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シュステマ・ソラーレの兄弟

 人間がなにかに没入してしまうとどうなるだろうか。剣術に溺れて人斬りになってしまったり、動物に入れ込んで生活形態が動物になりきってしまうなど、ものごとを突き詰めていくと人はしばしば何らかの狂気に至る。学術においてもまた然り。学術研究といえば対象を客体化して冷静に見つめるといった理知的な印象を持つ人もあるかもしれないが、それはあくまで今日において客観性という張りぼてで塗り込められた、近代科学の外面の装いにすぎない。森羅万象を対象とした人間の、とどめようのない好奇心においては、熱情こそが探究の核であり、したがってまた、学術はある種の没入感から無縁ではありえない。

 天文学に傾倒するあまり、ついには自分自身が太陽であると錯覚するようになった西洋の天文学者の逸話が、江戸末期の文献『暦象総覧』(編著者不詳)に収録されている。同書には当時における天文学の世界的趨勢及び最新の研究成果(といってももちろんオランダ経由で入ってくる内容であって、その範囲にはおのずから限界があったはずだ)が掲載されているほか、幕府の天文方をはじめとする天文関係者の消息まで書かれており、現代でいえば学会誌のような趣をもって作成されている。しかし、その人事音信の記述詳細なあまり、通俗的な天文学界隈の噂や流言めいた怪しげな風説あるいは旧聞の伝説までもが膨大に収録されており、それがため、この書物は現代においては学界から顧みられることなく黙殺され、奇書の様相を呈している。

 自分が太陽であると錯覚する西洋人の話は、そのうちの最も奇妙な話のひとつと思われる。それはオランダ通詞を介してオランダ語で聴き取られた、伝説めいた噂であった。その人物は自ら、オランダ語で「太陽」を意味する「ゾン」と名乗り、『総覧』は、まるで通詞自身がゾンであったかのように、太陽系の認識について彼が語ったことを、一人称で克明に記録している。それは現代語で要約すると以下のような話である。

ある晩秋の夕暮れ、湖畔に一人たたずみ、夕陽に美しく燃える湖を眺めていた。とりとめもなく宇宙に思いを巡らせているうちに、緋色に燃え盛った湖と自分が一体となるのを感じた。やがて夜のとばりが下り、奥深く暗い色に染まった水面に点々と星が映じて私を歓迎してくれた。そのとき私は、時間の経過とともに空間が遷移していることが、初めて身体で理解できた。宵闇が空間を支配して、いつしか自ら宇宙のありのままを見ていることを確信した。

 このような冒頭の一節に続けて、ゾンが宇宙において獲得した太陽の視点から、太陽系の各惑星を眺めている様子が描写される。ゾンはここで星々が、太陽たる自分を中心として回っていることを認識する。

私の周囲を少なくとも8人の兄弟姉妹が一定の速度で回り続けていることがわかった。彼らがなぜ兄弟なのかわからないが、おのずと兄弟であることが知覚できた。また、その周回がいつから始まったのかは私自身でさえもわからないが、物心ついたときからそうなっているようだった。私は彼らを産んだ覚えがないので彼らの親ではないはずだが、あるいは私自身も兄弟の一員なのかもしれない。自分以外の彼らについて言えば、彼らは私を中心として、わずかな軌道の違いはありつつも、私からの距離を入れ替えることなく周回していて、それぞれ特徴的ではありながら、類似した性質も持つので、間違いなく兄弟であると思えた。
私は彼らの周回する中心にいるので、彼らのことを引いた眼で見ていた。しかし、不審を感じるのは、どうも彼らは私の周囲を巡っていながら、私の存在を認識していないらしいということだ。
私の顔は火照って熱く、ちりちりと焦げ臭い。見える範囲で自分を見たときに、あかい輝きに包まれていることを知った。それはあの湖に投影された夕陽と同じ、燃え盛る緋色だった。それが、私が太陽ゾンであることを自覚した最初の体験だった。

 そして、それぞれ個性を持つ星たちが、自分を中心として周っている様子を、ゾンは日々見つめている。そして、続いて自分の近辺を周回する各惑星についての特徴が述べられる。すなわち比較的近い水星、金星、地球、火星を四兄弟であると語り、それより遠く離れた兄弟たちについては、遠いので観察不可能だと言う。

