漱石『彼岸過迄』の散歩道
春になると散歩したくなるのが人情で、古今の散歩本でも小脇に抱えながら、ぶらりぶらりと行く当てもなく彷徨いたくなる…などと考えながら、先日古書店で安価で購入した文庫本の武田泰淳『目まいのする散歩』とルソーの『孤独な散歩者の夢想』をぱらぱらとめくってみたりしている。
武田泰淳は『目まいのする散歩』に収録された「笑い男の散歩」という小文で、「漱石はノイローゼにおちいり、いつも自分が国家の秘密の国家要員から監視されているような気配を感じていた」と書いている。そしてそれに続けて、「明治の漱石とは異なり、監視されているという感じのほかに、もしかしたら、自分が誰かを監視する任務をうけているのではないかというスリルを感じる」と述べて、散歩において道行く人々を観察するなかで、スパイ的な感覚に陥る自分を見出している。
夏目漱石の『彼岸過迄』は主人公敬太郎が探偵業に身をやつし、スパイ的要素があるのは周知のとおりだが、それをもって泰淳の認識不足と断案することもできない。『彼岸過迄』における探偵要素は、泰淳が書いているようなスパイ感覚とはまた違った様相を呈している。『彼岸過迄』は、探偵行為を働く敬太郎が感じた「監視するスリル」も全くないわけではないが、それよりは、登場人物がなかなか目当ての人に会えずに行き違ったり、目的地に辿り着けない様のほうが、より多く描かれている。いわば悩めるスパイの姿であり、その描写は、敬太郎ら東京に飲み込まれた登場人物たちが、人生の行方をどっちつかずでブラブラしていることの象徴ともなっているように思われる。この小説は「さまよう小説」であるように感じられる。
前田愛の古典的著作『都市空間のなかの文学』に収録されている「仮象の街」は『彼岸過迄』を扱った論考だが、このなかでは、本郷―須田町―小川町―江戸川橋を結ぶ市電の経路と、小川町―内幸町を結ぶ経路がT字型に配されたことに着目し、それら経路を都市文明の中心軸に見立て、そこからやや外れた場所に敬太郎の友人須永の家があることを指摘している。すなわち須永は都市計画の意図から外れた行き場のない存在(失敗者・隠遁者)であることを選び取っているというわけである。
この図を念頭に置きつつ、果たして登場人物はいかにさまよったのか、実際に確かめてみることが必要である。例えば以下のくだりをみてみよう。
現在の天下堂ビルは、周囲のビル群と比べてひときわ高いというわけではないけれども、薄墨色の無機質な面構えに、各階層でベランダの張り出した懐深い威容で交差点を見下ろしている。須田町のほうからこの天下堂ビルに来るには、確かに細い裏道をくねって到達する必要がある。須永の移転前の本宅があった駿河台から天下堂のほうにやってくるのは容易である。
須永は住居の広さと引き換えに、わざわざ込み入った場所にある住居に引っ越し、そのことで都市空間から追いやられる立場を選んだわけであり、敬太郎はその住居への経路に惑わされる。
敬太郎に探偵を依頼する須永の叔父は、都市計画の果てである内幸町に住んでいる。敬太郎は内幸町について考えながら「すたすた歩い」ているうちに、須永の「イトコ」が、その内幸町からやってくることにはっとする。
ここでも、敬太郎が須永の家に立ち寄ることを諦めたにも関わらず、ぼんやり考えて乗り過ごしてしまい、引き返すさまがわざわざ描かれている。
敬太郎は須永の叔父である田口から依頼を受けて、松本という男の行動を監視するが、本郷から小川町を経て終点の江戸川橋まで向かってしまう。
そもそも敬太郎はこういう男である。
せせこましい下町趣味の隘路に馴染めず、かといって東京という新興の都市空間にも所在なさを感じ、その狭間で出口を求めてさまよい歩いている人々が『彼岸過迄』という小説には描かれている。
かたや今に生きる我々は、完全に都市化された東京という空間で、やはり居心地悪かったり、せせこましさを感じながら、やはり漂流している。そうして漂流しながら、その人々の漂流を生み出している源流を突き止めるために、散歩してさまよっている。