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怠けたい

 古来から人間の悪習として、目前のやらねばならないことを脇に置いて、別のことで時間を費やすということがしばしば行われる。いってみればこの記事の執筆もそういう逃避行動として行われていると理解されてよい。実際さし迫った研究報告があるのに、それに取り組む気力がない。そしてこうやって別のことに時間を使ったのちに、ギリギリになって重苦しい後悔の気持ちに苛まれるわけである。そしてそのたびに、どうにも自分は重圧が好きなマゾ気質なのではないかしらと疑う。あるいはいつも辛い、辛いと泣き言を唱えるのが趣味なのかもしれない。

 本当は、ただじっとしていたい。逃避なんかで二重に(つまり本来のなすべきことと逃避行動による作業との両方で)体力と精神力を消耗するのではなく、堂々と正面きって怠けたいのである。こんな暑さでせかせか働くのは馬鹿げていて、エアコンの効いた部屋で一人でずっと寝ていたい。頭をひねるのはしんどいので、ぼんやりとりとめなく考え事をするだけで充分である。人との付き合いを避けているわけではないが、どうにも汎用性の高い会話というものが不得手で、しかも会話が長くなるとすぐに疲れるので、いきおい誰とも話さなくなって、そういう生活を何十年も続けてきたのだから、なかなか外に出て色々な人と議論するということに適合しない。

 思うに、真の怠け者は、弁解などせずしてごく自然に怠けられるのであるから、弁解する怠惰は怠惰ではなくむしろ真面目さを表すものではないか。怠けて苦しいと感じるのは我々が真面目だからだ。最近書店で手に取った梅崎春生『怠惰の美徳』(荻原魚雷編、中公文庫)はそんな我々の怠惰な気持ちを代弁してくれる、怠け者にとっての好著である。どうしても自然に怠けることができず、怠けることに真実らしい言い訳をしたい真面目な人たちは、この著作から引用して言い訳したり、開き直ればいいだろう。

良い装丁。

 例えば表題作「怠惰の美徳」にはこうある。

生れつき私はじっとしているのが大好きで、せかせか動き回ることはあまり好きでない。体質的に外界からの刺戟を好まないのだ。BC級戦犯者の手記に、もうこんな不合理な世界はイヤだから、来世は貝か何かに生れ変りたい、という言葉があって、私を感動させたが、私は来世ももちろん人間を望むけれども、どうしても人間以外の動物ということなら、やはり貝類がいい。植物ならまず蘚苔類。鉱物なら深山の滝なんかに生れ変りたい。滝なんかエッサエッサと働いているようだが、眺めている分には一向変化がなく、つまり岩と岩の間から水をぶら下げているだけの話である。忙しそうに見えて、実にぼんやりと怠けているところに、言うに言われぬおもむきがある。私は滝になりたい。

梅崎春生「怠惰の美徳」

 まず滝は鉱物なのかというツッコミはさておき、滝なんてものはエネルギーを使わなくても自然に他にエネルギーを与える存在である。ちょろちょろした小さな滝であっても生物に水を供給するし、寄りあって大きくなれば電力供給にさえ使えるものなのだから、自らは力を使わずして他の生物の役に立つ存在なのであり、滝になりたいという梅崎の希望は少々贅沢にみえる。しかし元来怠け者とはそういうもので、労せずしてそれなりの立場を得たいという気持も含まれるのである。だからこそ彼の言い分は智恵者の怠惰論にはうってつけであるともいえる。

 また、梅崎はこうも書いている。

 そういえば私はどちらかというと、仕事がさし迫ってくると怠け出す傾向がある。仕事の暇な時には割によく働いて、寝床にもぐり込んでばかりいず、セミ取りに出かけたり、街に出かけたりする。これは当然の話で、仕事があればこそ怠けるということが成立するのであって、仕事がないのに怠けるということなんかあり得ない。すなわち仕事が私を怠けさせるのだ。

梅崎春生「怠惰の美徳」

 ここでは怠けるための逃避行動に言及されている。そして怠け者といえど、エネルギーを使わないようごろごろ寝ているのではなく、意外にアクティブな行動をとることに驚かされる。逆説的な言い方だが、怠けるためには労を惜しまないのであって、これはいったい怠け者なのかという疑問さえわくが、結局のところ怠惰は義務的行動の対極にあるわけである。怠惰とは義務の強いる精神的な重圧から逃れたいという気持であり、義務の網の目のような現代の桎梏から一種の無責任体系へと自分を解放する行動なのだろう。我々は責任を負いたくなんかないし、恥もかきたくないのだ。なるようになるさ、ケセラセラ。他方で、それでよいのかという気分が胸の奥からチクチクと差してくる——

 怠けるにおいて適度な運動は必要か。そういえばいつか読んだ本のなかに、古代中国王朝における陰陽論(?)では、身体を動かすことががエネルギーの消耗であって望ましくなく、天子にエネルギーを使わないことがその長命のためには重要で、したがって天子は自分で歩くことはなくいつも輿に乗っているのだという話があった。とても現在では受け入れられない説だろうが、怠け者にとっては、じっとしていることを正当化する屁理屈として望ましいのである。人間生活には適度な運動が必要だと言われるが、どこまでが適度かというラインは人によって相当に異なるはずだろう。であればじっとしているのが最適という人もいるはずだ、と。

 とにかくここまで書いてきて、もうギリギリのところまで怠けたので、次の逃避行動に移ることとしたく、この辺で終わりにする。自責の念が追ってくる。ため息が出る。





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