私はいつも固定されているので、私の周囲の決まりきった軌道を走りつづける兄弟たちを、飽きても飽きても飽き切っても、観察し続ける羽目になる。たいていの兄弟は静かに回っているが、近くにいる連中をよく見ているとそれぞれに癖があって、時おり疎ましく思ったり、気が散らされることがある。
とりわけ気になるのは私の近くを周回している水星、金星、地球、火星である。私は彼らに特別の愛着(と同時にある種の煩わしさや疎ましさ)を感じ、「四兄弟」と呼ぶことにした。
彼らは時々やかましく騒ぐ。彼らが私の至近距離で一列に重なったときの喧騒といったらひどいもので、まったく馬鹿々々しいことで喧嘩を始める。私は中心にいるので身をかわすこともできず、苦々しい顔で彼らの喧騒を見ている。火星と金星は特に仲が悪い。金星はことあるごとに火星に向かい「気に食わない」などといって騒ぎ出す。火星は火星で負けん気が強く、金星の態度にいつも顔を真っ赤にして怒る。時おり小惑星を投げつけて、八つ当たりする。その際に星が砕けて散り、流星群として降りそそぐ様子は美しい。時には私を挟んで口論を始める。

 次いで、それぞれの惑星についての印象が語られる。
 最も近くにある水星については、短く以下のように評しているにすぎない。

メルクリウス水星」は白面でおっとりしているようだが、表に出る特徴に乏しく、個性を隠し持っている雰囲気はあるものの、その性格についてはよくわからないところがある。

 次に、金星について。

ヴヰヌス金星」は女性的な神秘をまとって、私の周囲のうちではもっとも気高く煌びやかに輝いている。しとやかな美しさというよりは、艶やかで華々しく、観る者をいい気分にさせる。その輝きは、美と愛の女神アフロディーテそのものである。他方でそのまばゆさは、悪魔的な要素も帯びている。しかし性格は高慢で、歯に衣着せぬ物言いが時に争いを生む。

 そして、地球については以下のとおり。

アアルヂウ地球」はいつも青い顔をしている。しかしその青さは病的な不健康なものではなく、美しい青色である。実のところ最も健康そうな身体を持っている。ただし内面には、その青さに象徴されるかのような苦悩を抱えているふうに見える。

 最後に火星について、以下のように述べる。

マルス火星」は、赤ら顔をしていつも怒っているようである。その語調の激しさゆえ、ヴィーナスといさかいになることが多く、アースを挟んでいつも口論している。猛々しく、武断的である。夏には特に元気になり、ただでさえ暑苦しいのにさらに暑苦しさを増す。(ちなみに日本語では火星を「なつひぼし」転じて夏日星とも称する。)

 ところで、ゾンは地球については特別扱いをしている。彼は観察を繰り返すうち、「アース」が、自分が住まっていたところの「地球」であることを悟ったかのように、地球の様子を語り始める。

いつも気にかかるのは地球アースのことである。アースは基本的に大人しく、気分の上下が少なく比較的穏やかで、口論するような性格ではない。しかし時おり、ぶつぶつと独り言をつぶやいたり、時々深刻な顔で何か考えている気配がある。頭が割れそうだとうなる時があり、そんな時は口論していた金星と火星も、地球を間に挟んで両側から心配げに見つめている。地球はいつも身体が重い重いと言っているし、全身を風邪に冒されているようでもある。常に心身のどこかしらに悩みを抱えていて、いずれ重みに耐えきれず、あるいは暑さ寒さに耐えきれず、爆発してしまうのではないかと思わされる。

 ところで、太陽の目を借りて、地球の危機までささやくという妄想めいた話を吹聴する男が、近世キリスト教社会において狂人または危険人物扱いされないわけがない。当然、ゾンは宗教裁判にかけられた。裁判の場において、彼は一度は太陽の立場から、堂々と地球が動いていること、すなわち地動説を主張した。そして、宇宙の中心は太陽である、太陽たる自分であると言ってのけた。

私の実際に見たところでは、地球は動いている。地球は苦しみながら、何年も何年も太陽たる自分の周りを周回しているのであるから間違いようがない。私は地球を助けたいと思っているが、どうにもならない。重い身体を持て余しながら円環運動を続けている地球は、なんと哀れなことか。そしてその現実を認識しないでその上に暮らしている人間という存在は、さらに実に哀れなものだ!

