は再び世間を騒がせることになった。最後は、ベルリンに移ったエイダから再起を報告する手紙がくるが、ジョーンズと二度と会うことはない。ジョーンズは1935年、満州で誘拐され、30歳の前日に射殺されたのであった。

 この映画の邦題『赤い闇』とはどういう意味だろうか。赤は直接的には共産主義を指すと思われるが、映画には描かれていないがスターリンの粛清によって流された幾多の血までも含むのだろうか(犠牲という意味では記者仲間だったポールの死も含むかもしれない)。
 また、闇とは何を意味するのか。闇について視覚的に印象付けたり語られる場面は見当たらないが、闇を暴くであろう光について語られる場面ならある。それはジョーンズが母から聞かされたというウェールズの古詩「木の戦い」を披露するというもので、映画内では二度存在する。一度目は、デュランティの頽廃したクラブで薬物を注射するボニーという女性と会話する際、ジョーンズは「木の戦い」について語り、ボニーは薬物を打った後の高揚感を「そうなの、まるで詩なの」と答えている。ここではまるで会話がかみ合わない。二度目は、エイダが詩を書いていることを知った際にジョーンズは無邪気に喜び、その際にも「木の戦い」を朗詠するが、エイダからは特に反応がなく、会話にすらならない。そのように、女性と語る際に詩をもち出すのだが、それをめぐる女性たちとのやり取りはまったくすれ違っている。
 ジョーンズが嬉々として引用するその詩のフレーズは、以下のように光をテーマにしている。

 栄耀と呼ばれる光を知っている
  I know the light whose name is Splendour,
 炎がもたらす光が高みまでを支配していく
  
And the number of the ruling lights.

 この詩は古代ウェールズの伝説的な吟遊詩人であるタリエシンが作詩したと言われるもので、ケルト語の原題は'Cad Goddeu'、英訳が'The Battle of the Trees'すなわち「木の戦い」というわけである。長い詩だが、そのうちの二行がジョーンズのお気に入りなのである。探してみると、この詩と本作の関係について言及している論文があった。(Cad goddeu', 'the battle of the trees': texts and interpretations (uwtsd.ac.uk)(44~45ページを参照。)この論文によれば、本作の監督はインタビューで、主人公ジョーンズに『木の戦い』という「古いばかげた詩」のセリフを朗読させることによって、彼が「不器用で、オタクっぽく、押し付けがましく、傲慢で......」あることを示したかったと述べたという。この監督の発言からすると、ジョーンズと接する女たちが彼の古詩の朗詠を聞かされるシーンは、ジョーンズの性格を浮き彫りにするために意図されたものであったことがわかる。意味ありげなだけで馬鹿々々しいということだろうか。
 他方で上掲の論文は、本作におけるこの詩の重要性について述べたネット上の批評文(‘Mr. Jones’: Trees, Journalists and Gareth Jones ☆☆☆ – Age of the Geek)をも紹介している。その批評によれば、「木の戦い」という詩は樹木同士がお互いの名前を当てることによって決着するが、その名前当てという決闘過程が、スターリニズムの真相暴露のイメージにつながるという。またこの詩から引用された一節が、ジョーンズの性格と原動力を示すものであるとも述べている。この考えを適用すれば、「木の戦い」の一節を通じて垣間見えるジョーンズの「光」へのこだわりは、真実を暴露するという彼の根本的な衝動であり、文化意思を示すものに他ならない。彼の意図は、作中でジョーンズのよき理解者であったエイダにさえ(この映画の女性監督にさえも⁉)理解されずに終わっている虚しいものでもある。しかし、ジョーンズの内面において、ジャーナリズムという極めて俗世間的な闇を暴く光が、古詩の霊的な感性によって支えられていたことは注目すべきであり、その背景には英国における詩の伝統の広がりを感じとることもできる。ジョーンズは飢えと寒さに苛まれながらウクライナを取材中、スターリンを讃美する詩や歌を聞く。また食人の姉弟に会った後には詩を詠唱しながら子供たちに包囲される幻覚を見ている。このように、ところどころで詩的なものがこの作品に効果をもたらしている。
 闇は光に対置されるが、闇も光も映画の中で視覚的に描かれている印象は受けない。ジョーンズの持っていた光のイメージに対置される形で、ある意味では監督の意図を超えるような解釈において、邦題の『赤い闇』がつけられたとも想像される。

 なお、本作に描かれたジョーンズの姿は事実ではない、との主張が遺族などから行われているようである。例えば映画の中では最も重要な場面のひとつであろう人肉食のエピソードについて、ジョーンズ自身が食べたというのは事実無根であるという。だからこれをジョーンズの伝記的映画だと捉えることは留保する必要がある。全体的に、主張や思いこみの強さを感じる演出もある。しかし事実としての欠陥はあったとしても、ウクライナという場所を問題としていることで、単なるソヴィエト共産主義への批判や当時のジャーナリズムの腐敗といった現象にとどまらず、極めて現在的な意味を帯びてしまった映画だともいえる。すでに指摘されている事柄ではあるが、現在のウクライナとロシア問題の文脈を考えるうえで示唆的な映画になっている。




この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?