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三島由紀夫『古典文学読本』(中公文庫)を読む—「日本文学小史」を中心に

※本記事は、もっといい記事にできるだろうと思いつつ、まとまらず下書きのまま長らく放置していたものですが、新しい記事を書く時間がないので出してみます。いつか改稿したいと思います。

 すごい本です。この本の内容は、古典そのものの読解に充分馴染んでいない私のような読者にはたいへん難しいのですが、一読してみて、三島なりの日本とか日本人についての秘密を暴露したものであることを直覚させられたような気がします。

 特にこの本の半分ほどを占めている「日本文学小史」と名付けられた一連の文章は秀逸です。これは三島の最晩年の著作で、『群像』誌上に昭和44年から45年にかけて連載され、未完に終わったものですが、それだけに彼の思想の到達点を一部示すものでもあると思われます。「日本文学小史」は、題名の簡素さとはうらはらに、形式的な時代性に無理やり当てはめられた教科書的な「文学」の歴史ではなく、日本において「詩」の持っていた光と闇をえぐり出し、日本人の感情がゆらめくありさまそのものを描こうとした試みだと考えられます。

 まず、三島は彼の「文学史」の方法論を述べます。最初に彼は、形あるものを剥いで、その奥底にあるなにものかを明るみに出そうとする試み(民俗学や精神分析学に代表される手法)は、彼の文学史の方法として適切でないとして批判します。そして、美しさとは外形に表れるものだが、それを文学作品として鑑賞することは果たして可能であろうか、つまり文学作品は「見る」ことができるものだろうかと問いを立てます。そして美的な鑑賞、つまり見ることは可能だという断定から、文学作品の歴史である文学史もまた、鑑賞されなければならないとの立場をとります。

 かくて、文学史を書くこと自体が、芸術作品を書くことと同じだという結論へ、私はむりやり引張ってゆこうとしているのだ。なぜなら、日本語の或る「すがた」の絶妙な美しさを、何の説明も解説もなしに直感的に把握できる人を相手にせずに、少なくともそういう人を想定せずに、小説を書くことも文学史を書くことも徒爾とじだからである。

 次に「文化」に話が及びます。三島は文化を「創造的文化意志によって定立されるもの」と定義します。すなわち文化とは奥深いところに無意識にあるわけではなく、意志の力によって作り上げていくものだというわけです。

 本書を貫くテーマとして、『古今集』の紀貫之の仮名序「力をも入れずして天地あめつちを動かし」が大きな意味を持っているように思われます。これは本書の解説においても指摘されています。この端的な言葉はいったいどういう意味なのでしょうか。物理的な力よりも強い何らかの作用の存在を、紀貫之は感じとっていたということになります。そしてその作用は「詩(うた)」によって出力されるものであるというわけです。

 noteで心の内を表現する文章を書くようになって、本当のことを書いているのかどうかわからなくなることがあります。自分の実感に沿った言葉であるのか、不安になるわけです。そういう経験を繰り返しているうちに、言葉以前にあったものの存在を考えることが多くなりました。言葉で表現しきれなかった感情は、どこへ行ってしまうのだろうか。

 三島がここで書いていることは、わたしには次のような意味に思えてなりません。すなわち、詩(うた)とは自然と歩みを共にするもの、あるいは自然そのものであったのに対し、その調和を阻むものこそが「言葉」だというのです。そうなると、現在の言葉で書かれる詩歌と言われるものの類は全て嘘だということになってしまうのではないでしょうか。すべての言葉が信じられなくなってしまうわけで、これは言葉に全面依存して生きる現代社会の我々にとって、恐ろしいことです。

 あれだけ絢爛豪華な言葉を、文章を駆使して彫琢された文芸作品を作り上げた三島が、常に言葉の無力性に捉えられていたとすれば。どんなに求めても言葉では最高の美には辿り着けないと思っていたとしたら。美しい理想は叶わず、失意に終わるという、三島作品に繰り返し現れるトーンはここに集約されているように思います。

 この地に住む人々の持ち前の緻密さと勤勉さで作り上げたこの日本という国、あるいは自然発生的な共同体とは異なり、言葉や理性をベースに形作られる「社会」なるものに対して、我々は充分に信頼できず、疑念がつきまとっているのではないだろうか。いつも、どこか本当のあり方とは違っている気分にさせられているのではないだろうか。なんとなく我々が感じ続けている心の空漠、ふとした隙間に心に入ってくる物悲しさのようなものの正体とは、このような、言葉と自然の微妙なずれによる、美意識の喪失と軌を一にしているのではないだろうか。そんなことを考えさせられました。

 平野啓一郎氏は近著『三島由紀夫論』の中で「日本文学小史」にふれて、この文学史が未完であるからこそ、三島の「あり得たかもしれないその後の人生と連続し」ており、「人生を終らせようとしていた三島ではなく、現在進行形で思索し続けている三島の姿がある」と指摘しながら、冴えた洞察が随所に見られる点、思想の進展が歴然としている点を評価しています。私は、冴えた洞察が随所に見られるとのご指摘には同意します。しかし冴えすぎてして、冴えた刃で自分を切りつけているような、そんな気がします。どちらかと言えば、思索を続ける三島ではなく、どうしても思索を辞めざるを得なかった三島をこの中断に見てとってしまうのです。

 この文章には三島特有の表現が飛び交っているので、著者の言わんとすることを充分に理解できたかどうか心もとないのですが、今の自分が日本について考えていることをかなりの程度に代弁してくれているようにも思えました。三島作品の表現の美しさ(これも世間では賛否あるところでしょうが)には魅力を感じていましたが、その思考のケレン味に同調していくことは難しかったので、まさか考えていることで気が合う日が来るとは思ってもみませんでした。

 本書は何より編集が素晴らしく、古典というくくりで一冊を編もうと考えた編集の着眼点と、これだけの内容を薄い文庫本に凝縮した智慧に敬意を表したいと思います。


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