 ところが、この太陽系の兄弟についての宇宙と実世界とを奇妙に重ね合わせた『暦象総覧』の記述は、ゾンが来るべき太陽系の終末を予言するところで、唐突に終わる。

私は何十億年も生きていた。それなりに長く生きて同じ場所にいたが、かわり映えのないような生活の中にもいくらかの問題はある。私は周囲を回っている兄弟たちと話すことはない。近からず遠からず、常に離れて決して交わることがないので、愛着を感じながらも彼らは私にとって雑音でしかない。目の前を周回されながら沈思黙考しているうちに、自分の存在はなにかという悩みに満たされて、私の頭は重くなる。彼らの若い悩みに時おり触れて、私の目の前を通り過ぎて行ったいくつかの未熟な形而上学的問いを思い起こすたび、私はかつての自分の愚かさを恥じ、身体が熱を帯び、汗を噴き出す。もちろん私の表面温度のせいで、噴き出した汗は一瞬で蒸発してしまうのであるが。
(中略)
私は無数の黒い目の点を持っている。そこだけ温度が低いことを、体感で知っている。やがてこの黒い点が肥大化し、私は低温に飲み込まれる。そうすると、私の全体の温度は急速に失われ、やがて周囲を巡る兄弟たちも、力を失って消滅するだろう。

 黒い点とは太陽の黒点のことであろう。そしてそのあと、なんとゾンは自分が太陽であるとの発言を突然しなくなったという。自説を曲げ、地動説を撤回した。おかげで彼は処罰されなかった。ゾンが実社会と太陽たる自分との切り替えをどのようにしていたか、『総覧』の記述からは明らかではない。念ずればいつでも太陽になれたのか、あるいは不規則な瞬間に太陽が憑依するのか、書かれていない。

 ゾンには実世界でも四人の子があったと記されていて、人並みに家族をもち、実社会での生活もうまくいっていたようであり、むしろ人生を有意義に暮らした類の人であったらしい。
 驚くべきことに、四人の子供達は、父親であるゾンから天文への熱情を受け継いだようで、いずれも天文学の道に進んだという。彼らは皆、着実に学業に勤め上げたのち、天文学の発展に貢献したと正当に評価され、後世に至るまで尊敬されたという。天文への熱情そのものは受け継いだが、父親と異なり狂気には至らなかったようである。親子関係の実際がどうであったのか、よくわからない。ゾンが宇宙で感じた四惑星との距離感が、実生活での四兄弟との関係性の類比アナロジーで描かれたと考えると、やや複雑な親子関係も垣間見える。実世界においては、四人の子供達はゾンが宇宙において見た太陽系の四兄弟になぞらえて「シュステマ・ソラーレ太陽系の四兄弟」などと称された。そこには、揶揄や妬みも多少は込められていたかもしれないけれども。

 ここまで読んできて、この話は、どうやらあのガリレオ=ガリレイをモデルとした逸話のようにも思われた。ところが史実とフィクションがめちゃめちゃに組み合わされており、まったく伝記の体裁になっていない。ガリレオには四人の子はいなかったし、四兄弟というならば、彼の大きな功績のひとつである木星の四つの衛星発見になぞらえるべきとも思われるが、そちらは完全に無視されている。あるいはこの四衛星から着想だけ得て、身近でわかりやすい四惑星に置き換えたのかもしれない。ガリレオは水星を充分に確認できなかったと言われており、水星の性格がよくわからないと言っている箇所など、それに符合する。また、ガリレオは太陽黒点の観測を熱心に行ったことでも知られており、最後は黒点に飲み込まれるような形で物語を終らせているところも示唆的である。
 いずれにせよ、天動説から地動説への転換を説いたガリレオの功績に敬意を表し、その天文学への狂おしいまでの熱意に仮託して行われた創作が、『暦象総覧』へと書きつけられたような趣であって、興味をそそられた。天文学といっても「天文の学」というよりは「天の文学」ではないかと駄洒落のような感想を抱いてしまうエピソードなのである。この創作者もまた、天文と創作に魅せられた狂気の人であり、自分自身の熱狂を投影した結果、このような物語の欠片を生み出したのかもしれない。




※『暦象総覧』なる書物は実在しません。念のため。




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